三菱一号館美術館「印象派からその先へー世界に誇る吉野石工コレクション」

 午後、都内に出て2本の会議を早々と終わらせてから、久々都内の美術館に行くことにした。選択肢としては三菱一号館美術館と国立近代美術館の二択で、近代美術館の「窓展」もけっこう興味はあったのだが、やはり自分の嗜好のど真ん中ともいえる吉野石工コレクションに行くことにした。

 吉野石膏のコレクションは以前から知っていた。印象派の企画展に行くとかなりの頻度で名画のキャプションに山形美術館ー吉野石膏美術新興財団寄託という文字を目にすることがあった。それで調べてみると、吉野石膏というのはタイガーボードという石膏ボードで業界ナンバーワンのシェアをもつ建材メーカーであること、70年代あたりから三代目の社長須藤永一郎氏が印象派を中心とした西洋絵画の収集を始め、今では国内屈指の コレクションを有し、吉野石膏美術振興財団を創立しているということがわかった。

 だいたいにおいて吉野石膏なる会社も石膏ボードもほとんど知らんことなんだが、戸建ての場合石膏ボードは必ず必要となること、吉野石膏は国内で圧倒的なシェアを持っており、そのため収益性も抜群であることなどもわかってきた。そのためこの会社は上場して資金調達など必要もなく、同族会社として盤石の基盤を有している。創業一族は豊富な資金をこうした文化財の収集にあてることができるということらしい。

 なんとも羨ましい限りではあるが、利潤最優先という新自由主義が跋扈する現代にあって、こういう19世紀から20世紀初頭の篤志家的資本家があることは、ちょっとばかり感動的ではある。よ〜し、おじさん次に家建てるときは必ずタイガーボードを使っちゃるみたいな感じである。とはいえ、すでに一度家を立てて、そこ売り払って今の中古住宅に住んでる身からすると、次はまずないなという感じである。

 そうやって家を建てた時の記憶を巡らすと、確かに建築中の家の壁には石膏ボードがけっこう貼りめぐらせてあったっけなどと思ったりもする。それがタイガーだったかどうかは定かではない。

 脱線である。ということで今回の吉野石膏コレクション展は以前から聞いていた。4月〜5月に名古屋市美術館、6月〜7月に兵庫県立美術館で開催され、10月30日から来年1月20日までこの三菱一号館美術館でという持ち回りで行われる。これは絶対に行かねばと思っていた。ちなみに兵庫県立美術館は去年、小磯良平の回顧展を観ている。地方の美術館を訪れるとその時の記憶なんかが蘇ってきて、なんとなく嬉しくもある。

 そしてこの「印象派からその先へ」展である。だいたいこの手のフランス近代絵画の企画展の場合、まずバルビゾン派自然主義クールベ写実主義あたりから入る。今回もまずコロー、ミレーときて次にクールベである。定番というか王道をいくという感じだ。

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クールベ「ジョーの肖像、美しいアイルランド女性」

 どことなく心を動かされる作品だ。アイルランドの女性といえば気性が激しい赤毛の女と一般的にいわれる。それを見事に具現化したような表象だ。この絵をみてモーリン・オハラを、「我が谷は緑なりき」のあの勝気なヒロイン、「長く灰色の線」の主人公の奥さん役を思い出すの自分だけではないと思う。この絵のモデルはジョアンナ・ヒファーナンといい、ホイッスラーのお気に入りのモデルにして愛人でもあったという。

 続いてカミーユピサロの作品6点が一室に展示してある間へと続く。なんとも壮観な展示だ。

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カミーユピサロ「ポントワーズの橋」

 印象派ど真ん中とで呼びたくなる作品である。かすかに煙突と煙はフランスの都市化の象徴表現。左奥に消失点をもつ遠近的な表現は印象派の画家がよく使った表現ともいえる。なんとなくカイユボットの「フランス橋」を想起させる。

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カミーユピサロ「暖をとる農婦」

 「ポントワーズ橋」や晩年に都市の風景を描いた一面と、田園風景や農民の生活を描いた一面、ピサロには様々な顔がある。温厚な性格と地方での屋外写生を得意とした画家ではあるが、根っからのアナーキストでもあるピサロの眼差しは、労働者や農民に対して親和的でもある。この頃の農民を描いたピサロのタッチはやや暗い色調でもある。

