21日(木)から23日(土)にかけて、箱根と静岡に二泊三日の小旅行に行って来た
二日間とも箱根の健保の保養所に泊まったのだが、多分一年ぶりくらいになるようだ。ここのところ保養所というと、日光か伊東ばっかりになっていたので本当にご無沙汰という感じだった。
今回の旅行も基本は美術館巡りがメイン。21日はポーラ美術館、22日は岡田美術館、23日は少し足を伸ばして静岡市美術館へと三連荘した。それぞれの感想は別に書くことにする。
それ以外に行った観光についてはまとめてみた。
田むら銀かつ亭 (4月21日)
妻が何度も行きたい行きたいと言っていた強羅にあるとんかつ屋である。テレビでもよく取り上げられる人気店のようで、これまで二度チャレンジしたが、いずれも駐車場が満杯で断念したところだ。今回はウィークデーということもあるのと、着いたのがお昼少し前くらいだったので、多分大丈夫かと思ったがすでに満車状態。ギリギリで1台分、しかも一番入りにくいところが空いていたのでなんとか停めることができた。
そして駐車場から階段を降りたところにあるのが上記店構えの由緒ありそうなお店である。道路側の入り口の脇に整理券発行機が置いてあるのでボタンを押して整理券をとる。確認すると15番目という。ウィークデーでこれは凄いなと思ったのだが、12時前に入ったお客が幾組も出てきたので、15分程度待って店内に。
メニューも見るとけっこうお高目。ロースカツ御膳は2915円から。凄えな、箱根は。さすがに昼飯に3000円は勇気がないので、一番リーズナブルで割と有名だという豆腐かつ煮定食(1628円)を妻と二人で食させていただくことにした。
まあ普通に見た目はかつ煮なんだが、このかつは実は豆腐。豆腐の間にひき肉をつめ、パン粉をつけて揚げたまさしく豆腐かつ煮である。お味はというと、まあ普通に美味しかったけど、なんていうんだろう、ちょっと乱暴に表現すれば、厚揚げの間にひき肉を詰めてパン粉つけて揚げたっていうような感じだろうか。まあかつ(豆腐かつ)といえばかつだけど、ある種の見立みたいな感じもした。
妻は豆腐料理好きなのでけっこう満足していた。自分はというと割とがっつりとしたロースかつが好きなのでちょっと物足りない。かといって3000円のかつを食す根性も財力もないので、なんとなく今回でいいかなとも思った。まあ味とかそういうことより、飯食べにいくのに並んだり、待ったりというのが基本苦手なので。まあいつかご縁があればとは思うけど。
大涌谷(4月22日)
ここに来るのは久しぶりである。この雑記の記録を見ると2017年に来ているのでもう5年ぶりになる。その前というと2008年に来た記録がある。多分その間にも1~2回は来ているのではないかと思うのだが、日常雑記以外に記録したものがないのでこれはわからない。
5年ぶりに来ると、なんとなく周辺の雰囲気も変わったような気もしないでもない。大涌谷自然研究路(玉子蒸場までの散策路)は現在はウェブ事前予約による監視員の引率による入場のみとなっているとか。なんでも2015年から立ち入りが禁止されていたとも。いわれてみればその頃、箱根で火山活動が活発になったというようなことがあったようにも記憶している。ちょうどその時期に箱根旅行を計画していて、土壇場でキャンセルしたなんてことがあったような。
ここではなぜか中国系観光客のことが記憶に残っている。ひとつはお土産物屋さんの脇、散策路から戻ってくるところのあたりで、若い中国系の男性がドローン飛ばそうとして係の人に注意されていたこと。なんかわからないが、つまらないことを覚えている。
そしてもうひとつは多分同じ日だったと思うけど、散策路に自由に入れたので、妻は杖をついて途中まで歩いていった。けっこう混んでいる中で妻はゆっくり杖歩行だったので、他の観光客からするとちょっと迷惑っぽい感じだった。そのとき、5~6人のグループで来ていたやはり中国系のグループで、その中で一番年寄りのお爺さんらしき人が、道を空けて妻がゆっくり歩けるようにスペースを作ってくれたこと。自分は一応お礼のつもりで頭を下げたのだが、お爺さんは気にするなみたいな感じでにこやかに手を振ってくれた。
