胃カメラ (3月22日)

 毎年恒例の胃カメラの検査。朝10時半の予約で、健保のクリニックに着いたのは15分くらい。特に待たされることもなく検査開始。上だけ脱いでTシャツ一枚になる。下はズボンのままで問題なし。

 最初に胃の中をきれいにするという薬を飲み、それから喉の麻酔のゼリーを口に含み飲み込む。マウスピースを加えると、すぐに胃カメラのチューブがスルスルと喉の中を通っていく。

 毎年やっているからなのか、医師の腕なのか、あるいは胃カメラのチューブが細くなっているからなのか、あまり苦しくない。違和感がないかといえばウソになるが、昔に比べれば全然きつくない。食道を通り、胃の中を見て、十二指腸まで進む。医師からはその都度「問題ありませんね」という説明らしきものもある。

 正味で5分もかからないくらいで終了。その後、画像を診ながら医師の所見を受けるが、問題はまったくないとのこと。実際、ここ1~2年は胃の痛みやむかつきがほとんどない。惰性のごとく胃薬の処方はしてもらっているが、ひょっとしたらもう必要ないのかもしれない。

 何度か書いているけれど、以前は胃の荒れがひどく、実際胃もたれやむかつきが慢性病のような感じだった。胃カメラをのんでも、ひどい胃の荒れを指摘され、5段階でいえば3です。4になるとガンになりますみたいなこと言われてビビったこともあった。

 その後にピロリ菌の除菌とかもやった。胃カメラの検査の際にも、これが除菌した後ですと画像を見せてもらったこともある。

 胃のことで悩まされていたのは、結局のところ仕事や対人関係のストレスだったんだろうなと思ったりもする。仕事を辞めて、半分引きこもりのような生活をしている。家事をして、妻の面倒をみて。あとは美術系の学習をしたりして過ごす。友人も少ないから、出かけるのも妻と一緒に小旅行したり、美術館に行ったりである。こんなんで大丈夫かな、社会的不適合に陥るのではと思わないでもないけど、まあなんとかなっている。

 半引きこもり状態でもとりあえず胃が悲鳴をあげることはない。これがいいことなのか、まあこと胃に関しては健康なので良しとする。

東京富士美術館「源氏物語 THE TALE OF GENJI」 (3月21日)

 今日で終幕となった東京富士美術館源氏物語 THE TALE OF GENJI ─「源氏文化」の拡がり 絵画、工芸から現代アートまで─」をぎりぎりセーフのタイミングで行ってきた。

 

 本企画展は、源氏物語の場面を絵画化した「源氏絵」を中心として、『源氏物語』や紫式部にまつわる美術、工芸、文学作品を紹介する大きな展覧会。その目的について企画展の監修者稲本万里子氏は以下ように綴っている。

  • 日本美術のなかでもっとも多く、長きにわたって絵画化されてきた物語は『源氏物語』である。
  • 平安時代以来、多くの絵師によって、絵巻、冊子、扇、色紙、屛風などに描かれてきた作品は源氏絵とし定着している。
  • これまでの美術史研究において、研究対象として重きをおかれていたのは、仏教絵画や城郭建築の障壁画である。それに対して源氏絵を含む物語絵は、女子どもの弄ぶもの、取るに足らないもの、研究に値しないものとされてきた。
  • しかし源氏絵は、天皇家や公家、武家、あるいは寺院の僧侶たちの私的な空間を彩る絵であったため、その私的な生活を知るために欠くことのできない作品でもある。さらに源氏絵は、やまと絵系の土佐派や住吉派だけでなく、漢画系の狩野派や岩佐派の絵師も手掛けているなど、流派を超えた同時代の潮流や、時代を超えた流派ごとの様式展開を知るためにも重要。

 さらに稲本氏は『源氏物語』を享受し再生した作品群や、『源氏物語』を享受し再生する営為を源氏文化と名付け、4つの点から研究を進めている。

  1. 源氏絵を『源氏物語』から派生した文学作品、翻訳作品、源氏能や宝塚歌劇、映画、漫画と同じく派生作品の一環としてとらえ、俯瞰的な視点から派生作品との関係性を探る。
  2. 源氏物語』以前の物語や物語絵、東アジア、西アジア、日本の物語絵との比較を行う。
  3. 美術史学、建築史学、日本史学、日本文学、情報学を専門にする研究者が、源氏絵研究領域、派生作品研究領域、比較源流研究領域の三領域に別れ、暗黙知を共有するまで対話を積み重ね、協働して研究を進めることで、個々人の研究を超えた研究成果を創発する。
  4. 源氏文化にかんするプラットフォームとして源氏文化ポータルを構築する。

 それらの研究成果、あるいは研究の途中経過として本企画展は位置付けられている。

 いやいや、NHK大河ドラマとのタイアップ、あるいは便乗企画的なものと高を括っていたのだが、非常に内容の濃い企画展だった。この美術展、他館や個人所蔵品等の貸し出しもあり、そのまま地方巡業という訳にはいかないのだろうが、富士美だけで終わってしまうのは惜しいと思ったりもした。

 さらにいえば、もっと早くに観に来るべきだったかなと思ったりもした。さすがに開館40周年記念と銘打っただけある充実した企画展で、3時頃に行ったのだけど、時間が足りないなと思った。終わってしまったのがとっても残念。

 企画展は4部構成になっている。

第1部 『源氏物語』とその時代

第2部 あらすじでたどる『源氏物語』の絵画

第3部 『源氏物語』の名品

第4部 近代における『源氏物語

エピローグ 現代によみがえる『源氏物語

 ウィークデイの午後だったけれど、予想以上に混んでいた。例によって宗教団体の集まりでもあったのかとでも思ったが、いやいやそうではなく源氏物語好きの方々、美術愛好家が多数来館されていた模様。さらにいえば春休みで若い学生さんらしき方も多数。やっぱり会期末ということもあったのだろうか。