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カミーユピサロ「モンフーコーの冬の池、雪の効果」

 1875年の作品、印象派の画家が表現を模索している頃の作品でもある。中心に大きく描かれた二又の大きな木によってキャンバスが分割されたような構図は、明らかに浮世絵からの借用的である。浮世絵と西洋絵画の連関と影響をテーマにして開かれた西洋美術館での「北斎ジャポニスム」でもこの絵をみた記憶がある。

 そしてピサロの間の次には印象派の代表選手の一人でもあるアルフレッド・シスレーが同様に6点一室を飾っている。ピサロの間からシスレーの間へ。

 シスレー印象派の王道を行く、まさに印象派を代表する画家だと自分は思っている。表現にブレもなく、屋外でただひたすら光に移ろい景色を変えていくその一瞬を切り取ることに生涯を捧げた画家である。モネでもピサロでもルノワールでもなく、シスレーこそ王道だ。それがこの6点の展示でもよくわかる。

 画家の力、画力という意味では、モネの足下にも及ばないかもしれない、表現の意匠としての個性という点ではルノワールの方が遥かに上をいく。多分それらは間違いないと思う。それでも自分はこの画家の凡庸さを愛す。印象派の一枚を部屋に飾る幸福を得ることができたとしたら、自分は間違いなくシスレーを選ぶと思う。

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アルフレッド・シスレー「マントからショワジ=ル=ロワへの道」

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アルフレッド・シスレー「ロワン川沿いの小屋、夕べ」

 ここからはモネやセザンヌゴッホをすっ飛ばして、いきなりフォーヴィズムである。ヴラマンクやアルベール・マルケもあるが、それも省略。最近、ただひたすらに愛を感じている色彩の天才アンリ・マティスである。近代絵画は多分いろんな意味でピカソに収斂されていくのかもしれない。それほどの天才性と作家性を有する。そのピカソに対峙できる唯一の存在がマティスではないかと勝手に思っている。

 マティスの柔らかい、ある意味すっと気軽に描いた線や省略した表現は、様々な苦闘

の後に構築したものであるという。同様にあの平面的な表現、装飾的文様もすべて突き詰めた表現の果てに獲得したものだと思う。 

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アンリ・マティス静物、花とコーヒーカップ

 背景の文様や花の表現はいつものマティスのそれだが、静物の表現と奥行きはマティスにしてはきちんと立体性を有していて、彼の得意なパースを無視した平面的な表現はない。そのへんがちょっと面白く思える。

 

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アンリ・マティス「緑と白のストライプのブラウスを着た読書する若い女

 ただただ美しく観るものを引き込む傑作。マティスにしては写実的。緑と白の大胆なストライプは誇張した表現なのか、あるいは写実的なのか。いずれにしろこの色あいを選んだ画家の審美眼は見事。顔の半分にだけある明確な輪郭線も意図的だ。

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モイーズ・キスリング「背中を向けた裸婦」

 そして最後にエコール・ド・パリ派からモイーズ・キスリング。このスベスベ感は半端ない。明らかに新古典主義、スベスベのチャンピオンともいうべきアングルを意識しているようだが、図録の解説によるとこの絵はキスリングと交友のあったマン・レイが製作したアングルへのオマージュ作品「アングルのヴァイオリン」を意識したものだとか。しかしこの絵は素晴らしい。観るものを魅了する全てを持っている作品といえるかもしれない。

 頭のターバンや女性の姿はきわめて明確な写実性をもとにしている。なのに女性が腰にまとう衣はデフォルメ化されている。さらには茶色一色に塗られた壁に映る影の曖昧性。さらに壁の部分には細かい引っ掻きによる無数の線が施され、それが女性の背中のスベスベ感と対をなしている。

 これまでにもキスリングの様々な作品を様々な場所で観て来ているが、この絵はベストかもしれない。今回の企画展では様々な名画が展示してあるが、その総ての印象を消し去るくらいのインパクトを有している。この絵をしても心に残るのは現時点の自分にはアンリ・マティスだけかもしれない。

 ちなみにこの絵がモチーフにしたというマン・レイの作品はこれである。

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マン・レイ「アングルのヴァイオリン」