都内周遊~墓巡り~谷中篇 (3月4日)

 三ヶ月ぶりの定期通院。数値はさほど悪くないが、血糖値が少しずつ上昇気味。脂っこいものを少し控えてとは主治医の先生のお言葉。

 

 健保のビルを出てからいつものごとくお茶の水丸善による。最近は本屋に入っても一冊も本を買わないで出てくることが多い。今回もそうだった。先日、友人たちと話をしていて太田愛が面白いという話が出ていてちょっと興味を覚えたのだが結局買わずじまい。本をぜんぜん買わない、読まないのかというと、そうでもない。テキスト類は2~3冊併読しているし、レポートとなると関連書籍も数冊読むのは常態化している。けっこうヒーヒーのフーフーでもある。

 

 丸善を出てからは、久々ブラブラしようかと思い、聖橋を渡って湯島聖堂を右手にみてそのまままっすぐ進む。湯島の界隈なのだが、大昔はラブホテルが多いところだったけど、今はずいぶんと代わっていてそういうホテルはほとんど影も形もない。ほとんどが建て替えられて、普通のビルになっている。なんとなく昔の面影が残っているホテルをひとつ見つけたが、そこも多分かなり改装されていて、普通のシティホテル風になっている。多分、外国人観光客が利用しているのかもしれない。

 そのまま直進すると湯島天神にぶつかる。

 

湯島天神

湯島天神公式サイト

 

 ここを訪れるのは10数年ぶりだろうか。たしか子どもの高校受験の時に、妻と二人で願掛けに来た。残念ながら子どもは第一志望の公立高校には落ちて私立高校に行くことになってしまった。ということでご利益はなかったということだ。もっとも落ちた高校より私立のほうが偏差値的には高いという微妙な部分もあるにはあったけど。

 境内では梅まつり(3月8日まで)が開催されていて、ウィークデイの昼下がりだというのに、けっこう人が出ていた。元気な高齢者、外国人、学生、まあ観光名所はどこも、そんな感じだろうか。

 梅はというと、まあ時期的にはすこし盛りが過ぎている感じだったが、華やいだ雰囲気はあった。

 

 

上野~根津~千駄木

 湯島天神を抜けてから上野池之端を歩いて、根津のあたりをぶらぶらする。このあたりは下町という感じがする。ぽかぽか陽気でとっくにコートを脱いで腕にかけて歩いていく。

 途中でいったん坂を上って東大の方に行ってみることにした。それからまた戻る感じで根津神社にでも行こうかと思った。根津神社に最後に行ったのはどのくらい前だろうか。たしか日本医科大学病院に入院していたかっての職場の後輩を友人と二人で見舞いにいった時だった。後輩は重い肝硬変でかなり危ない状態だったが、自分たちが行ったときは普通に話もできた。病院を出てから、友人と二人ですぐ近くの根津神社を歩きながら、快方に向えばいいねとかそんな話をしたんだと思う。

 後輩はそれから一か月くらいで亡くなった。通夜にかけつけ対面したときには、なぜか一気に涙がでてきた止まらなかった。二歳下、ほぼほぼ同世代。自分とはそりが合わず、ぶつかることも多かった。でも彼を含め当時の同僚とは毎日のように酒を飲んだ。二十代の様々な記憶が錯綜する。

 根津近辺を歩くと微妙に感傷的になるのはそんな記憶があるからでもある。ただし今回は道を間違えたのか、根津神社の方にはいかなかった。歩いていくとほとんど白山の方に来てしまい、慌てて千駄木方面に曲がった。その日は久々、墓地巡りということで谷中霊園に行ってみようと、途中で方針変更。というか歩いていてなんとなく目的地が決まった。

森鴎外記念館

 谷中に向けて歩いていて団子坂の近辺まで来たときに右手にちょっと異形な建物が目に入った。なにこれ、美術館かなにかだろうか。

 

 近くへ行くと森鴎外記念館とある。しかも月曜日なのに開館している。ということでちょっと入ってみる。

https://moriogai-kinenkan.jp/

文京区立森鷗外記念館 - Wikipedia

 ここは森鴎外の旧居跡地(通称観潮楼)に建てられた記念博物館。鴎外はこの地に1892(明治25)年から亡くなる1922(大正11)年まで過ごした。この記念博物館は、鴎外の遺品や関連資料の収蔵・整理・展示を目的として2012年に開館したのだとか。

 そうか鴎外は関東大震災を知らずに亡くなったのか。死んだのは60歳だったとか。夏目漱石はたしか1916(大正5)年に49歳で亡くなっているのだが、二人の文豪は昭和を知ることもなくこの世をあとにしたんだと、改めて思ったりもする。そして今更に思うのだが、自分はとっくに漱石や鴎外の年齢を超えていることに驚いたりする。まあ平均寿命が100年前とは大きな違いがあるとはいえのことだ。

 鴎外のこの観潮楼は有名だが、たしかそれ以前に住んでいたのは駒込千駄木町の家で、「千朶山房(せんださんぼう)」と名付けて1890年(明治23年)から2年間暮らした。それから11年後、その家は夏目漱石が3年間住み、そこで『吾輩は猫である』や『坊ちゃん』を執筆した。この家は愛知県犬山市明治村に移築され、いまでも公開されている。以前訪れた時に、ここに鴎外や漱石が住んだのかと思ったりもした。こんな家だったか。

 

 館内の展示室は地下にあり、鴎外の年譜にそって資料類(手紙、原稿など)が展示してある。面白かったのは、二度目の妻志げと結婚したときに友人に送った手紙の内容。鴎外は40歳で志げは22歳、二人とも再婚同士だったが、志げは美人の誉が高かった。手紙にはこう書き記されている。