 そんな中で、ちょっと困ったなと思ったのは、第2部の「あらすじでたどる『源氏物語』」の展示について。ガラスケース内の下部に絵巻物が展示してあり、正面には各巻のあらすじがパネル展示してある。みんなそのあらすじを読んでいるのでちっとも進まない。『源氏物語』の大まかなあらすじは知っていても、各巻それぞれとなるとまあ普通はよく知らない。なのであらすじ読んで、展示してある絵巻を観て、またあらすじに戻ってみたいな感じになる。

 さすがにこれはシンドイと思い、列から離れて他の展示に行った。別行動とっていた妻はというと車椅子なので、ずっと列に並ばなくてはならない。途中で戻って他のとこを観ようということにした。

 あと、この企画展では音声ガイドはなくて、持っているスマホで専用サイトにアクセスして解説を聴けるようになっているのだけど、イヤホン持っていない人が多数。みんなそのままスマホを耳にして聴いてる。まあ小さく音がこぼれるくらいならいいのだけど、音大きいままにして聴いてるおばさんとかもいた。まだまだタブレット文化の夜明けは遠いのかもしれない。

 自分は持っていたBluetoothイヤホンで妻がスマホで聴けるようにしてあげた。自分自身はほとんど音声ガイドを使ったことがない。でも妻も途中で操作が判らなくなったり、挙句は片方のイヤホンをどこかに落としたりとか(後で見つけることができた)。

 スマホタブレットを音声ガイド代わりにするというのはとてもいいけれど、なかなかこれは敷居が高い部分があるかもしれない。モノとヒトとのネットワークとかANT理論とか訳のわからんことをちょっと思ったりもした。

 

 充実した内容ということで図録購入をどうしようか考えた。図録本体と「あらすじでたどる『源氏物語』の絵画」の二分冊セットで3500円。しばし悩んだがこれは買っといたほうがいいかなと、清水の舞台的に購入した。

 

 以下気になった作品をいくつか。

 《紫式部図》 尾形光琳 18世紀 軸装 MOA美術館蔵

 

《秋好中宮図》 尾形光琳 18世紀 軸装 MOA美術館蔵

 

源氏物語図屏風》部分 狩野晴川院養信 1826年 屛風装 香川・法然寺蔵 重要文化財 

 

《住吉詣》 松岡映丘 軸装 1921年頃 二階堂美術館蔵

 

《源氏若柴》 安田靫彦 1933年 軸装 茨城県近代美術館蔵

 

《源氏帚木》 安田靫彦 1956年 軸装 二階堂美術館蔵

 

 《宇治の宮の姫君たち》 松岡映丘 1912年 屛風装 姫路市立美術館

 姫路市立美術館は一度行ったことがあるがこの作品は観ていない。こんな素晴らしい作品を持っていたとは。個人的にはこの絵を観ることができただけでこの企画展に来た甲斐があった。

 やまと絵は、土佐派、住吉派から江戸時代の琳派作品などや絵巻物などが、目玉かもしれないが、近代日本画の中での源氏物語の受容だけに限ってもかなり大がかりな企画展ができそうな気がする。本展でも松岡映丘や安田靫彦以外にも上村松園の作品なども展示してあったが、例えば伊勢の伊藤小坡美術館にも小坡《秋好中宮》など素晴らしい作品もある。せっかく大河ドラマ『光る君へ』で紫式部と『源氏物語』に注目が集まっているので、そういう切り口もあっていいかもしれない。

 そういえば洋画で源氏をモチーフにした作品ってあるのかな。と、今思いついたが。

MOA美術館-UKIYO-E 江戸の美人画 (3月16日)

 14日木曜日に寄ろうと思ったのだが、MOA美術館は木曜日が定休のようだ。なので小旅行最終日に寄ることにした。しかし車で行くとここはけっこう難儀な道を通る。険しい坂道を登って正門付近に着くと、そこで案内係に駐車場を案内される。それもまずQRコードを見せられ、それをスマホでスキャンすると地図が表示される。まあそれは見ないで看板を頼りに狭い坂道を登る。ほとんどぽつんと一軒家でよくある狭い山道みたいな感じだ。

 なんどもつづら折りの道を行くとようやく開けてきてMOA美術館の裏側に出る。そういえば数年前の熱海で土石流が起きたときには、そのすぐ後に行ったことがあったけどMOA美術館の駐車場に消防車やパトカーが何台も止まっていたっけ。

 伊豆にはここのところよく来ている。去年は3~4回来ただろうか。伊東の保養所がバリアフリー的に充実していること、ベッド仕様や家族風呂などもあるから。抽選申し込みでもウィークデイだとけっこうとりやすいとかもある。なので小旅行の頻度としては圧倒的に多い。

 となると伊豆の美術館に行くことが多いはずなのだが、この雑記の記録を調べると仕事を辞めてからまだ二度しか訪れていない。やっぱりあの坂道か、あるいはバックの宗教が気になるのか。いやそれはないな。富士美には数えきれないくらい行ってるし、まあ単なる巡り合わせか。まあしいていえば熱海はなんとなく通過するところという感じがある。そして今回思い知ったことだが、崖にへばりついた町だから。

MOA美術館「開館40周年記念名品展 第1部」 (2月25日) - トムジィの日常雑記

MOA美術館『没後80年 竹内栖鳳ー躍動する生命ー - トムジィの日常雑記

 

MOA美術館-UKIYO-E 江戸の美人画

 

 

 MOA美術館コレクションによる肉筆及び版画の美人画を中心とした浮世絵を展観する企画展。重要文化財四点を含む70点弱が展示されている。いっぱい持ってるんだなと改めて思う。

 しかしMOA美術館、土曜日ということもあるけどえらく盛況。これまで来たなかで一番賑わっている。とにかく展示作品を観るためには列にならんで観る必要がある。その列の進むのがえらくゆっくりで。まるでトーハクの企画展かと思えるくらいに鑑賞客が多い。ただトーハクとは違うのは客層。あっちはだいたい高齢者が多いけど、MOAはとにかく若い子たちが多い。なんていうか大学生の修学旅行の団体さんが来ていますみたいな感じ。