グループは多分家族で、お爺さんはその中で一番偉い人みたいな感じだった。ちょっと華僑のボスっぽい雰囲気だった。中国系観光客のマナーがどうのと騒がれ始めた頃だったと記憶しているが、けっこうワールドワイドに親切な方がいるものだと思ったりもした。
中国系観光客には他でも、京都の天竜寺で車椅子を持ち上げて門の段差を通るのを助けてくれた若い二人の男性とかもいた。あのときもすっと近づいてきて簡単に手伝ってくれ、気にしないでくれみたいな感じがえらく自然というかスマートだった。当然、言葉は英語でこっちのカタコトを理解してくれた。
そういう経験があるので、自分は中国系の観光客に意外と親和性を感じていたりもする。まあそういう記憶が蘇る大涌谷でした。ちなみに富士山は割ときれいな感じでよく見えた。
箱根神社 (4月22日)
ここを訪れるのは多分三回目くらい。いつもなぜか湖畔近くの駐車場に停めて、そこから車椅子を押して長い坂道を登り、それから長い石段の脇に車椅子を押して登るみたいなことをしてた。まあ湖畔で遊ぶみたいなこともあったような。
今回はというと箱根神社の駐車場に行くことにした。ウィークデーなので無料駐車場までスムーズに行けたし、スペースも空いていた。でもそこからだと結局長い石段を登ることになる。あとで確認してみると、停めたのは第二駐車場で、そのさらに上に車お祓い所を兼ねた第三駐車場があるようで、そこからだと石段を登ることなく本殿に行けるようだ。こういうのすぐ忘れちゃうのだけど、次回がもしあればそこまで行くといいなと思った。
長い石段は自分もけっこうシンドイし、妻はというと以前のようには登るのが難しくなりつつあるかもしれない。あとで聞くとその後足がけっこう突っ張るような感じになっていたという。加齢もあるが、運動不足による筋力低下も困るし、本人はどこでも一応行きたがるので、無理はさせたくないけど、出来るだけサポートして行けるとこには行くみたいなことでやっているけど、いつまでこういうの続けられるかどうか。
この神社は前回も感じたけど、どことなく空気が張り詰めたような感じがして割と気に入っている。基本的に無宗教の人だけど、神社の雰囲気は割と嫌いではない。まあ人出でごった返すみたいなところはパスだけれど。
ちょうど昼時だったので、駐車場近くの休憩所兼売店で軽めの昼飯を取ることにした。なんのことはない中華系のツケ麺を食べたのだが、割と美味かった。あとあんころ餅も食べたけど、これはもちがつきたてのせいかえらく美味しく感じた。
登呂遺跡 (4月23日)
静岡市美術館の帰りに寄った。多分三回目くらいになるだろうか。前にここを訪れるたのは20年くらいに前のとことだろうか。子どもがまだ2~3歳の頃で妻も病気になる前のことだった。ある意味では我が家が一番安穏としていた頃だったかもしれない。
遺跡、弥生時代の集落の遺構は子どもの頃から割と好きだった。住んでいた横浜で割と家から近いところに三殿台の遺跡があり、小学校の社会見学なので訪れたことがある。そこに比べて登呂遺跡は規模が大きく、当時的にいえば日本最大級の弥生時代の集落の遺構だったと記憶していた。
一度行ってみたいと思い、多分浜松近辺に遊びに行った帰りに寄ったのが最初だったかもしれない。多分25~6年かそこら前のことだ。当時、出版健保で契約しているホテルが浜松にあり、何度か泊まったことがありその帰りに行ったのだと思う。思えば健保関連の保養所やホテルを中心にして、その周辺をあちこち同じようなところを行っているような気もする。
最初に訪れたときはやはりというかかなり大規模な遺跡という印象が強かった。しかし今回はというと、意外とこじんまりとしたという印象だ。周辺も宅地化が進んでいた、住宅地に囲まれた少し大きな公園みたいな感じで、遺跡としてはけっこう小規模という風に思った。まあこっちも以前に比べて、例えば吉野ケ里とかも行っているので、少々の規模だと驚かないということもある。
遺跡に隣接した博物館もリニューアルして一新された感じだ。受付で聞いてみると2010年くらいに新しくなったのだとか。20年ぶりくらいに訪れると様々なものが変わっているということだ。先月も伊豆の韮山反射炉に久しぶりに行ったときにも、ずいぶんと風景が変わっていたのに驚いた。10年とかそういうスパンとなると、様々な変化があるということ、まあそんな当たり前のことを改めて感じいる。それだけ自分たちも年齢を重ねたということだ。
