『フォト・ルボルタージュ福島原発震災のまち』

フォト・ルポルタージュ 福島 原発震災のまち (岩波ブックレット)

フォト・ルポルタージュ 福島 原発震災のまち (岩波ブックレット)

  • 作者:豊田 直巳
  • 発売日: 2011/08/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
最近読んだ本シリーズである。
この本は9月の初旬に読んだ。岩波ブックレットシリーズの1冊、80頁足らずの小冊子なので一気に読める。広河隆一氏等とともに震災から2日後に被爆の危険を顧みず、福島の原発周辺地区に足を踏み入れたフォト・ジャーナリストの渾身のレポートでもある。
収録された数十葉のカラー写真も震災直後の被災の凄まじさ、放射能汚染の甚大さを伝えている。震災から三週間を経過した4月1日に撮影されたという瓦礫の間からのぞく放置された遺体の足を映し出した写真は、なんとも衝撃的でもある。本文中でもこの遺体について豊田氏はこんな風に記述している。

瓦礫の間を歩いていおた私は、一緒にいたJVJAの仲間から「遺体がある」と声をかけられた。瓦礫の間から人間の足がのぞいていたのだ。それもアルファルト道路の脇で、である。そこを通れば、誰でもその遺体に気付くはずだ。震災から三週間、この場所では行方不明者の捜索も、遺体回収もなされていなかったのだ。私は仲間と、瓦礫の中からジャンパーと竿を見つけ出し、目印の旗をつくって、その場をはなれた。重機でもなければ、遺体を掘り出すことはできそうになかった。

翌日、豊田氏は二本松市に開設された浪江町の臨時町役場に連絡して遺体を発見したことを報告し遺体の回収ができなかったことを詫びている。そこで担当者から役場の職員もまだ現地に入れない状況であることを説明される。福島県警による浪江町での行方不明者捜索が始まるのは、それからさらに二週間も後のことだった。それが高濃度の放射線に汚染された地域の現実でもあったのだ。
地震発生から二日後に現地入りした冒頭のレポートもまた緊迫感がひしひしと伝わってくる。

ほとんど通じない携帯電話に比べて利用者が少ないためか、私のPHSは、ほぼ通常どおりに通話ができた。私と同様にPHSを使う友人から電話がかかってきた。彼は落ち着いた声で言った。「豊田、原発が爆発した。情報は入っているか。お前、原発に向かっているのだったら止めろ」

双葉厚生病院の前で線量計を計ったときの記述である。

原発から直線で四キロほどの病院前で再び広河氏の計測器で測定してみると、100マイクロシーベルトの表示を振り切った針は上限に張り付いたままで、どこまで放射能が高いのかも想像できない。そこで1000マイクロシーベルトまで測定できる私のガイガーカウンターを取り出した。しかしこれでも正確な計測はできなかった。ガリガリガリと検知音を発し、瞬時に1000マイクロシーベルト表示を針が降り切ってしまったのだ。「信じられない。怖い・・・・・・」。私は思わず声に出していた。

これが政府、東電が繰り返し喧伝していた「ただちに健康に影響がない」「念のための避難」の実態であったのである。
自らの被爆のリスクを恐れず、豊田氏を現地に駆り立てたものはなんなのだろう。そのモチベーションとは。豊田氏はそれをこんな風に記述している。

こうした大惨事を引き起こした福島第一原発を、直接、自分の目で確認したいと、私は何度となく考えた。原発から30キロメートル離れた上空を飛ぶヘリコプターから撮影を続けるNHKの映像意外、メディア各社が独自に取材した映像や写真はほとんどなかったからだ。事故の当事者である東京電力や政府、そしてそれを支援する米軍などの提供する映像や写真を掲載し、放映することに新聞もテレビも忸怩たる思いをしていたはずだが、現実に取材がなされていなかった。収束の気配もない原発事故を取材するリスクや、自社の安全基準とジャーナリズムの責任との間で各社とも葛藤を続けていたのだろう。
しかし、これまで何度となく「事故隠し」や事故の過小評価を続けた東電からの情報を垂れ流し続けていいはずはない。しかも、フリーランスは自分の身の安全の基準は、最終的には自分で決めることができる。当事者ではないジャーナリズムの側が事故現場を取材することで、情報を隠蔽し続けた人材の責任者たちも隠しきれないことを悟るはずだ。

ここには高い職業的モラルを要求され、企業のルールとは別種のジャーナリストとして自ら律っし続けなくてならない、豊田氏の報道倫理がかいまみれる。企業ジャーナリストによって構成されるマスコミ、今回の原発震災報道でほとんど機能しなかった、新聞、テレビとは異なる崇高なものと私には感じられた。