 ということで列には並ばず、空いてそうなところを飛ばし飛ばしに観ることにしました。

《誰ヶ袖図屏風》

《誰ヶ袖図屏風》  17世紀

美しい衣裳によって着る美人を連想するとの発想から、衣裳だけを描く「誰ヶ袖」屏風と呼ばれる風俗画が生まれた。衣桁に小袖・打掛・袴や香袋などを描き、背景を金と銀の片身替りにし、装飾効果をあげている。(解説キャプションより)

 これがあの名高い《誰ケ袖図》か。というかこの作品は、このオリジナルを観るよりも先に京都で福田美蘭のパロディを観ているので、なんというやっとオリジナルを実見したみたいなちょっとした感慨があったりする。

 福田美蘭のやつはこれなんだけどね。いつものごとく著作権ぎりぎりを攻めてきている。これ観ているので、いつかは本歌の方を観てみたいとは思っていた。

《誰ヶ袖図》 (福田美蘭) 2015年 京都市美術館蔵 
《花見鷹狩図屏風》
《花見鷹狩図屏風》 (伝 雲谷等顔)  桃山時代 16世紀

 重要文化財である。

向かって左隻には「武家の鷹狩」を描き、右隻には「庶民の花見」を描く遊楽図屏風の一つである。両隻ともに水墨を基調として表現しているが、花見図が金箔や色彩を多く用い華やかさを出しているのに対し、鷹狩図はあくまで水墨画的であり、主題・色彩ともに左右対照の妙を見せている。慶長期(1596~1615)に描かれたこの種の初期風俗画の多くは、狩野(かのう)派の画人の手になるものであったのに対して、本図は、樹木や岩組に見られる筆法や風景構成から、雲谷派の祖、雲谷等顔(1547~1618)の筆とされる点で注目に値する。等顔は、雪舟(せっしゅう)の画風に傾倒して個性的な水墨画形式を創造し、雲谷派の基礎を築き上げた桃山時代の代表的画家である。

https://www.moaart.or.jp/?collections=062

《調髪美人図》

《調髪美人図》 (鳥居清信) 17世紀

 鳥居清信は17世紀から18世紀にかけて活躍した鳥居派の祖。見ての通り、この頃はまだ浮世絵の美人画スタイルともいうべき面長細面に切れ長の目は確立していない。どちらかといえば写実性とやまと絵的なふっくらとした面容だ。浮世絵は次第に商品化が進むにつれてキャラ化ともいうべきスタイルが定着していく。

 以前どこかで浮世絵美人画は今のアニメの萌え絵と一緒みたいなことを書かれる方のブログを読んだことがあって、なるほどと思ったことがある。アニメの萌え絵もみんなキラキラして目の大きな同じ顔立ちのスタイル。浮世絵もあれと同じなんだということ。そういう意味でいえば平安時代のやまと絵の引き目かぎ鼻も、あれが当時の美人のキャラだったということで、美意識の変遷みたいなことなんでしょう。多分これについえはきっと論文とかいくつも出ているような気がする。

《立美人図》

《立美人図》 (松野親信) 江戸時代 18世紀

 松野親信は懐月堂風の画風とは解説キャプションにある。懐月堂や同じころの宮川長春を祖とする宮川派、肉筆専門でややふっくらとした下膨れ的な面容の美人画を多く描いていた。これらは例の面長、切れ長の喜多川派、歌川派とは一線を画すのかとは、今適当に思ったこと。

《化粧美人図》

《化粧美人図》 (西川祐信) 江戸時代 18世紀

 これもふくよかな顔立ち。鏡に映った顔とその前に本人の顔が微妙に異なっていて、本人の方が切れ長の目をしているのがちょっと面白いなと思った。

《柳下腰掛美人図》

《柳下腰掛美人図》 (宮川長春) 江戸時代 18世紀

 宮川派の祖。宮川派もふっくらとした容貌の絵を得意とした。宮川派は長亀、一笑、春水らの門人を擁した。寛永3年(1750)に稲荷橋狩野家の日光廟修復のときに報酬不払いで狩野家と紛争になり長春は暴行を受けたという。その報復で門人らが稲荷橋狩野家邸に斬り込むという事件がおきる。この事件で科で弟子の宮川一笑は伊豆新島に流罪となりその地で没したという。

《寒泉浴図》

《寒泉浴図》 (喜多川歌麿) 江戸時代 1799年頃

 歌麿の最晩年の肉筆画。風呂おけの写実的な描写に対して女性の姿はどこかデフォルメというか柔らかなフォルムになっている。このポーズかなり無理があるような気もしないでもないが、後ろ姿というのがどうにもエロチックでもある。

《二美人図》

《二美人図》 (葛飾北斎) 江戸時代 19世紀初期

 これも重要文化財北斎は勝川春章に師事して勝川春朗と称して画業を出発し、その後土佐派、狩野派琳派などの画風を学んで一家をなした。この作品は葛飾北斎の40代の作品。

《雪月花図》

 《雪月花図》 勝川春章 江戸時代 18世紀

 これも重要文化財

雪月花の三幅対に王朝の三才媛、清少納言紫式部小野小町を、当世市井の婦女に見立て描いている。春章が貴顕・富豪の求めに応じて肉筆美人画に専念した天明年間の作であろう。 (解説キャプションより)

《婦女風俗十二ヶ月図》

 

《婦女風俗十二ヶ月図》 (勝川春章) 江戸時代 18世紀

この作品は肉筆浮世絵の中でも代表的な傑作で、当初の十二幅中、一月と三月の二幅が失われている。そのため、歌川国芳(くによし)によって補充されたが、現在その一幅も失われ、「三月・潮干狩図」のみが現存している。この揃物は、春章の最も脂の乗った天明期(1781~89)の作で、月々の季節感や行事を各図に背景として見事に取り入れている。また、縦長の画面に、数人の婦女子と楼舎、調度、花卉などを巧みに描き込んだ構図の美しさや精緻な描写も、肉筆画における春章の優れた力量を見せている。とりわけ美人の衣裳に見られる細密な描写と色彩には、春章の非凡な手腕が発揮されている。最後の「十二月節分図」だけに「旭朗井勝春章画」の落款と、「酉爾」の朱文方印が捺されている。松浦家伝来。

https://www.moaart.or.jp/?collections=078

 重要文化財。見事な作品だと思う。今回の企画展の中でももっとも美し異彩を放っている。この作品を観るためだけで熱海にやってくる価値があるかもしれない。12ヶ月のうち一月と三月の二幅がうしなわれ、国芳によって補充されたが、それも一月は失われたとMOA美術館HPの解説にあるとおりだ。