好イ年ヲシテ少少美術品ラシキ妻ヲ相迎ヘ大イニ心配候処

万事存外都合宜シク御安心被下度候

(いい年をして、少々美術品のような妻を迎え、たいへん心配していましたが、うまくやっていますのでご安心ください)

 いくら若い後妻が美人だとはいえ「美術品のような」は言い過ぎだろう。とはいえどこか相好をくずしているようなそんな面持ちも想像できたりする。

 

 常設展示とは別にコレクション展として「コレクション展「近所のアトリエ―動坂の画家・長原孝太郎と鴎外」が開かれていた。こちらはさっと流し見した程度。

岡倉天心記念公園

 

 団子坂を下って少しいったところに標識があったので、曲がって細い道を少しいったところにあった。岡倉天心の旧居跡地で、ここで日本美術院を立ち上げた。小さな公園だが、奥に小さな六角堂がある。

 

 なかを覗くと金色の岡倉天心像があった。あとで調べたら平櫛田中の作だとか。

 

 月曜日の昼下がり、ほとんど人がいない。自分と同じような年配者が一人、二人坐って休んでいるくらい。多分、御近所さんだろうか。

全生庵

 岡倉天心記念公園を後にしてもと来た道に戻る。この道は都道452号線、通称神田白山線といい白山から谷中墓地にぶちあたり、そこから上野公園の方に向かい神田まで行く道路。

 戻って谷中墓地を目指して歩くとすぐ右側にやや大きなお寺が。というかこのへんはとにかくお寺が多く、感覚的には100メートルおきに大小の寺社があるような感じ。このお寺は全生庵という。入口に山岡鉄舟三遊亭圓朝の墓があると案内が出ている。

 全生庵-山岡鉄舟ゆかりの寺- – 全生庵は山岡鉄舟居士が徳川幕末・明治維新の際、国事に殉じた人々の菩提を弔うために明治十六年に建立した。尚、居士との因縁で落語家の三遊亭円朝の墓所があり円朝遣愛の幽霊画五十幅 明治大正名筆の観音画百幅が所蔵されている。(全生庵七世現住職 平井正修 記)
三遊亭圓朝

三遊亭圓朝 - Wikipedia 

  近代落語の祖みたいな人か。この人の落語の速記本が近代文学の言文一致に影響を与えたとか、そのへんを去年学習したような。レポート書くため『真景累ヶ淵』を読んでから二葉亭四迷の『浮雲』を読んだ。たしかに『浮雲』の言文一致は口語体というより、調子のよい語りで落語のべらんめえな感じがあった。いってみれば初期の言文一致は口語体というより戯作調だったような。まあこれは別の話だ。

 圓朝のイメージというと、鏑木清方の絵が思い浮かぶ。近代肖像画の傑作として重文指定される一作。

三遊亭圓朝像》 鏑木清方 紙本着色 東京国立近代美術館所蔵
山岡鉄舟

 山岡鉄舟 - Wikipedia

 幕末の幕臣駿府西郷隆盛と会談して江戸城無血開城への道を開いた。幕末ものには必ず出てくる人でもある。大河ドラマ勝海舟』で宍戸錠が演じていたのをなんとなく覚えている。あのドラマは1974年放映だからもう50年も前のことになる。やれやれだ。

 宍戸錠が演じたということもあり豪放磊落の人というイメージがあるが、実際の鉄舟は身長188センチあったという説もあり、当時としては巨人の部類に入るのではないかと思ったりもする。江戸時代のガタイのでかい人というと、たしか高山彦九郎も180センチ以上あったようが、山岡鉄舟はそれ以上の人だったようだ。

 この全生庵自体、山岡鉄舟明治維新に殉じた人々を弔うために発願し、1883(明治16)年に創建されたのだとか。

谷中霊園

谷中霊園|TOKYO霊園さんぽ

谷中霊園 - Wikipedia

 23区内の由緒正しい大きな霊園といえば、青山霊園雑司ヶ谷霊園、染井霊園などとともに有名な谷中霊園。ここは都営の谷中霊園と上野寛永寺墓所が隣接しあっている。いつものことながら、事前に調べたりを一切せずに巡ってみた。

徳川慶喜

徳川慶喜 - Wikipedia 

 言わずと知れた徳川十五代、最後の将軍である。墓は谷中墓地に囲まれるようにしてある寛永寺墓所の一角にある。周囲は塀で囲まれていて、一部は改修中のように近づけないようになっていた。

 全生庵山岡鉄舟慶喜が直々に依頼され、恭順の意と無血開城、自身の身の安全を西郷隆盛に申し入れたという。

渋沢栄一

渋沢栄一 - Wikipedia 

 日本資本主義の父とも称される人物。この人も大河ドラマ『青天に衝け』で話題になった。埼玉県深谷市出身のため埼玉では郷土の著名人としてなにかと話題に出る。

 そういえば新1万円札はこの人の肖像になるときいたが、あれはいつからだったか。調べると今年の7月からという。新札で自販機とか、両替機とかの入れ替え需要とかもあるかもしれないけど、逆に対応できずにシンドイ思いをする企業も多いのではないか。ひょっとしたら新札倒産とかもあるのか。あとはキャッシュレスが加速化しそうな気もする。まあこれもどうでもいいことだ。

菊池容斎

 菊池容斎 - Wikipedia

  幕末から明治初期に活躍した画家。画家としての評価よりも、有職故実を研究して表した『前賢故実』が有名。弟子には松本楓湖、渡辺省亭らがいる他、梶田半古も私淑した。梶田半古は弟子の小林古径前田青邨らに繰り返し『前賢故実』を書写させた。そういう意味では近代日本画における歴史画のジャンル誕生に菊池容斎が果たした功績は大きい。