遺跡の中の細い道を車椅子を押して回る。途中で竪穴式住居の中を見学する。妻もその中を私が手を引いて入る。こういうものにはけっこう興味を示す。美術館より博物館、博物館よりも遺跡が好き、そういう人でもある。
住宅地に囲まれた遺跡の周囲は緑地公園となっている。土曜日の午後、やや遅い時間ということもあり、家族連れが何組か緑地で遊んでいる。遺跡を見学に訪れる人もまばら。なんとなくちょっと行ってみようかみたいな感じだ。
改めて登呂遺跡について簡単に確認をすると、発見されたのは1943年(昭和18年)と戦時中のことで軍事工場建設の際のことだった。その後は、正式な発掘調査が始まったのは1947年(昭和22年)で、考古学、人類学、地質学の学者や学生などのボランティアによる大規模な調査で、これを機に日本考古学協会が発足した。いわば日本で考古学が広く知れ渡り、縄文、弥生の遺跡発掘が盛んにおこなわる契機にもなったのも登呂遺跡発掘だったのかもしれない。
自分が小学生だった昭和30年代は、考古学や遺跡発掘は国民的関心事だったような気もする。そこで当時、日本最大級の弥生時代の集落遺構だった登呂遺跡は子どもの自分にもかなり印象的な存在だったのだと思う。多分、今、60代の人間だと、登呂遺跡というとけっこう反応してくれるのではないかとそんなことを思ったりもする。
三保の松原 (4月23日)
登呂遺跡というとそこから比較的近い三保半島の名所三保の松原にも足を伸ばしたくなる。お上りさんである。
ここに来るのもやはり20年ぶりくらい。海岸や松並木は昔と変わりないが、周辺の環境はずいぶんと整備されやはり風景が変わってしまったような印象だ。なんでも2019年に三保松原文化創造センター『みほしるべ』という施設が開設されたのだとか。
海岸に向かうにはちょっとした勾配の坂道を登っていく。その先には砂地と松の群生地が広がり、それを超えると砂浜に出る。車椅子で羽衣の松のあたりまでなんとか行ったのだが、それから先へは進めない。駐車場に砂浜対応車椅子を貸し出しますという張り紙あったが、なるほどと思った。三保の松原を散策するにはそういう車椅子がないと難しいということ。まあそれを身をもって感じた。
砂浜対応車椅子というと、これも15年前だけど大洗海岸に行った時に借りた記憶がある。確かランディーズといっただろうか。当時は、障害者になった妻に出来るだけ普通の生活をさせたいと気負っていたところもあり、妻が海水浴をしたいといえば、ネットなのでいろいろ調べて、大洗海岸だと砂浜対応車椅子を貸し出してくれることがわかり、行ってみた。あのときも一人で駐車場から浜辺まで何度も何度も往復したような記憶がある。まだ自分も50代そこそこで元気だったか。
時間もかなり遅かったので、当然三保松原では砂浜用車椅子を借りたりとかはしなかったが、後で調べると昔、大洗海岸で利用したのとほとんど同じ砂浜対応車椅子だった。お知らせ - 三保松原
三保松原での滞在は多分1時間かそこら。それからその近くでかなり遅い昼食というか、ちょっと早目の夕食、妻にいわせるとおやつということでラーメン系を食すことにした。五味八珍という静岡でチェーン展開をしている中華ファミレスのようだった。浜松餃子がウリらしいのだが、これは初めて食べた。生姜が利いていてけっこう美味かった。
食事後は一路埼玉を目指した。途中、交通情報で圏央道の相模原、高尾間で火災があり、通行止めという案内表示があった。ナビはどうするのかなと思っていたら、御殿場で降ろされて、東富士五湖道路へということになった。しかし御殿場ジャンクションから東富士五湖道路までは新しい道路ができていてえらくスムーズで、以前のように御殿場市内を抜けて須走へと向かうようなこともなかった。この道路は去年の4月に出来ているようだった。しかし世の中はどんどんと新しくなり、便利になっていく。
新東名高速道路と東富士五湖道路を結ぶ区間が開通 - バイクニュース - タンデムスタイル
新道路から東富士五湖道路、そして中央道とえらくスムーズに車を走らせて地元に戻ったのは9時半過ぎくらいだったか。途中、疲れもあり圏央道の狭山で30分以上仮眠してたので、それがなかった9時前に帰宅できたかもしれない。