 おそらくこの十二ヶ月図は多くの絵師、画家に影響を与えたことだろう。鏑木清方の《明治風俗十二ヶ月》も春章に影響を受けていると思う。

 勝川春章(1743-1792)は宮川春水に師事し画業をスタートさせた。明和年間に一筆斎文調とともに役者の顔を写実的に描写する役者似顔絵を始め、歌舞伎絵の主流となった。宮川派の系譜をひく春章のの肉筆美人浮世絵は当時から評判が高かった。勝川派の祖でもあり、門人に春好、春英、春朗(のちの葛飾北斎)らがいる。

伊東周遊 (3月16日)

 伊豆小旅行3日目。

なぎさ公園とヨサコイ 

 まずは伊東周辺観光ということで12月に来たときと同様、なぎさ公園前の駐車場に止める。するとなにやら公園の方で人が大勢集まっているのと、威勢のいい音楽が聞こえる。近くに行くとなにやらよさこいのイベントが行われていた。

 なんでも伊東絆祭りということで、今回が三回目になるのだとか。

 よさこいはなんていうかマイルドヤンキーのお祭りみたいなイメージが強くて、どちらかといえば苦手だ。確かもともとは高知のよさこい祭りから始まったお祭りだったか。それが札幌でのYOSAKOIソーラン祭りから全国に広がったとか。たしかそのYOSAKOIソーランの発案者は今は自民党の代議士やってるんじゃなかったか。

 なんにしろ地元志向、やんちゃなキャラ、踊り、衣装と、まさにマイルドヤンキー風。とはいえ若い子が元気に踊っている分にはまあよろしいかなと思ったりもする。でも何組か見てると、やんちゃなおじさん、おばさん風もいて、これはこれで・・・・・・、まあいいか。

 なぎさ公園は地元の彫刻家重岡建治の作品が多数展示されているのだけれど、それを観るどころではなく、数組の群舞を観てそこを離れることに。

 

松川遊歩道から商店街など

 これも前回を歩いた松川遊歩道を車椅子を押して歩く。ここはいい雰囲気だ。ところどころに地元出身の詩人・文学者・画家木下杢太郎の百花譜が描かれたモニュメントがある。川の向こうには旧木造建築の旅館で温泉施設となっている東海館も見える。

 

 遊歩道をだいぶ行って向こう岸に行くと室生犀星の歌碑なんていうのもあった。

 

 そこから商店街の方に向かう。アーケードのある商店街はキネマ通りという。戦前にあった映画館キネマホールにちなんでつけられたという。でもここは午前中とはいえ11時を過ぎても開いているお店も少ない。ほとんどシャッター商店街と化している感じ。

 

 そこからメインの湯の花通り、駅前仲丸通りも通った。さすがにそちらは人通りも多くなっているけど、一昨日の熱海と比べるとずいぶんと差があるなと思った。やっぱりJR、新幹線の止まる駅とそこから伊豆急で行く駅では大きな違いがあるということだろうか。

 大学生も卒業旅行に熱海へ行くはあっても、伊東に行くはないのかなどと思った。

 その後はまた松川遊歩道の方に戻って東海館の前を通ってみる。ちょっと中が気になったが、もろもろ段差とかありそうだし、靴を脱いでの入館はちょっとしんどいかなと思いパスする。

 

木下杢太郎記念館

 

 前回は年末ということで閉館していた木下杢太郎記念館に行ってみる。

伊東市立木下杢太郎記念館/伊東市

 木下杢太郎の生家を記念館に改築した施設で杢太郎の絵画や写真、交流のあった文学者たちとの書簡などが展示されている。

 


 今的にいえば、木下杢太郎って誰だということになるかもしれない。医師であり、詩人、文学者、そして画家と多彩な才能を持った人物であり、伊東市にとっては地元出身の著名文化人である。

木下杢太郎 - Wikipedia

 自分はというと、この人のことは画集『百花譜百選』で知った。草花を描いたものでいわゆるボカニカル・アートである。この本の復刻版が限定発売されたときには、こんな本売れるのかなと思ったのだが、これが意外なほどによく売れた。たしか限定をうたいながら増す刷りをしたとか聞いた記憶がある。

 館内で案内をしてくれた女性の方とちょっとそんな話をしたときに、「もう岩波も出さないということらしいです。絶版のようですね、残念です」と話されていた。

 岩波は外向きには絶版という言い方はあまりしない。「再販未定でご要望があれば再刊する場合もあります」というのが公式アナウンスだったか。岩波が絶版を名言するのは、盗用など内容に相当な問題があったものだけとか、そんな話も聞いたことがある。なので『百花譜百選』が絶版というのはちょっとどうなのかなとも思ったが、岩波からそう伝えられているということなので、まあ絶版ということなのだろう。

 杢太郎の草花を描いた絵はこんな風である。

 

 

 展示品の中でちょっと興味を覚えたのは、杢太郎の姉が女学校時代に樋口一葉と同窓生で、二人で移った写真が展示してあった。髪を下した女学生の一葉が写っている写真はとても珍しい。左が太田たけ、右が樋口一葉

 

 映りは悪い写真だが、それでも目鼻立ちが整った樋口一葉の美しさは際立っている。美人で文学的才能もあり、若くして当時の文壇でも知られた存在であった。夏目漱石森鴎外らも一葉女史に一目おいていた。なのにどうして彼女は貧困のなかで早世したのだろう。もっと援助とかがあっても良かったのではないかと思ったりもする。やはりその美貌から、同時代の文学者たちはそれぞれに、なんとなく遠慮が生じたのだろうかなどと想像したり。