 実作もいくつか観ているのだが、覚えているのは東京ステーションギャラリーで開催された「コレクター福富太郎の眼」展に出品されたこの絵。

《塩治高貞妻出浴之図》 菊池容斎 1842(天保13)年 福富太郎コレクション
福地源一郎

福地源一郎 - Wikipedia 

 幕末の幕臣、明治初期のジャーナリスト、小説家、劇作家。東京日日新聞の社長など多方面で活躍した人。福地桜痴とも称した。

高橋お伝

高橋お伝 - Wikipedia 

 明治の毒婦。強盗殺人及び密通により斬首された女囚。芝居や落語などの題材にもなっている。これは墓というよりも高橋お伝の碑であり、1881(明治14)仮名垣魯文が音頭を取り、お伝を題材にした芝居等があたったため、歌舞伎役者や落語家の寄付で建立されたという。

横山大観

横山大観 - Wikipedia 

 いわずと知れた日本画の大家。この墓は偶然見つけた。というよりも谷中霊園には著名人の墓を案内するような地図や案内板の類がほとんどない。なのでぐるぐると巡りながら、探していくような感じになる。もちろん大観の墓が谷中にあることも実は知らなかった。

鳩山一郎

鳩山一郎 - Wikipedia 

  横山大観の墓の右隣にあった。鳩山一郎は、戦前、戦後の大物保守政治家。日ソ国交樹立に貢献した人物である。この人の一族はまさに華麗なる一族といえる。父親の和夫は弁護士かつ法学博士・政治家、弟の秀夫は民法学者で我妻栄の師でもある。50年近く前の法学部生にとっては一粒社刊の我妻民法、通称ダットサンにはずいぶんとお世話になった。我妻先生の師匠というだけで畏敬の念をもったりする。

 一郎の息子威一郎は大蔵官僚として主計局長まで上り詰め、その後は参議院議員を3期務めた。そしてその息子が総理大臣にもなった鳩山由紀夫自民党新進党民主党などを渡り歩いた鳩山邦夫だ。そういえば鳩山邦夫も2016年に亡くなっている。

 この墓所には鳩山一郎、威一郎などの墓があるが邦夫の墓はないようだ。華麗なる鳩山一族の墓所としてはちょっと小ぶりかなと思ったりもした。

佐藤一斎

 佐藤一斎 - Wikipedia

 江戸時代後期の儒学者。この人はなによりも渡辺崋山肖像画として有名である。江戸期の写実的肖像画の嚆矢ともいうべき名作であり、重文指定もされている。トーハクで何度か目にしているが、儒学者の精神性が見事に描かれている。

佐藤一斎像》 渡辺崋山 1821年 絹本着色 
朝倉文夫

 朝倉文夫 - Wikipedia

 けっこう立派な墓だなあと思い足を止めた。朝倉文夫、なんとなく聞き覚えがあるなとしばし考える。そう、彫刻家の朝倉文夫だった。東近美でよく観た《墓守》が代表作だろうか。

《墓守》 朝倉文夫 1910年 ブロンズ像 東京国立近代美術館所蔵

 これも重文指定作品である。東洋のロダンと呼ばれた朝倉文夫の代表作。谷中天王寺の墓守をモデルにしたというが、どう見ても墓守に見えない。西洋の哲学者然としている。明治期、西洋の技法、作品を受容して作り上げたものなのだろう。同じような印象を受けたのは、例えば原田直次郎の《靴屋の親爺》。あれも靴屋にやっぱり見えない。ギリシアの哲学者の肖像画のようだった。

 谷中墓地のすぐ近くに朝倉彫掘館がある。これも偶然前を通りかかった。月曜日は休館のようだが、まあ見つけたのがすでに6時を回るような時間でもあった。

 台東区立朝倉彫塑館

今回の周遊

 今回のぶらぶら歩き、都内徘徊、もとい周遊、最後に最寄り駅に着いてからiPhoneアプリを開いたらジャスト18キロとなっていた。これはちょっと歩きすぎかもしれない。もうアラフィフというよりアラセブに近いだけに無理しすぎたか。

 しかし墓巡りはちょっと楽しい。様々な人々の人生が記された墓誌の集合体でもある。余裕があれば著名人だけでなく無名の方の墓誌などをみて、その方の人生を思い巡らすのもいいかなどと思ったりもする。

 今回歩いたコースはだいたいこんな感じだったか。

 

 

 

WEB「社会学」の試験終了

 明け方まで社会学試験の答案作りをしていた。問題は5問あって、実際に出るのは1問だけ。それぞれの問題は1200字程度の論述式。1問か2問ヤマはるかと思ったが、今回は律儀に全部の問題の解答を作ってみた。

 すべて終了してからWEBサイトの科目の試験を開く。制限時間は1時間。実際の問題はというと、一番文章的にはこなれていないというか、散漫な感じのするやつだったけど、まあ仕方がない。シンプルノートで作っておいた論述をコピーして貼り付けるだけ。時間にして10分も経っていない。試験も様変わりしたものである。

 提出ボタンをポチってサイトをとじて終了。窓のカテーンを開けると、なんと雪が降っている。3月の雪というのも珍しい。

 社会学はテストの前にレポートを提出している。5つの設問をそれぞれ650字程度で論述。最後の1つは1400字程度。そのうえで試験は1200字だから、たった2単位の一般教養科目とはいえけっこうな分量だ。こういうのを普通にこなすとなると、今の大学生も大変だなと思ったりもする。

 50年近く前の自分の学生時代のことを思うが、そんな学習したような記憶がほとんどない。授業もほとんど出ず、雀荘と部室を行ったり来たりしてたし、試験はほとんど一夜漬けだったか。荒れた大学だったので、そもそも試験があったのは2年だけ。あとはレポートだけだったような記憶がある。

