大塚国際美術館① (9月28日)

 多分、最後の淡路・鳴門旅行となりそうなので、大塚国際美術館に来るのも最後ということになってしまうようだ。これまでに埼玉から車走らせて15度も訪れている場所であり、多分自分が美術鑑賞を趣味とするようになったのも、この美術館に来るようになってからだ。

 ここはとにかく広い。5つのフロアで延床面積は29,412平方メートル。そこに約1000点強の原寸西洋名画が展示されている。その規模がどのくらいかというと、大雑把な比較でいうとこんな感じになる。

メトロポリタン美術館  185,800平方メートル
ルーブル美術館              73,000平方メートル
ニューヨーク近代美術館   58,530平方メートル
国立新美術館        49,830平方メートル
大塚国際美術館       29,412平方メートル
西洋美術館                         17,369平方メートル
金沢21世紀美術館        17,069平方メートル

  海外の著名な美術館とは一概には比較できないけれど、国内では六本木の国立新美術館に次ぐ広さである。国立新美術館は収蔵品をもたず展示スペースだけだが、大塚国際美術館は陶板複製画とはいえ常時1000点以上を展示しているのである。全館を回る鑑賞ルートは約4キロといわれている。

 これだけの広さ、作品点数は正直1日で回るのは難しい。これまでもいつも全部観るには時間が足らず悔しい思いをしたことが何度もある。回を重ねるうちに、今回は上階の現代絵画から降りてこようとか、今回は古代中世からルネサンスバロックを中心にして、近代、現代は端折ろうとか、いろいろなことを試してみた。

 そして今回は最後ということで初めて二日間連続で回ってみようと思った。ここは完全バリアフリーでもあるので、たいていの場合、自分と妻は別行動でそれぞれ自分の興味のあるところから回るという風になる。妻は毎回音声ガイドを利用しているので、ガイドの順に回ることが多く、たいてい近現代で時間がなくなる。自分はもう順不同だ。

 なにかあったり、食事やティータイムとなるとスマホで連絡をとりあう。自分はほとんどの絵やジャンルの場所がだいたいわかっているので、今どの絵の前にいるかを聞けばすぐにそこに行くことができる

 そして第一日目、まずはシスティーナ・ホール。ヴァティカンに行くことは叶わないけれど、原寸でこのミケランジェロの最高傑作を鑑賞できることは素晴らしいことだと思う。

 創世記を題材にしてミケランジェロが1508年から約5年にかけて制作した天井画の陶板複製画である。天井の湾曲部分も陶板で再現する技術力には幾度観ても圧倒される。

 そして天井画から約20年を経て制作されたという「最後の審判」。ここでは従来のやせ細り髭を生やしたキリスト像とは異なり、ギリシア・ローマの理想的な肉体像としてのキリストが描かれている。

 そして皮を剥がれたみすぼらしい姿がミケランジェロの自画像だといわれている。

 

 続いてのお約束がジョットの天井画・壁画によって彩られた美しい教会内部を再現したスクロヴェーニ礼拝堂。

 

 その後、じっくりと古代から中世のコーナーを回る。

 春から通信教育で美術史などを学習しているので、テキストに図像が載っているものも多数あり、それこそテキスト見ながらこれは大塚で観たことがあると得心したものもあれば、今回観ていて確かこれテキストで説明があったなと思うものなども多数あった。

 例えばエトルリア美術を代表する「鳥占い師の墓」なども、テキストでの解説で初めてこれがアルカイック時代から古典時代初期の重要な作例であることなどを初めて知ったものだ。

《鳥占い師の墓》 モンテロッツイ墓地 タルクィニア、イタリア

 また今年、トーハクで開催され地方巡回中のポンペイ展の作品もアレクサンダーモザイクなどもある。またポンペイ展ではたしか「書字板と尖筆を持つ女性(通称『サッフォー』)という名で展示されていたのがこれだったと思う。

若い女性の肖像》

 そしてポンペイ展での出品はなかったが、いつ見てもそのリアルさがとても2000年前とは思えず感心してしまう作品がこれ。

《パン屋の夫妻》

 2000年前、あるいはそれ以前数百年前からこうした写実表現がギリシア・ローマ期に完成されていたことに驚いてしまう。それと共に絵画表現、二次元的表現は古代においてほぼ近現代の水準にあったことを改めて認識する。

 その後、キリスト教の影響下、絵画表現はある意味退行化して、観念的あるいは抽象的な表現に向かうことになる。ギリシア・ローマの自然主義、立体表現を見出すのは14世紀のルネサンスまで待たなくてはならなくなるとは、美術史のテキストに出てくる通説である。