 杢太郎の記念館はこぶりな文学記念館だけど、文学的な雰囲気に浸ることができる。医者で文学者という点では森鴎外の後継者みたいな部分もある。与謝野鉄幹北原白秋らとの交流と詩作、さらに画業だけでなく美術批評としてフランス印象派などを評してもいる。戦前の多彩な文化人、今風にいえばマルチな文化人とでもいうべきだろうか。 

 たしか『百花譜百選』は文庫にもなっていたと記憶しているので、古本屋でも探してみようかと少しばかり思ったりもした。

伊豆周遊 (3月15日)

 伊豆旅行2日目。今回は下田まで足を伸ばすこともなく、また伊東周辺でもこれまで行ったことのあるところをパス。ということで池田20世紀美術館、暮れに車のパンクでえらい思いをした大室山、B級テーマパークまぼろし博覧会とかもなし。でもって、最初に訪れたのはここ。

ろう人形館

ようこそ、芸術の森 ろう人形美術館へ〜伊豆ろう人形美術館〜

 海沿いから大室山方面に向かうとよく目にするあれです。自分的にはまったく興味は


のだけれど、妻がけっこうこういうの好きで行きたいと言い出したため。以前も東京タワーにあったやつ(2013年閉鎖)とか、お台場のマダム・タッソーとかにも行っている。

 この伊豆のろう人形館はというと、多分20年くらい前に一度行ってる。子どもも小さく、妻もまだ健常だった頃のこと。その時の記憶的にはなんか世界一太った人のろう人形とかがなんとなく覚えている。

 そして今回行ってみて、驚くほど変わっていない。というかここ全然メンテナンスされていない。著名人もエルヴィス、ビートルズチャップリンなども昔のまま。アメリカの大統領もリンカーンクリントンがいた。そういう意味では21世紀になっていない感じだ。

 レトロ、昭和的雰囲気、まあそういう感じなのだろうが、ほとんど施設の維持管理も大変なんだろうなと思ったりもする。観光地のこういうミニミュージアムは、一見さんが物珍しさで立ち寄るみたいな感じだろうか。

 前回も気になったといえば気になったのだが、ろう人形館の一室にはメキシコの民芸品などが展示してあるメキシコ館がある(別料金)。入らなかったけど、なんとなく気になったのだが、これはオーナーがラテン・ミュージックのミュージシャンだったからのよう。

淡谷幹彦 - Wikipedia

 有馬徹とノーチェクバーナの二代目リーダーにしてギタリスト、ボーカル、楽団指揮などをやっている人なんだとか。有馬徹とかノーチェクバーナとか、言われてみるとうっすら記憶があったりする。ググると演奏もYouTubeとかにあったりする。

 動画で指揮をしている髭の人が淡谷幹彦さん。

 

 

奥野ダム/松川湖

 道路に奥野ダムという標識が見つけて、妻が行きたいという。伊東市街からだいたい6~7キロというところ。今までも多分その案内板見ていたはずだけど、なんとなくスルーしていた。観光サイト、観光案内でも奥野ダム、松川湖なんてきいたこともない。とはいえ始めての場所なのでとりあえず行ってみることにする。

静岡県/奥野ダム

奥野ダムと松川湖|伊豆・伊東観光ガイド - 伊東の観光・旅行情報サイト

 ついてみるとなにやら見覚えがあるような眺めである。このダムはロックフィルダムという岩石や土砂を積み上げて作られたダム。見覚えがあるのは飯能の名栗にある有馬ダムが同じ形式。ダム湖とは逆側の斜面はやや急な斜面で草が生えている。コンクリートの巨大な壁のような重力式コンクリートダムとは雰囲気がまったく違う。

 ダム湖は松川湖という名称でちょっとした景観だ。伊豆半島でも数少ない湖釣りができるスポットだという。湖の周囲は一周4.8キロくらいあり遊歩道になっている。ほかにいくべきところがなければ、のんびり歩いてみてもいいかとも思うが、さすがに二泊三日の小旅行でそれはないだろうと。あとでその遊歩道がけっこうアップダウンがあることも判ったので、この選択は間違っていなかったみたい。

 

 

 

修善寺

 次どこへ行くか。海方面から山の方に来たのだし、山を越えて中伊豆、修善寺にでも行ってみようかと思った。ナビに入れてみると30分と少しと近い。修善寺は去年、虹の郷に行ってみたけど温泉街には行ってない。とりあえず行ってみるかと。

 ナビの通りに県道12号線を一本道で進み、伊豆スカイラインの冷川ICを超えてからはひたすら修善寺を目指す。途中で昼飯でもと思ったが、なんとなくそそられるような店がないので修善寺まで進む。

 修善寺について駐車場をどうするか、御幸橋駐車場は以前ネットで調べたが、そこから修善寺(お寺)までは少し歩くみたいなので、狭い温泉街の道をまっすぐ進み。渡月橋を渡ったところにある月の庭駐車場に止める。そこからは車椅子で観光。

独鈷そば

 まずは遅めの昼食をということで温泉街に戻る。2時を少し回っていたので終わっている店も多い。その中で独鈷そば大戸という店がまだ開いていたので入ることにする。独鈷そばってなんだ。まあただのざるそばだけど、わさびが一本ついてきてそれをすって薬味にする。とろろと田舎風の煮物の小鉢もついている。こんな感じで1300円くらいだったか。

 

 独鈷っていうのはなにかというと仏具で武具にもなるのだとか。こういうもの。

 

 もともと修善寺弘法大師が訪れたときに、桂川で病気の父親の身体を洗う少年の孝行心に感心して、川の岩を持っていた独鈷で打ち叩いたところ霊泉が湧き出てきた。その湯に浸かったところ父親の病気が治ったという逸話があり、修善寺温泉の発祥とも、温泉療法が広まったことなどと伝わっているのだ。今でもその場所の湯は独鈷の湯といわれている。