 それを思うと還暦大学はなんと勤勉なことか。つくづく思うのは学生時代にもっと勉強すべきだったとか、30代、40代にもっとさまざまな学びを体験すべきだったとか、まあその手の繰り言だ。

試験問題は以下5問中1問。

  • 社会で男女が期待されている役割、並びにその役割のために生じている問題についてまとめる
  • SNSにおけるコミュニケーションについて、新聞との違いをふまえその特徴をまとめる
  • ポストトゥルースとはどのようなもので、それに対していかなる対策をとることができるのか、自身の考えをまとめる
  • 「生/死の管理システム」の利点と問題点を、具体例に即してまとめる
  • 「連関の社会学」の考え方を理解した上で、身近な事例について考えまとめる

 そして書いた答案は以下。正直出来が悪いが致し方ない。「ポストツゥールース」や「連関の社会学」といった聞き慣れない言葉に困惑し、それを調べたりするのに時間がかかり過ぎた。まあ普通に考えれば高齢化社会という状況のなかで一番出やすいのは「生/死の管理システム」一択だったかもしれないか。

 生/死の管理システムのもとになる考えは、ミシェル・フーコーが提起した「生権力」という考え方による。それはもともとは近代以前の古い王政などの強権力が、民衆に対して有する死に対する権利(殺す権利)に対して、近代以降の政治権力が民衆の生を管理・統制することを主眼とした生権力に転換されてきたという主張にある。その生権力の一つとして、出生・死亡率の統制、公衆衛生、住民の健康への配慮などの形で、生そのものの管理を目指すことにある。この生権力による生/死の管理は、主に医療として行われてきた。
 医療の進歩により超高齢下社会となった日本では、健康寿命を超えた高齢者の生/死は基本的に医療によって管理されてきている。具体的には病院医療が生/死の管理を担っているといっていいのではないか。
 厚労省の調査では、住み慣れた自宅での在宅死を希望する人は7割近くにも及ぶが、実際の在宅死、病院死の割合では最近でも7割の人が病院死しているというデータもある。また病院医療は患者を治す=延命することが目的とされており、健康寿命を過ぎた高齢者が安らかに死を迎える場としてはそぐわない部分もある。
 超高齢化社会の中で医療費の増加、医療資源のひっ迫などもあり、また介護を受ける高齢者を支える在宅医療や在宅介護をすすめるため、国は2004年に医療介護一括法を制定し、病院や施設の負担を軽減し、医療と介護を地域で一体となって進める「地域包括ケアシステム」の構築が推進されてきた。これにより、医療、介護、生活支援などの各種サービスによって、可能な限り住み慣れた地域で、自宅で、人生の最期を迎えられるような方向性が示されている。
 これはある意味で、国家による生政治的な生の管理から、人の死の管理をも行う意味合いもある。それにより病院での過度な延命治療の末の病院死から、本人の希望にそった形での在宅死を可能にするインフラを整備していくという部分だ。
 一方で地域包括ケアシステムは、国にとっては医療・福祉コストを抑えるという思惑もある。高齢者人口の増加が予想されるなかで、現在の医療保険介護保険制度をなんとか維持していこうということである。また地域包括ケアシステムが十分に確立されていないため、実際のところでは在宅医療や在宅介護が、本人(患者=高齢者)やその家族に大きな負担を伴っている。それは経済的な負担とともに、介護を担う家族の物理的負担にもなっている。特に少子高齢化社会にあっては、後期高齢者の両親を高齢者の子どもが介護するという老々介護の問題も指摘されている。
 さらに在宅で対応できない場合は、介護をメインにした介護施設への入所となるが、低額で入所できる特別養護老人ホームは満杯状態にあり、受け入れ可能な有料施設は入所費用が高額となっているため新たな負担増が強いられる。さらに介護労働の賃金の安さなどから、介護労働者の不足や、その質の問題もあり、十分なサービスが提供できないといったことも生じている。
 病院での生の管理、そして在宅や施設での死の管理、いずれも満足のいくものになっていないなど、生/死の管理システムは道半ばというのが実相でもある。

 

OB会に出る

 都内某所でOB会に出る。大学を卒業して初めて勤めた場所である。

 集まったのは今年還暦を迎える人、まだ嘱託で働いている60以上の方、そして65歳以上のリタイア組、一番年長は後期高齢者となった75歳くらいの人など。

 懐かしい場所、人たちばかりだ。自分も含め、みな老いているが30分もすると昔のイメージとダブリだす。確かに懐かしい先輩や同僚たちだ。2時間と少し少々のアルコールとともに歓談して過ごす。

 実はこの職場には3年半くらいしかいなかった。その後は5度の転職を繰り返す漂流を続けた。その3年半の期間なのにいまだに交流がある友人、知人が数名いる。自分が勤めたのは24の時。そして辞めたのが28になる時だった。指折って数えるとすでに40年の月日が経っている。これはまいったなというのが正直なところだ。

 3年半在籍の職場の人々と会う、その場所にいってみる。なんでそんな気になったか。まあリタイアした暇な老人だから(実はそれほど暇でもない)。いや違うな。多分、こんな機会でもなければもう会うことがない人たち、そして行くことのない場所、多分最後になるかもしれない、そんなちょっとした感傷的な気分が動機かもしれない。

 もっともその場所はほとんどの建物が立て直され、縦方向に延びていく未来的なビル群に様変わりしていて、自分がかってそこであくせく働いていたときの記憶を喚起するものはほとんどないに等しい場所になっていた。

 関東近県に住む数年後輩の方とも久々に会った。まさに40年ぶりだ。その方も稼業を継ぐために早くに辞められたという(在籍は8年だったとか)。すでに稼業もたたみ、今は地元の回転寿司店でアルバイトをしているという。興味深かったのは、従業員の7割が外国人、そして店長も外国人だという。入りたての人はほとんど日本語も話せないとか。いろんな国の人かと聞くと、ほとんどの人がネパール人だとか。

