インド細密画を観る (11月5日)

 府中市美術館で開かれている「インド細密画展」を観た。

インド細密画 - はじめましてインド 宮廷絵画130点との対話 

(閲覧:2023年11月8日)

 前から気になっていた展覧会だ。会期は11月26日までなので、早目に行かなくてはとも思ってはいたのだが、なんとなく行きそびれていた。いざ行ってみるとこの展覧会でも前期展示、後期展示がいくつかあるようで見逃した作品もあった。まあ残念ではあるけど、そういうものかもしれない。

 インド細密画は16世紀後半頃から19世紀後半頃までインド各地の宮廷で描かれたもので、イスラーム教国のムガル帝国で描かれたムガル絵画とヒンドゥー教を信仰する複数の国々で描かれたラージプト絵画に大別される。色彩の鮮やかさ、華やかさ、そして線描の細かな表現などはラージプト絵画の方が優れた印象がある。

 いずれの絵画も一辺20cm足らずの小さい画面だ。それは西洋画や日本画のように壁に飾って鑑賞するものではなく、手にとって一人で楽しむための絵だったからといわれている。手元に置いて楽しむ、なんとなく鏑木清方の卓上芸術を連想させる。

 細密画というジャンルという点でいえばミニアチュールとの関連がありそうだが、いわゆる西洋画のミニアチュール、中世教会での写本に描かれた挿画のそれとは大きく異なっている。同じミニアチュールでもイスラム美術、ベルシア美術の関連は多分多くの人が指摘しているだろう。インド細密画はおそらくペルシア美術が伝播したものと考えるのが一般的だろうか。

 またインド細密画においては画家の存在感がない。今回出品された作品でも画家が同定されているものは多分一点もない。個々の作品や製本されたものの挿画についても、画家の名はほとんど記されていない。これはインドという厳しい身分社会との関係性があるようだ。画家は社会的地位が低く、ヒンドゥー教においては最下層のシュードラ(奴隷民)に属していたため名前が残らなかったということだ。いわば無名の奴隷民の中の職人によって描かれたものといえる。そういう意味では、インド細密画は芸術品というよりもある種の工芸品という位置づけのほうがあたっているのかもしれない。

 でも、芸術性、芸術ってなんなんだろう。そして芸術品と工芸品の差は・・・・・・。

 画家、製作者の個性なりオリジナリティに立脚しないインド細密画は、没個性で表現も装飾性とともに類型的といえるかもしれない。実際観ていても、どれも同じような顔、ポーズ、表現である。類型性と装飾性がキーになりそうだ。その分、細密とされる線と鮮やかな色彩には目を見張るものがある。

 インドは絵具の材料となる鉱石や植物が豊富で、古くから絵具の名産地だったようだ。藍銅鉱(アズライト)、群青色の孔雀石(マラカイト)、赤い酸化鉄(インディアンレッド)など質の高い顔料が産出している。インドの顔料や絵具は古代から中国や古代ギリシア・ローマに伝えられており、近世以降のヨーロッパにも盛んに輸出された。そのためインド細密画は驚くほどに鮮やかな色彩に満ちている。

 なお、今回出品された作品の多くは僧侶にして日本画家、さらにインド美術の研究家でもある畠中光享氏のコレクションによるという。

畠中光享 - Wikipedia (閲覧:2023年11月8日)

畠中光享 作家紹介 | 薔薇画廊 (閲覧:2023年11月8日)

 

 それでは気になった作品を幾つか。

 

《宮廷婦人の肖像》 ムガル絵画 紙、着彩 14.6✕8.0 17世紀中期・後期

 

《流れの側に座す女》 ムガル絵画 紙、着彩 26.3✕17.2 1880年

 

《ヴィシュヌとラクシュミー》 ラージプト絵画 紙、着彩 17.6✕11.3 19世紀中期

 

《王の肖像》 ラージプト絵画 紙、着彩 17.2✕10.2 1700年頃

 この鮮やかな黄色は、「インディアン・イエロー」という呼び名で16世紀末頃からヨーロッパに盛んに輸出されたものだという。発色がよく退色がしない黄色絵具としてバロック期の画家に珍重され、レンブラントフェルメールも愛用した。

 ただしその製作工程はというと、この「インディアン・イエロー」は牛の尿を原料としている。若い牝牛に水とマンゴーの若葉だけを食べさせると、尿は鮮やかな黄色になる。その尿を集めて煮詰め、底に沈殿した物を乾燥させたものだという。牛を聖なる動物とするインドならではの製造法といえるかもしれない。

 この作品のイエローも牛の尿が材料と知って改めて観てみると、どことなく微妙な面持ちもしないでもない。

 

《宮廷のクリシュナ》 ムガル絵画 紙、着彩 28.7✕18.0 1770-80年

 インド細密画は基本的には空間表現がなく平面的な表現だ。その中でこの作品は珍しく奥行がある。とはいえ透視図的な遠近法ではなく斜投象的でどこか日本のやまと絵のような吹抜屋台風でもある。でも屋上のそれと人物たちのいる空間は見事に歪んでいる。空間性はあまり意識されてもいないし、観る者も特段重要視していないようだ。

 

《楽器を持つ女》 ラージプト絵画 紙、着彩 16..6×10.5 1760年頃

 背景の丘だか山、遠くに飛び跳ねる鹿だかレイヨウだか。そして人物のすぐ後ろの草花の表現。どこかプリミティブな、なんていうかアンリ・ルソー岡鹿之助を想起するような表現でもある。