村上春樹の新作

 村上春樹の新作をダラダラと読んでいるのだが、来週後半にはレポート提出もあり何冊かテキストを読まなくてはならないので、その合間にということでなかなか進まない。

 数少ない友人、知人とその話になると、だいたいGW中に読み終えているみたいで、こちらの進捗状況を聞くとにやにやしながら、「そろそろイエローサブマリンの男の子がでてくるよ」とかなんとか。

 とりあえず自分が生まれた年月日を調べるとどうも月曜日らしい。別に美しい顔でもなんでもないのだが。

 村上春樹の新作はだいたいすぐに買って読んでいる。記憶をたどると多分『1973年のピンボール』が出てすぐに買って読み、それから遡ってデビュー作の『風の歌を聴け』を読んだ。そういう意味ではかなりコアな方の読者かもしれない。

 村上春樹の名前を知ったのは多分学生時代のことだ。たしか『風の歌を聴け』が群像新人賞をとってすぐに川本三郎の書評か何かを読んだのだと思う。カート・ヴォネガットの影響うんぬんというようなことが書いてあり、当時いっぱしのヴォネガディアン気取りだった自分はその名前を記憶にとどめていた、そんなところだろうか。

 1980年、新卒で大学内の書店に勤めてすぐに、文庫、雑誌、文芸、新刊の担当になった。教科書や専門書に力を入れているところだったので、そういう部分が新人の元に回ってくる。ようは力を入れていない、予算規模も少ないジャンルということだったのだろう。

 毎日、新刊を品出しするときに、『1973年のピンボール』が配本されてきた。多分2~3冊だったと思う。そのうちの1冊をすかさず購入して読んだ。今、奥付をみると1980年6月となっているから、そういう時期だったのだろう。

 そうしてみると村上春樹を読みだしてから43年の月日が経っている。もちろん同じ著者とずっと付き合っているというのも多分この著者だけのことだ。ただし、昔はそれこそ一気呵成に読むみたいな感じだったが、歳と共に読むスピードは遅くなっている。『ねじまき鳥~』あたりからはかなりスローになった。もっともその頃から小説が長いものになってきたということもある。前作の『騎士団長~』は2~3ヶ月はゆうにかかったかもしれない。

 これまでずっと紙の本で買って読んできたが、今回、村上春樹の本では初めて電子書籍で読んでいる。もう歳なので、600ページを超える本を持っているのはしんどい。あまり外出はしないけれど、そういうときでもハードカバーは重い。紙の本原理主義者の友人などは、電子書籍というと鼻であしらうような感じというか、ちょっと小ばかにしたりするけれど、まあ楽は楽なのである。

 電子書籍についてはkindleを使っている。付き合いは長い。今、手元には4~5つあるだろうか。一番最初に買ったのは海外版のやつである。試しにということでAmazon.comで買った。「.jp」ではなく「.com」である。まだ日本語対応もしていない、キーボードがついていてイヤホンジャックのあるやつである。英語はほとんど出来ないのであんまり使わなかったが、電子書籍とはどんなものかというアタリをつけるために買ったような、そんなことだったか。当時はソニーリーダーズも持っていたような。

 それ以降、kindleの日本語版(所謂初代)が出てすぐに買った。これはまだ現役である。そうこうしているうちに7世代、8世代、10世代と4つがある。まあ今は読書自体あまりしなくなってはいるけれど。

 ということで、今回の村上春樹本も主に2つのkindle、主に家用と外出用で読んでいる。ダラダラと。

 いずれ読み終えたら、どこかでダラダラと読後感想を書くかもしれない。今のところはというと特に感想らしい感想はない。ただし、旧作のある種のリニューアルということもあり、読み続けていると昔の村上春樹を読んでいるようなそういう既視感にかられるところがある。17歳の男の子と16歳の女の子のボーイ・ミーツ・ガール。そして『世界の終わり~』の壁の中の街。

 村上春樹は1949年生まれだからもう74歳になる。ほぼ後期高齢者の歳でありながら、かってと変わらぬみずみしい作品を書くことができるというのは、素敵なことかもしれない。一言でいえば村上春樹は変わらない。二十代の頃から、いやひょっとしたら十代の頃から老成した部分があったのかもしれないが、それがずっと変わっていない。当時的にいえば老成したような若い感性みたいな感じだっただろうか。それがそのまま今も書き続けられている。

 作家によっては年齢とともに作風が変わる人もいる。ピカソのように。でも村上春樹はずっと村上春樹のままである。それを実感させてくれるのが今回の新作、そんなことを思いながら読んでいる。まあ人によっては不満もあるだろうし、マンネリズムという評価もあるかもしれない。

 多分、多くの村上春樹の読者は今回の新作を読み終えたら、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を再読する、そういう人が多いのではないか。先日話をした友人もそんなことを言っていた。書庫にしている一室からあのハードカバーを引っ張り出したとも。自分はというと、本棚の割と目立つところにまだ置いてある。新潮の文芸書書下ろしハードカバー。あのパッケージで出すというのは、純文学の作家にとってはある種のステータスだったように思う。自分も『同時代ゲーム』、『虚航船団』、『裏声で歌へ君が代』とかを持っていたような気がする。

 自分も多分読み終えたら『世界の終わり』を再読するかもしれない。でもそれはハードカバーではなく、多分電子書籍になるような気がする。以前、『ねじまき鳥』を再読したときも、わざわざ文庫を買い直した記憶がある。まあ、そういうものだ。

 今回の『街とのその不確かな壁』は、著者本人が後書きでも書いているように、単行本としては未発表の同名作のリニューアルである。著者として内容に不満足なところがあり、単行本未収録のままだったという。そしてそれが発展して『世界の終わり~』になったという。これもまた懐かしい話である。

 実は作家が不本意な内容とする同名作を読んでいる。当時は村上春樹の新作が出ると文芸誌もかかさず読んでいた。今も探せばあの雑誌、たしか『文學界』だと思うが、どこかにあるだろうとは思う。本棚にはなんとなくなさそうなので、グルニエかどこかか。まあこれをもう一度探して読むかどうかは判らない。

 歳を重ねると、長いつきあいの作家の新しい作品が出ると、いろいとろ思い出すことがある。そういう記憶の蘇りもまた読書の楽しみではあるかもしれない。『ノルウェイの森』は当時つきあっていたガールフレンドと競うようにして読んだ。彼女とはいろいろな本を読みあった。長編小説、それも思い切り長いものを読もうということで『デイヴィッド・コパーフィールド』、『アンナ・カレーニナ』などなどを読んだ記憶がある。たいてい読み進めるのは圧倒的に彼女の方が早かった。そういうものだ。

 まあ今回の村上春樹の新作もダラダラと読んでいく。kindleによれば今は60%くらいだそうである。

 そういえば、ブルーベックの『Just One Of Those Things』がBGMに流れるコーヒーショップがどこかにあれば入ってみたいものだ。多分、小説の中で流れていたのは、わざわざコール・ポーターと書いてるからこっちだろうか。

  

 

 自分が持っているのはこっちだったりして。