 その人の住む県でも最低賃金は1000円を超えるが、若い日本人はほとんど集まらなず、外国人と高齢者に依拠しているのだとか。職場でコミュニケーションをとるのも大変だと嘆いていた。日本語が判らない新人バイトも、ほかのベテランバイトにサポートを受けているので、仕事的にはさほど支障もないのだとか。

 もっともそうした職場で店舗の管理職を担うような外国人は、語学力も高く日本人と同様にコミュニケーションがとれる。たぶん本国でもそれなりに教育を受けた人たちなのかもしれないなと推測する。

 少子高齢化と人口減の日本社会の縮図のような話だ。時給2000円以下の低賃金の職場では、外国人への依存度が高まっていくのだろう。いずれは外国人の管理職のもとで、貧窮化した日本人高齢者が働くみたいな図式も一般化していくのかもしれない。そういう職場での鬱屈した部分が匿名の排外主義的な主張に収斂されるなんてこともあるのだろうか。

 そんなことを考えていたところでピンポンとドアフォンの音がする。モニターで確認すると新聞の集金だという。出てみるとやはり外国人の若い女性の方である。そういえばここ半年くらい、新聞の集金にくる人も外国人が普通になった。

「いつも来る方と変わったんですね」と聞くと、「その人も一緒に仕事してます」と少しカタコトだけどきちんとした日本語で答えが返ってくる。

「どちらからきたの?」

「ネパールです。同僚も同じです」との答え。

 そういえば回転寿司で働く外国人もネパール人だと言っていたような。今、日本に労働で来る外国人のうちネパール人て増えているのかもしれない。日本に来て働くのはまちがになく日本よりも貧しい国かもしれない。でも円安が続く日本は、次第に外国人労働者にとって魅力のない、稼げない安い国となるかもしれない。ネパール人、ベトナム人クルド人など日本に来ている労働者も、いずれは別の国を目指すかもしれない。台湾、中国、オーストラリア、多分日本よりははるかに稼げるかもしれない。

 そうなると日本は人口減少、労働力不足という状況が拡大する。いずれは高齢者が働き、高齢者が需要者となるそういう貧しい国になるのかもしれない。

 

 かって汗水垂らして働いた懐かしい場所。もはやその残滓すらない。

 

東近美に行く (2月29日)

 2月29日、そうか今年は閏年か。4年後、自分はこの世にいるんだろうか。

 そんなちょっとした感慨を覚えつつ、今年最初の東京国立近代美術館(東近美)に行ってきた。企画展は写真家中平卓馬の回顧展。MOMATコレクション展「美術館の春まつり」は3月15日からの予定なのだが、先行して「桜」や「花」をモチーフにした作品がすでに展示されていた。

 

 

中平卓馬 火―氾濫

中平卓馬 火―氾濫 - 東京国立近代美術館 

  この名前には聞き覚えがある。と、写真を見て思い出した。去年の夏に神奈川県立近代美術館で、森山大道中平卓馬の二人展を観ていた。

神奈川県立近代美術館葉山館 (7月15日) - トムジィの日常雑記

 いわゆる「アレ・ブレ・ボケ」と称されるインパクトのある、なんていうんだろう状況を切り取ったようなそんな写真群という感じで、写真を観ればなるほどと思うのだけど、うまく言語化できない。ただいえるのはこの手の作品、手法は普遍性よりも、時代性の影響とかを反映しているようなそんな気もしないでもない。

 でも、「アレ・ブレ・ボケ」ってなんだ。

中平卓馬森山大道といった『プロヴォーク』(1969創刊)の写真家たちに特徴的な手法で、当時、第三者からは「ブレボケ写真」と総称された。彼らの写真に特徴的なノーファインダーによる傾いた構図、高温現像による荒れた粒子、ピントがボケてブレた不鮮明な画面は、既存の写真美学——整った構図や美しい諧調、シャープなピントなど——に対する否定の衝動に由来しており、反写真的な表現のラディカリズムを追求するものであった。中平によればそうした写真は「視線の不確かさ、と同時に世界の不確かさをひきずりだし、それを対象化する」ものであった。しかし、その後70年代には多くのエピゴーネンを生み、広告表現にも使用されるなど、初発のラディカリズムは次第に骨抜きにされていった。76年には『アサヒカメラ』誌上で「ブレボケはどうなった」という特集が組まれるが、「時代遅れ」の手法として揶揄するような側面が強い誌面となっている。森山や中平たちは50年代のニューヨークを荒々しい手法で撮影したウィリアム・クラインの影響を受けていることを告白してる。

           (著者: 小原真史)

アレ・ブレ・ボケ | 現代美術用語辞典ver.2.0 (閲覧:2024年3月1日)

  • 「ノーファインダーによる傾いた構図、高温現像による荒れた粒子、ピントがボケてブレた不鮮明な画面」
  • 「既存の写真美学—整った構図や美しい諧調、シャープなピントなど—に対する否定の衝動に由来している」
  • 「視線の不確かさ、と同時に世界の不確かさをひきずりだし、それを対象化する」

 なるほどそういうことかとストンと落ちる感じだ。あの「アレ・ボケ・ブレ」によって活写され対象はキレイで整った、秩序だった様々な表象の裏側にあるもの、それは衝動であったり、矛盾であったり。ようは世界の表象の内面性を抉り出すための手法だったのかと。

《夜》 1969年頃 東京国立近代美術館

 ただしその手法による作品群は、おそらく60年代後半というある種激動の時代にあってこそ効果があったのではないかと思ったりもする。時代が収束に向かった70年代半ばから、そうした作品のインパクトはじょじょに力を失っていったのだろうし、それとともに中平や森山の活動も低迷していく。