 ということで独鈷は修善寺のシンボル的な意味もあり、それにあやかって独鈷そばと名付けたみたい。でもってそばはというとまあまあ美味しい、薬味に自力ですったわさびを香りも良かった。あと小鉢の煮物が家庭的な感じで美味しかった。観光地の食事としては値段的にも高くなかったし、これは割と正解だったと思う。

竹林の小径

 渡月橋を左にみて少し進むと右手には修善寺(寺)があり、左には虎渓橋がある。その脇に例の弘法大師所縁のとっこの湯がある。そこから川沿いに遊歩道があり次の橋桂橋を渡ると竹林の小径がある。

 竹林というと京都嵯峨の竹林を思い出すけど、それほどの規模はなくこじんまりとしている。修善寺は伊豆の小京都と呼ばれているというらしいが、規模感からしてさすがにそれはちょっとと思ったりもする。そういえばディープ埼玉の小川町も武蔵の小京都とかいってる。ググると全国の京都っぽ選手権みたいな感じで全国京都会議なんてのもあるみたいだ。なんかどうでもいい感じ。

小京都Toppage | 全国京都会議

 話脱線した。竹林の小径である。まあこんな感じである。

 

 そして桂川沿いの景観はこんな感じだったか。

 

 

 竹林は楓橋のところで終了。そこから遊歩道は滝下橋で終点。向こう岸を渡って温泉街を戻ってまた竹林の小径に出て虎渓橋に戻る。30分も歩いていないとっても小規模な感じ。まあこんなものですね。

修禅寺

 そして修禅寺である。

修禅寺|伊豆市修善寺|曹洞宗

修禅寺 - Wikipedia

 弘法大師が創建したと伝えられる由緒正しき寺。もともと真言宗の寺だったが鎌倉時代臨済宗に改宗して禅寺となる。1409年の火災で焼失した後曹洞宗の寺院として再興されたという。

 

 

 正面の山門には階段で上る。両側にスロープ的な坂道から境内に入ることができるがけっこう急。まあ気合で車椅子押して上ったけど、前日熱海の坂道押して歩いたせいかけっこう足にきている。

 山門に入ると正面に本堂があり、右手に社務所と宝物館がある。

 

 お参りしていつものように妻と子ども健康と幸福をお祈りさせてもらう。それから御朱印をいただき、隣の宝物館へ。入ると天井には川端龍子による龍の大天井画がある。
龍子の天井画は浅草寺のものが有名だが、あちらは彩色で色鮮やか。たしか去年の夏に経年劣化で垂れ下がってしまったと話題になっていたが、補修はされたのだろうか。

 修禅寺の龍子はこんな感じである。

 

 その他には大観や安田靫彦の絵もあった。

《十一面観音菩薩図》 (安田靫彦

 

 修禅寺、宝物館を見学してほぼ観光は終了。石段脇の土産物屋でわさびソフトなるものを食す。

 

 まあ普通の濃いめのバニラソフトになぜかわさびが添えてある。それをスプーンでこねて食べるといい塩梅に甘いけど、ピリっとくるというものらしい。まあ普通に美味いけど別にあえてわさびはいらないかもと思ったけど、まあそれは置いておく。

 

 帰りは来た道をそのまま戻って伊東の宿へ。

熱海周遊 (3月14日)

 先週、木金土と伊豆旅行に行ってきた。いつものごとく健保の宿が抽選であたったから。伊東にある保養所は他の保養所に比べると施設が新しく、ちょっとしたホテルみたいな感じで人気があり、抽選でも外れることが多い。現役時代、土日や連休で申し込んで当たったことが一度もなかった。リタイアしてウィークデイで申し込むにようになってからは五割くらいの確率で当たるようになった。

 ここはベッドが標準のため、妻が利用するのに一番いい。他の保養所は畳で布団が基本なのでけっこう起き上がるのにかなり難儀なことが多い。最近は折り畳み式の簡易ベッドを用意してくれることも多いけど。そんなこんなで伊東の保養所に行くことが増えている。

熱海は斜面にへばりついた町

 初日は妻のリクエストで熱海の繁華街を回りたいという。そういえば熱海はいつも通過するだけでほとんど観光したことはない。行くのはたいていMOA美術館くらいだろうか。以前、会社の同僚たちとオヤジ旅行したときに少し回った記憶があるが、なんとなく坂が多い印象だった。そして今回それが思っていた以上だったことがよく判った。

 

 まず車はサンビーチに近接した市営駐車場に止めた。観光するには一番いいかと思ったのだが、これはあまりいい選択だったのかどうか。

 まずは海沿いの遊歩道を歩く。それから一般道へ出るには・・・・・・、階段を上り下りして駐車場の上の歩道橋を通る必要がある。結局来た道を引き返して一度駐車場に戻り、そこから脇に出る。

 すぐそこには熱海のシンボル?、『金色夜叉』の寛一お宮の像がある。

 

 その後は熱海の繁華街を目指すのだが、なにか有効な道がない。途中、ホテルの脇に「熱海駅〇〇メートル」みたいな案内板が出ているのだが、たいていは急な階段が延々続く。そこでだいぶ戻ってから駅方向の道に入りそこから熱海銀座にでてさらに上る。そこからはもう蛇行しながらきつい坂が延々と続く。そうだったな熱海は坂だらけの町だということを、昔の記憶がじょじょに蘇る。そして改めて思うに、熱海は坂だらけの町というより急斜面、崖にへばりついてできた町みたいだ。この町で老後を過ごすのはけっこう大変だなあと思ったりもした。

 かってはオヤジ旅行でほろ酔いかげんでうろうろしたのだが、今は車椅子を押してである。かなりしんどい、きつい。そしてようやく一番賑やかな平和通り名店街に出る。

 妻そこで食べ歩きをしたがっていたのだが、ウィークデイなのに凄い人出である。熱海は賑わっているなというのが一番の印象。客層はというと意外と外国人が少ない。圧倒的に多いのは若いカップルや集団。春休みということもあるし、多分大学生の卒業旅行とかそういうことなのだろうか。

