ドライブ・マイ・カーを観る

 というわけでアカデミー賞もとったし、濱口竜介監督の「ドライブ・マイ・カー」をTSUTAYAで借りてきた。

 もちろん映画化はされているのは知っているし、評判が良かったことも知ってる。観た友人から「けっこう面白かったけど、観ないの」と言われてもいた。でもなんか気乗りせず、その間にカンヌ、全米批映画評家協会賞、ゴールデングローブ賞などの国際的な映画賞を受賞。そしてついにアカデミー賞国際長編映画賞である。もうこうなるといつか観なくてはから、とにかく観ておかないとあかんという感じになってしまった。

 いちおう村上春樹についていえば、デビュー作の『風の歌に聴け』以来のファンではあるし、新刊が出ればだいたいはすぐに入手して読んでいる。かって村上春樹は『ノルウェーの森』がミリオンになった時だったか、自分のコアなファンは10万かそこらで、そのへんをターゲットにしているみたいなことを言っていたような気がするが、なんとなく自分もその中の一人かと思っていたように思う。

 とはいえ村上春樹もそれ相応に年齢を重ねるとともに、だんだんと自分も熱心な読者ではなくなってきたかもしれない。『ねじまき鳥』の頃は一気に読んで、その後再び読み返すくらいが普通だったが、『騎士団長〜』あたりではそれこそゼイゼイと息切れしながら読んでいたような感じだった。

 『女のいない男たち』もけっこう時間をかけて読んだような気がする。そして今回の映画化された『ドライブ・マイ・カー』も寝取られ男と寝とった男が、死んでしまった女性について語り合うみたいな、ある種喪失感の共有みたいな話として受け取めていたような気がする。そしてこの短編集は正直あまり好きじゃなかったかもしれない。しいていえば関西弁のイエスタディは面白かったかもしれないけど。

 そして映画の方だけど観た感想をストレートにいえば、多くの批評がそうであるように良い映画だと思う。きちんと村上春樹文学の世界が映像化されている。喪失感と再生、他者と自己を理解することの難しさ、そして社会へのコミットメントなどなど。喪失感はある意味、村上春樹作品のほぼすべてに通底するテーマだとは思う。多分、「風の歌」や「ピンボール」の時からずっとそうだ。自己理解、他者理解の難しさとコミットメントは『ねじまき鳥』からのテーマ性だと思う。それはその後の長編小説では切り口こそ違えど、ほぼ一貫しているような気がする。

 そのへんの村上春樹文学のテーマ性が、この映画ではうまく消化されているような気がした。あの多言語による劇中劇によるチェーホフも、まさに自己理解、他者理解の切り口といえるかもしれない。最初は棒読みで繰り返されるセリフ読み、日本語、中国語、手話など、何を言っているのかがわからないが、次第に互いに言っていることが理解され、共感が生まれていく。見事だと思った。

 ただし、繰り返される棒読みの台本読みシーン、もう少し省略できないものかとは思った。総じてこの映画の上映時間180時間、正直長過ぎるとも思った。芸術映画にありがちな冗長さ、実は何度か寝落ちして巻き戻すということもあった。これは自宅で観るにはちときついかもしれない。劇場で襟を正してみればもう少し違っていたかもしれないが、それでも落ちているかもしれない。なんせ大昔も、ヴィスコンティの「ルートヴィッヒ」を3回岩波ホールで観て、毎回ほぼ同じシーン近辺で寝落ちした経験があるくらいだから。

 ただしあの繰り返す多言語のセリフ読みがないと、後半での手話と中国語による稽古シーンでの役者同志の間に共感が生まれた部分が生きてこないし、演劇自体の成功ー演者だけでなく観客を含めた共感性が得られないのかもしれない。でも、映画はやはり編集力なので、もう少し工夫あってもよかったかもしれない。

 映画のもう一つ主要素というか、カメラ、構図についていえばこの映画は計算され、美的に昇華された映像を作り上げている。それぞれのカットでも映像美、構成美を感じさせた。