  この写真もなんとなくだけど、市街を疾走する軍用トラックのごとく見える。それは70年安保を前にした時代状況、ベトナム戦争への反対機運、それを契機とした世界規模での反戦運動、そういう時代の雰囲気を伝えているのかもしれない(違ってたらごめんなさい)。

 この「アレ・ボケ・ブレ」によって切り取られた対象は、その対象の背後にある文脈や時代性を抜きにしたとき、作品単体としてはなんかよく判らないけれど、なんとなく迫ってくるもの、みたいなインパクトだけみたいなものになってしまう。

 ようは「アレ・ボケ・ブレ」はインパクトを与える手段、手法になってしまうとういことだ。実際この手法は普通に商業写真にも取り入れられいくようになる。中平や森山にはジレンマを感じさせただろうが、ようは換骨堕胎みたいなもので、「アレ・ブレ・ボケ」のインパクトだけが独り歩きしていったということなんだろうか。なんとなく覚えているけれど国鉄のディスカバー・ジャパンのポスターとかその手の類だろう。多分こんな感じのやつだろうか。

 

 まあそれはそれとして、中平の写真は21世紀の今みても一定のインパクトをもっている。でもやはり彼のもっとも印象的な作品はやはり60年代後半という時代を背負っている。時代の内面を抉り出すような作品が、なんとなくノスタルジックな感傷性を秘めてしまう。そしていささかの古さとともに。

 60年代後半、まだ小学校か中学校に上がるくらいの子どもだった自分にも、中平の写真はなんとなく同時代性を感じさせる。ただそれは同時代を生きたという部分での懐かしさみたいな部分だ。あの反体制への情動にも似たうねり、ああいうものはもはや失われてしまったもの、こと、として受容される。中平や森山の作品の背後にあった問題意識みたいなものを、多分も失われてしまったんだろうなという思い。まあいいか。

 

 

 

 

 中平は大学卒業後の数年、雑誌『現代の眼』の編集者だった。最初の彼の作品は勤めていた社の雑誌が発表の場所だった。『現代の眼』、新左翼運動への共感、共闘を全面に打ち出していたいわゆる新左翼系雑誌だ。当時の問題意識をもった若者たち、今風にいえば過激な左翼的志向の彼らが手にした雑誌は、『朝日ジャーナル』と『現代の眼』だった。

 自分も高校生の頃だったか、『朝日ジャーナル』や『現代の眼』はよく読んでいた。70年安保に遅れてきた少年の一人として、問題意識と知的好奇心がそうした雑誌を手にとらせたんだと思う。まだ若者が社会変革を唱えることが当たり前だった時代でもあった。まあもろもろ下火にはなっていたけど。 

 もっとも『現代の眼』を発行していた現代評論社は、右翼総会屋が経営していた。総会屋が法規制で凌ぎがなくなると同時にこの雑誌も廃刊となった。そんな話を聞いたのはずいぶん後になってからのことだ。

MOMATコレクション

 
《行く春》
《行く春》 川合玉堂 1916年

 常設展示は3月15日からの「美術館の春まつり」の展示作品を先行展示しているようで、4階ハイライトはこの時期恒例の川合玉堂のこの作品から。

 川合玉堂は四条派の写実を望月玉泉や幸野楳嶺に学び、上京してから橋本雅邦に師事して、狩野派の手法を取り入れたという。よくいわれることだが、この作品でも対岸の崖や手前の岩石の輪郭線や岩肌の皴法などが特徴的だ。さらに散りゆく桜の花びらの舞う渓谷と係留された舟、そこで働く人など、日本的なふるさとの原風景、桜の季節の終わる頃のゆったりとした時間の流れ、そうした牧歌的かつ抒情的瞬間を活写した作品だ。

 よく見ていると単なる写実性とは異なる、ある種の強調表現も多用されている。以前にも思ったことだが、散りゆく桜の花びらは渓谷の風景に対して、妙に大きいような感じがする。桜は画家の近くで舞っているのだろうか。それは画家の至近で花吹雪のように舞う桜の花びらの中で、遠景の渓谷を眺めているのかもしれない。それでもやはり花びらは渓谷の上を舞っているように見える。一種の強調表現なのかもしれないし、遠近法を超えたイリュージョンなのかもしれない。

 そしてゆっくりと舞う花びらとともにゆったりと時間が流れていくような雰囲気。それでいて渓谷の川の流れは急であり、係留された舟は流れに対して一本の縄でひっしに留まっている。そして水車から流れ落ちる水流。

 桜の花びらが舞うゆったりとした渓谷の時間、忙しなく流れる渓流。それがどこか対比されているような感じもする。この絵、至近で細部を観ているとまったく飽きることがない。

 

 

 
《春秋波濤》

《春秋波濤》 加山又造 1966年

大阪・金剛寺の《日月散水図屏風》が、四季を屛風一双に表しているのを見て感銘を受けた加山が、切金、金銀泥、金銀箔、沃懸地*1、の技法を駆使して描いた、桜の山と紅葉n山という春秋を象徴する二景が、うねる波濤によって六曲一隻の屛風におさめられ、時空を超越したこの世にならぬ光景となっている。 『東京国立近代美術館所蔵名品選 20世紀の絵画』より

 大胆な意匠と装飾性は尾形光琳を意識したものとはよくいわれる。至近で観てみると、抽象表現主義の技法も取り入れているのではないかと思えるほど抽象度が高いように思える。やはり自分的には加山又造は奇想の人というイメージがある。