 人気のまる天とかの前は長蛇の列。ちょうど昼時だったので食堂系、特に海鮮丼を食べさせる店の前にも行列ができている。これは並ぶのもちょっとしんどいなと思った。さらにいうと平和通り名店街も緩やかとはいえ、ずっと坂道である。それまでのかなりきつい勾配を上ってきているので、けっこう足にきている。

 食べ歩きを諦めて来た道を戻ることにする。途中で喫茶店「くろんぼ」なる店を見かけたりする。あとでネットで調べるとレトロな雰囲気でそこそこ有名な店のようだ。しかし今どきその名称はちょっとどうかと思ったりもする。

 大阪で家族三人で始めた「黒人差別をなくす会」による抗議の手紙で、『ちびくろサンボ』が絶版となったこと、カルピスのシンボルマークやタカラのダッコちゃん人形などが使用停止、発売停止になったことなど、1980年代に様々なムーブメントがあったことをちょっと思い出したりした。出版社が軒並み抗議を恐れて絶版、発売停止したが、抗議の主体はあくまで三人の家族、しかも当時小学生だった少年の発案だったとか、そういう話だった。

 たしか『ドリトル先生』シリーズの井伏鱒二訳にも差別的表現があり、会は抗議の手紙を送ったが、編集者が翻訳にも歴史的限界があることを明記した一文を『ドリトル先生』シリーズ各巻に投げ込むことで、発売停止をのがれたとかそういう話を読んだことがあった。

 しかし21世紀の今日にあって「くろんぼ」もないだろうと思う部分もあるが、しょせんは観光地のことだし、目くじらたてるのもなんなんかなと思ったり。

 

 昼飯は坂を下る途中で博多ラーメンの店があったのでそこで昼食をとる。まあまあ普通に美味しい。

 

熱海山口美術館

 

熱海山口美術館|体験と学びの美術館

 ここは去年の9月に訪れて以来だ。岡本太郎の河童がお出迎えしてくれる。入館料1400円だが、1階奥にある喫茶室でのドリンク一杯無料と絵付け体験がセットになっているのでまあまあお得感もある。

 

 喫茶室にはリトグラフや版画類が雑然と飾られている。ピカソやルオーのリトグラフと奥に見える片岡球子には60万の値がついている。多分販売をしているのだろう。

平櫛田中

岡倉天心胸像 (平櫛田中

 つい最近、谷中の岡倉天心記念公園の六角堂で観たのと同じ胸像。鋳造品はけっこうあちこちにあるようだ。

横山大観

横山大観4作

 前回と同じ展示だったので、大観作品はまさしく常設展示してあるようだ。一番左の《鶯》は幹の部分はたらしこみ、葉は輪郭線がないなど、技巧の技を尽くしているようだ。

《鶯》 (横山大観
芹沢銈介

法然上人御像》 (芹沢銈介)

 先日、東近美の日本画の室でミニコーナー的に展示してあった型染による染色家、図案家だ。そういえばこの人の美術館がたしか登呂遺跡の隣にあったことを思い出した。確か観ているはずだったがあまり記憶になかったな。

美人画と人形

 

 

 前回来た時に魯山人の陶器と日本画の並列展示に感心した。今回も陳列してあったが、今回はこの美人画と人形の並列展示が思いのほかよい感じがした。上のものがたしか鏑木清方、下の水彩画は安井曾太郎だったと記憶している。

現代芸術コーナー

岡本太郎

奈良美智

村上隆

 熱海山口美術館は小ぶりでアパートの各室を展示室にしたような、ちょっとした画廊の集合体のような雰囲気の美術館だ。収蔵品も小粒ながらなかなか名品も揃っているので、たまに訪れると小1時間、和やかに気分になれる。

 そして春休みということで、駅周辺はえらく賑わっている熱海の喧騒もこの美術館のあたりまでこない。ようするに空いている。熱海といえばMOAみたいな印象もあるが、この小ぶりの美術館ももう少し賑わいがあってもいいかもしれない。

日記について

 はてなブログはもともとはてなダイアリーとして始めた。

 2004年の11月だから、まもなく20年続けていることになる。

 それまで日記の類はというと、何度かチャレンジしたことはあるがたいてい三日坊主で終わる。学生時代に3年くらいに断片的に続けたことがあるが、それもいつのまにか霧散した。

 2004年頃というと、インタネーットが本格的に利用され、商用サービスがその一環でブログサービスも行い始めた。多くの人がブログを始めた。でも始めてみると、いったい何を書いていいのか、テーマも決まらず、なんとなく身辺雑記だったり、映画や読書の感想だったり、などなどだ。多分、たいていの人が途中でやめてしまったのでは。

 もちろん優秀な書き手は沢山いて、多くの読者、ページビューを獲得して収益をあげ、プロの書き手になった方も多数いるとは思う。でも一般人には実はそれほど書くような内容、コンテンツ的なものは持ち合わせていない。まあそういうものだ。

 自分はというと、ブログなどというだいそれたものをやろうなんて、最初から思っていなかったし、今でもそれは変わっていない。とりあえず身辺雑記、日常の記録をつけてみようとそんなつもりで始めたんだと思う。はてなダイアリーを選んだのも多分そういうことからだったのだと思う。

 とりあえず公開日記のようなものなら、敷居は低いのではということも思った。もっともそうした私的な文章をなにも公開で行うなどというのは露悪趣味ではないかと思ったこともある。まあそれはそのとおりだ。

 でもそのとき考えたのは、文章はとりあえず見られること、読まれることをある程度意識しないといけないのではないかと。まあそんなことだった。さらに、これは何度か書いてきたことではあるけど、その身辺雑記を書くのはある意味日常の記録ということだ。そのときにイメージしたのは無著成恭の『山びこ学校』や生活綴方運動みたいなことだった。