 大塚国際美術館の古代から中世の系統展示によって、そういう図像の流れが俯瞰できる。このへんを眺めていると、もう少し美術史の学習を深めてから何度か来たいものだとつくずく思う。とはいえ財力と年齢部分の時間も限られている。なんとも残念なことだ。

 最近、何かで本でピカソ新古典主義以降の抽象画において、中世やロマネスクからの影響を受けたみたいな記述を読んだような気がする。いわれてみれると、初期キリスト教美術や中世における図像化されたキリスト像、どこかマンガチックなその図像と似通ったものがピカソにあるような気がしないでもない。まあ同時にいえば、ゴーガンにもそれはいえるかもしれない。

 

 その後はB2のルネサンスへ。ここではそれまであまり意識して観ていなかったヴェネツィア派のマンテーニャ、ジョルジョーネ、ヴェッチェリオベッリーニなどを意識して観た。またこれまで全然気がつかなかったが、ミケランジェロに師匠筋であるギルランダイオや パルミジャーノ、コレッジョなども複数作品が展示されていることも知った。

 これまでは漫然と眺めて美しいなと感じ、いつか本物にお目にかかれないかなどと思っていたのだが、ちょっとずつ美術史を学習すると違った目で見ることになる。本当に、もっと学習を深めてから何度も来るべき場所なのかもしれないなと、最後の最後になって気がつくことになった。いやはやというかやれやれというか。

 

 その後は有名どころを細かく眺め、バロックの一部を観たところで閉館近くになり、妻と合流。最後にショップに寄って卓上カレンダーを買った。

 

 気になった有名どころを何点か。

《貢ぎの銭》(マザッチョ)

 

 この作品は、遠近法を絵画に最初に用いた作例の一つといわれている。建築家ブレネッレスキが古代ギリシアの遠近法を再発見し理論家したものを、絵画に応用したもので、中央のキリストの頭の部分に消失点を定め、すべての人物の頭部を一直線に並べてある。

 また「貢の銭」という主題は、収税使に神殿税を支払うように命じられたキリストが、聖ペテロにガラリヤ湖で魚の口の中に銀貨があるのでそれを取りにいくように命じる。聖ペテロは魚の口から銀貨を見つけそれで徴税使に支払う。そういう三つの物語を一つの場面に描き込む異時同図という表現となっている。

 

ヴィーナスの誕生》 サンドロ・ボッティチェッリ

 海の泡から生を受けこの世に降りたったばかりの「天上のヴィーナス」。一節にはティタン神族の長クロノス(ゼウスの父)が、自分の父であるウラノスの男根を切り落とし海へ投げ入れると、そこから泡が生まれアフロディーテとなったという。古代の恥じらいのポーズをとりながら貝殻に乗るヴィーナスを左から西風のゼフュロスとニンフのクロリスによって岸辺に運ばれる。岸には季節と時の女神ホーラがマントを広げて待っている。

 開放的でギリシア神話への憧憬な作品だが、キリスト教的には異教的で官能的な作品と捉えられる。事実、ボッティチェッリサヴォナローラに糾弾され弁明に赴いたという記録もあるという。

 同じボッティチェッリの《春》もまた官能的な作品。

《春(プリマヴェーラ)》 サンドロ・ボッティチェッリ

 《春(プリマヴェーラ)》は、《ヴィーナスの誕生》と同様に祝婚画とされている。中央には愛の女神「世俗のヴィーナス」が春の世界を支配している。右端では西風ゼフィロスがニンフのクロリス抱きしめる。するとクロリスは口から花をこぼしながら花の女神フローラに変身する。ヴィーナスの頭上ではキューピットが優雅に舞う三美神に愛の矢を放とおとしている。さらにその左側ではメルクリウスが天上の雲を笏で払っている。

 メルクリウスはローマ神話での名でギリシア神話では伝令使ヘルメスとされ、英語表記ではマーキュリーと表記され商人や旅人の守護神とされている。

 

 さらにもう一点、フラ・アンジェリコ《受胎告知》の別バージョンも。

《受胎告知》 フラ・アンジェリコ

 フィレンツェのサン・マルコ修道院にあるものとは別バージョンで、こちらはマドリッドプラド美術館にある。大天使ガブリエルから受胎のお告げを受けると同時に天上から神の啓示を示す光線がマリアに降り注がれる。さらに左側では楽園から追放されるアダムとイブも描かれている。サン・マルコ修道院のもの様々なアトリビュートを排して簡素化され、それもあって清楚でスタティックな印象があるのに対して、こちらの方は様々なシンボル、アトリビュートなどがてんこ盛りされている。