《南風》

《南風》 和田三造 1907年

 これも4階ハイライトに。隣が原田直次郎の《騎龍観音》なので重要文化財つながりみたいなところだろうか。まあ観慣れた作品、名作ではあるが一介の漁師がこんなギリシャ彫刻のような筋骨隆々かと突っ込んだりして。

 今回、改めて解説キャプションを見てみると、この作品は和田三造の実体験をもとに描かれたものだとか。和田は1902年、美術学校在学中に八丈島航路で嵐に遭遇して三日間漂流して伊豆大島に漂着したという経験をしている。船が沈まないように荷物を捨て着の身着のまま状態だったのだが、船長のはからいで画学生の和田は画材を捨てずにすんだという。画面左側にひざを抱えて座る人物は和田自身。

 この作品は1907年の第一回文展で最高賞の二等賞を受賞。困難に立ち向かう不屈の精神性が、当時の列強に立ち向かう日本に呼応するような形で受容されたという。

 明るい陽射しのもとで海を進んでいくようなイメージを感じていたが、漂流シーンだったかと改めて思った。とはいえ西洋画によくある漂流をモチーフにした作品のような、劇的なものを感じさせない。1900年代初頭の日本には、まだ西洋画のロマン主義的作風は伝来していなかったのかもしれない。あくまでも「明るく、たくましく」的である。

《コンストルクチオン》

《コンストルクチオン》 村山知義 1925年

ベルリンで前衛美術の洗礼を受け「普遍妥当的な美の基準はない」ことを学んだ村山は、芸術と日常との境界を取り外すかのように、木片、布、ブリキ、毛髪、そしてドイツのグラフ雑誌のグラビアなど、身の回りの素材を用いて画面を構成した。一見、破壊的で混沌としてみえるこの作品だが、一方で、左上に突き出す角材と中央の下向きの矢印との対比や、垂直軸と水平軸の強調などは、構築への意思を感じさせる。

 海外の前衛的な思潮を伝えた戦前の振興美術運動のリーダー的存在であった村山知義は、帰国後柳瀬正夢らと前衛グループ「マフォ」を設立。建築や演劇など幅広いジャンルで活躍した。吉行淳之介の母である吉行あぐりの山の手美容院の設計や日本プロレタリア美術家同盟設立などに中心的な役割を果たした。

 この作品にも近代文明への批評や批判、そして構築のイメージなどが入り組んだ先進的な表現があるとされている。そのうち初期の前衛美術の受容作例として重文指定でもされるのではないかと、ひそかに思っていたりする。

 でも至近でよく見てみるとちょっとユーモラスな文様もあったりして、これを大真面目に付加したのか、あるいはちょっとしたイタズラ心だったのか。この「豚、鳥、蓄音機風、ヘビの文様を『マヴォ』の広告デザインとの関連、あるいは原始キリスト教チベット仏教由来のものとの関連を指摘する論文もあったりする。ちょっとしたイタズラ心でかたずけてはいけないのかもしれない。

村山知義の 「過度期」 の作品に就いて
《キーワード》コラージュ 構成主義 新興美術 写真」 (ジョン・ワインストック)

http://www.lit.kobe-u.ac.jp/art-history/ronshu/4-3.pdf

 

 

 
《麗子六歳之像》

 4階3室では岸田劉生のミニコーナーがある。なんでも今年は劉生の娘麗子の生誕110年にあたるということで、ちょっとした《麗子像》祭といった雰囲気だ。一番有名なトーハクの《麗子像》の借り受けはないようだが、いつも見慣れた《麗子肖像(麗子五歳之図)》とは違う《麗子像》の展示もあった。

《麗子六歳の像》 1919年 水彩・紙

 キャプションには岩波茂雄旧蔵、岩波雄二郎遺贈とある。岸田劉生の全集が岩波書店から出ていることもあり、戦前岩波茂雄岸田劉生には交流があったのかどうか。まあ普通に戦前の高額所得者であった岩波なので絵画もそこそこ収集されていたのかもしれない。岩波雄二郎は二代目岩波書店の社長。個人経営だった岩波書店が1949年に株式会社化したときに30歳で社長に就任、以後、会長、相談役を歴任して2007年に死去している。

 モダンな青年実業家で社長就任と同時に東京商工会議所の発足に中心的な役割を示した。岩波の経営は主に小林勇が担っており、岩波書店と岩波家の架け橋的存在だったのではないだろうか。ゴルフ嫌いである時期までは岩波書店でゴルフの話題は禁句だったというエピソードが実しやかに語られていた。

 絵の来歴一つみていてもいろいろ喚起することがあり、それも絵画鑑賞の楽しみかもしれない。

 このコーナーでは麗子の写真も展示してある。リアル麗子はなかなか利発そうな雰囲気の少女だ。右側は母親で茶人でもある蓁(しげる)。

 
芹沢銈介

 3F日本画のコーナーでは染色工芸家、図案家芹沢銈介の特集。

芹沢銈介 - Wikipedia

 ほとんど馴染みのない人だが意外と面白い。

 

 
《蟻》

《蟻》 ジュルメーヌ・ルシエ 1953年 ブロンズ 

新収蔵&特別公開|ジェルメーヌ・リシエ《蟻》 - 東京国立近代美術館 (閲覧:2024年3月1日)

 2Fギャラリー4では新収蔵品《蟻》の特別公開ということで、関連するハイブリッドをモチーフにした作品や彫像作品が展示してある。

ジェルメーヌ・ルシエ

略歴|1902年、南仏アルル近郊グランの生まれ。モンペリエのエコール・デ・ボザールにて、オーギュスト・ロダンの弟子ルイ=ジャック・ギーグに彫刻を学ぶ。26年パリに出て、エミール=アントワーヌ・ブールデルに師事する。34年、初個展。35年、ポンペイを訪れ、溶岩により石化した身体から新たな表現へのインスピレーションを得る。39年、第二次大戦のためチューリヒに居を移し、同地にて制作を続け、ジャン(ハンス)・アルブ、アルベルト・ジャコメッティマリノ・マリーニなどと親交を結ぶ。46年、パリに戻る。50年、スイス国境近くの村アッシーにある教会に、キリスト像を設置するも、翌年、記号的に表現されたその像は地元の反対によって撤去される(71年に再設置)。51年、第1回サンパウロビエンナーレ彫刻部門で一等賞受賞。56年、パリの国立現代美術館で回顧展開催。59年、南仏モンペリエで死去。