 役者はもちろん主役の西島秀俊は見事だったと思う。劇中劇でのチェーホフもそつなく演じていた。意外だったのが岡田将生。甘っちょろい二枚目然とした役者という認識だったのだが、この映画では驚くほどの演技を見せていた。特に車の中での西島との会話シーン、それぞれのセリフにあわせてカットバックするなかでの彼のセリフ、演技はある種の妖艶さと、ちょっとしたホラー感覚を醸し出していた。あれは演出を含めて、村上文学の中にある異界めいたホラー性をきちんと映像化していたような気がする。

 実際、カットバックされることによって、車の中での会話が実は車の中にいるのは、家福とみさきだけで、高槻は異界から言葉を発しているような雰囲気さえあった。あれはまさにかっての村上春樹的にいえば、壁の向こうから発しているような声だった。

 岡田将生は真正の二枚目俳優だが、色気もあり凡庸なハンサムを逆手にとったような別の雰囲気も兼ね備えている。あの車中の会話シーンを観ていてなんとなくジャン・ピエール・レオを思い出した。トリフォー映画の常連ともいうべき美しいレオは、場違いで無神経、凡庸な二枚目役で多く出演したが、実は演技力に長けた美しい俳優だ。今回の岡田将生を観ていると、彼なら豚に戯れ、最後に食われてしまう役もこなせるのではと思ったりもした。

 映画「ドライブ・マイ・カー」は短編小説「ドライブ・マイ・カー」、「シェラザード」、「木野」らのシチュエーションを使い、村上文学のテーマたる喪失感と再生を再構成している。そして主人公家福は、自己理解と他者を理解するために、失った妻を正しく理解しその喪失を受け止めるために多言語劇という素材を使ってうまく消化している。おそらく村上文学の映像化としてはこれまでのベスト作品だとは思う。

 この映画に高評価が寄せられるのは、村上春樹が世界的に評価される作家だということが一番にあると思う。おそらく世界中の文学ファン、日本的にいえば純文学ファンに需要される作家なのだと思う。そして映画の構成美、演出力、そうした点でも芸術映画を愛する映画ファンに好かれる映画だとは思う。

 ただしエンターティメントとしてはどうにも冗長であるしダレ場も多い。もう少しテンポよく進める編集も必要だったかもしれない。そのへんがここ数年評価されるアジア監督の作品との違いかもしれない。ポン・ジュノの「パラサイト」はストーリー展開の意外性とテンポがありエンターテイメントとしても惹きつけるものがあった。クロエ・ジャオの「ノマドランド」には、観るものを圧倒するような映像美とフランシス・マクドーマンド以外ほとんどが素人であってもそれを感じさせないような演出力があった。

 そういう点でいえば「ドライブ・マイ・カー」には力技で観る者を圧倒するような何かが欠けている。正統的な映画作りは凡庸さ、冗長さと紙一重の部分がある。でもこの映画に、この映画のテーマにスペクタクルなど求めても仕方がないとは思う。多分、この映画を享受するには自分はいささか歳を取り過ぎているのだと思う。画面に緊張して接することが難しくなっているのだろう。まあタルコフスキーブニュエルなんてはなから寝に行くようなものでもある(若い頃でも寝落ちが常)。それに比べれば「ドライブ・マイ・カー」の寝落ち度などわずかなものだ。

 「ドライブ・マイ・カー」にもう少し大衆性というか、万人向けするようなテンポ、ストーリー展開があればアカデミー作品賞まで行ったかもしれない。でもそうすることによって玄人的批評家の支持は減じたかもしれない。そうこの映画は玄人受けする秀逸な映画なのだと思う。

 この映画は各国での評判により日本アカデミー賞も総なめした。もしカンヌやゴールデングローブがなければおそらく日本アカデミー賞はなかったかもしれない。そしてニューヨーク、ロスアンゼルスセントルイスなど各地方都市での批評家賞、全米映画批評家賞、英国アカデミー賞などと批評家から絶賛されたうえでのアカデミー賞である。知識人や批評家は意外と村上春樹の読者が多いのかもしれない。

 ひょっとしてこの勢いで今年のノーベル文学賞村上春樹が選ばれる可能性もあるかもしれない。少なくともファンからすればカズオ・イシグロよりはいい仕事をしているように思ったりもする。