生活綴方運動

生活者としての子供や青年が、自分自身の生活や、そのなかで見たり、聞いたり、感じたり、考えたりしたことを、事実に即して具体的に自分自身のことばで文章に表現すること、またはそのようにして生み出された作品を「生活綴方」といい、こうした作品を生み出す前提における指導、文章表現の過程における指導、作品を集団のなかで検討していく過程での指導、これらをまとめて「生活綴方の仕事」「生活綴方教育」あるいは単に「生活綴方」とよんでいる。この生活綴方の仕事を発展させ、その普及を図ろうとする民間の教育運動が「生活綴方運動」である。ただし、それについてはさまざまな考え方があり、まだ、一致をみるに至っていない。[大槻和夫]

生活綴方運動(せいかつつづりかたうんどう)とは? 意味や使い方 - コトバンク

 自分自身の生活、周囲のことをリアルに綴ることによって社会認識が深まる。多分そういうイメージだった。

 とはいえはてなダイアリーも試行錯誤というか、何を書いていいのか判らないまま、どちらかといえば映画や読書の感想がメインだったようなことだったと思う。それが一変したのは2005年に妻が病気で倒れ身障者になったことだった。その頃はとにかく日々の生活、妻の闘病、リハビリ、そして自分自身は看病や看護、さらに子育てなどに追われる日々だった。もちろん並行して仕事もある。それらをとにかく記録しておこうと思った。たぶんあとからの検証したり、役に立つことがあるのではないかと。

 2005年からの数年間はほとんどそうした記録が綴られていた。実際、後になって読み返すこともあるし、役に立つこともあった。

 妻の障害もほぼほぼ固定されていくにつれ、ある意味では普通の日常を取り戻した。そこからは家族三人での生活、たとえ障害があっても普通の生活を送れるようにと、年に何度も家族旅行をするようになった。妻が元気な頃は、共稼ぎでお互い忙しかったこともあり、ほとんど旅行などしなかったのに。

 生活綴り方の内容は、旅行、映画鑑賞、子育て、などがメインになっていった。2015年くらいからは美術館巡りがちょっとした趣味となり、そのことを書く機会も増えた。

 2018年、はてなダイアリーのサービスが翌年の2019年で終了することが発表された。そのタイミングではてなブログにデータ移行し、それから5年続けている。多分、なんとなくというか、今までどおりだらだらと続けていくのではないかとは思っている。

 しかし今書いているのは、日記とはちょっと違うような気がしている。身辺雑記といっても、ほぼほぼ美術館巡りの感想文だ。それも更新の頻度も遅い。美術館に行ってもそのことをまとめるのに一週間近く経っていることも多い。

 2020年に仕事をリタイアしている。暇といえば暇なんだろうが、家事と通信教育をこなすのでけっこうヒーヒーいっている。生活の記録という意味で、気軽にパソコンの前に座ってはてなブログを書くという時間もなかなかない。

 

 そんなことを思っていて、もう少し気軽に文章を簡単に書くツールはないかと思っていた。家でのデスクトップPC、外ではスマホやノートPCなどで書くことができる。メモアプリが一番いいのだろうと思ったりもしている。

 実際、通信教育の学習ではSimple noteを使っている。あれは軽快だし同期も簡単だ。美術館などで解説キャプションをスマホでテキストとして取り込み、メモアプリに貼り付ける。それをSimple noteにコピーする。それだけでスマホでもパソコンでも見たり編集もできる。でもSimple noteはテキストだけで、画像などを貼り付けることができない。

 実際、学習で使うノートではSimple noteですばやくメモを取る。ビデオ授業でもそうだし、テキストがノートをとるのもそうだ。その後で、メモ内容をOnenoteでまとめる。こっちは画像やリンクも簡単に貼り付けることができる。イメージとしてはメモからノートをまとめる、清書するみたいな感じだろうか。

 学習においてはだいたいそういうパターンでSimple noteとOnenoteを併用している。そういうメモアプリ系で日記をつけることはできないだろうか。

 

 そこで試しにGoogle Keepを使ってみることにした。このメモアプリも軽快で複数のパソコンやスマホタブレットでの同期が簡単にできる。画像の貼り付けも簡単だ。

 タイトルを日付と曜日。3月11日なら「20240311 mon」と入力する。たいていスマホで書くのだが、それこそ何時に起きてゴミだしして、妻のインシュリンをうってとか、そういう日常の記録だ。美術館巡りの記録、テレビや映画を観た感想なども。

 ついでにラベルで「日記」と年月の二つを付している。今ならラベルは「202403」だ。そうすれば他のメモとは別に出来るとまあそんなイメージだ。

 本当をいうとキーワードでの検索とかそういう機能があればいいと思ったりもする。はてなブログはキーワード検索で昔の記録もとることができる。2020年にアメリカ旅行に行ったとき、車を成田でどこに止めるかとなった。その前にアメリカへ行ったのは2009年のことだが、「成田 駐車場」で検索すると、きちんと記録が残っていた。ターミナルに一番近い駐車場に事前予約を入れて、身障者割引も使えたことなどもわかった。

 Google keepにもそうした検索機能があるといいのだが、それはちょっと難しいようだ。とはいえあまり見返すとかそういうことではなく、日々の記録、本当にただの記録としてやってみようかと思っている。まあ仕事をしているときに手帳につけていた行動記録みたいなものの延長だ。スケジュール管理もずっとシステム手帳で行っていたけど、仕事を辞める数年前から手帳とGoogleカレンダーを併用するようになった。なんならGoogleカレンダーがメインみたいな感じだったか。

 今の最先端の仕事の現場がどうなっているか判らないけれど、多分かってのアナログに頼っていたものは相当部分IT機器にとって代わられているのかもしれない。たぶんGoogleカレンダーGoogle keepやOnenoteあたりがあれば、それでスケジュール管理や行動記録は全部OKのような気がする。ちょっとした思いつきのようなものはSimple noteを併用とか。

 ということで、2月の半ばからGoogle keepを使って日記をつけている。三日坊主にはならなかった。まもなく一か月経過する。まあどこまで続くかどうか。