(解説キャプションより)

 人間(女)と蟻の混成交雑—ハイブリットをモチーフにした作品。異形としか言い得ぬような感じがするし、どこかグロテスク気分を抱くのはいたしかたないか。抑圧された女性と小さく、踏みつぶされたり、他の昆虫に捕食される蟻とのイメージの交錯をみるみたいなことだろうか。

*1: 蒔絵(まきえ)の技法の一つ。うるし塗りの器面全体に金粉または銀粉を蒔きつめて、その上から漆を塗り、磨きあげて地としたもの

レポート提出終了

 ここんとこHatenaもなかなか更新できていない。

 というのも冬季のレポートがけっこうたまっていて収拾とれなくなっていた。日常的に学習を進めていけばこういうことにはならないのだろうけど、昔からギリギリにならないと手をつけない子でしたから。

 1月はWebのビデオ授業の視聴もほとんどやらずで、自分でも何やってたのか判らない。まあプータローなりにやることがけっこうあったのだろう。一応、江戸時代から明治に至る文学や上演芸術のテキスト読んだりはしていた。

 2月になってから1科目手につけたけど、ぶっちゃけ朝鮮や西アジア中央アジア、インドの芸術動向など、まったく興味がないので、なかなか身につかない。中国の芸術については、ずっとサボり続けていて来季に回してしまった。

 テキストを読んでいくと、中国や朝鮮といった隣国の歴史にあまりにも無知であることがわかる。まだ中国は三国志とかそのへんの知識も多少あり、隋、唐、元、明、清などは日本史との関連で多少知識はある。三国志についてはもっぱら横山光輝先生のおかげかもしれない。

 それに対して朝鮮はというと、古代は新羅高句麗百済といった三国時代のことはやっぱり日本史との関連で多少の知識があるけど、それ以後の統一新羅や高麗、李氏朝鮮とかについては皆無。あわてて中公版の『世界の歴史』をひもとく始末。

 中央公論の『世界の歴史』は単行本で持っている。出版社に務めていたときに、取次の集品の人に頼んで毎回持ってきてもらっていたのだったか。まあ律儀に持ってきてくれるのでなんとなく断りきれず定期にしていたような。なので途中からはほとんど読んでいないまま本棚のこやしになっていた。ほぼ30年くらい前なんだけど、けっこう美本の状態のまま。

 その『世界の歴史』全30巻が、通信教育受けるようになってから、えらいこと役に立つ。結局、美術史とはいえ背景の歴史的知識が必要になる。そうなるとこういう通史的な本に目を通す必要がある。ぶっちゃけレポートのネタ本としては最適で、まいどお世話になっているって感じだ。

 大昔の受験は日本史だったので、世界史はあまり知識がない。でもまとまって人文系の学習をするとなると日本史と世界史の通史をひもとく必要、けっこうある。学生だとだいたい図書館で閲覧ということになるのだろうが、幸いなことに自分の場合は日本史、世界史ともに中公版を一揃いもっている。

 日本史の方は文庫版で多分今出ているやつよりかなり前の版。奥付をみる1970年代のもののようだ。この『日本の歴史』全26巻は父が愛読していたものだ。ときどきひも解くと、四葉のクローバーが栞代わりに入っていたりする。父は晩年、けっこうこの通史を何度も読み返していたみたいだ。

 話をレポートに戻す。朝鮮の美術について読んでいると、古代において朝鮮は日本よりはるかに先進国だったことがわかる。東アジアの文明の伝播という点でいえば、先進国中国からの影響が日本も朝鮮も強いことは当然として、地理的な距離もあって朝鮮は日本よりかなり先に様々な文明が渡来している。

 日本史の年号語呂合わせでいまだに覚えているのは「百済のごみやが仏教伝える」というやつ。所説あるが一般的には仏教伝来は538年(ご・み・や)である。それに対して朝鮮はというと、高句麗には372年に、百済に伝播には384年に伝来している。日本より150年より早い。新羅にも5世紀に伝わっている。仏像についても朝鮮では当初は石像が中心だったとも。

 そういうことも含め、もっと隣国の歴史についても知らなくてはいけないなとも思ったりもした。結局、他国への無理解は歴史の知識の欠如があるのかもしれないと思ったり。世界史といってもけっこう西洋史に偏っていたりもするようだし。

 

 そういうことを思ったりもしたが、レポートに選んだのは朝鮮美術ではなく、西アジアイスラーム美術。理由はというと、まあ単純に朝鮮についてはテキストで5章分の読み込みが必要だけど、西アジアイスラーム美術は2章しかないという適当な理由。でもかなり範囲は広いので『世界の歴史』では数冊分の読み込みが必要。

 あとは去年、府中市美術館で観たインド細密画、あのルーツがイスラームのミニアチュール画にあるということで、なんとなく取っ掛かりがあったことなのなど。

 

 しかし造形美術において、人物画が描かれるようになったのはけっこう歴史的にはあとのことだ。キリスト教でも偶像崇拝は禁止されていて、9世紀に偶像禁止令が廃止されてから、じょじょに布教のためにイコンとしてのキリスト像が描かれ、そこからじょじょに世俗化した人物画が描かれるようになっていった。

 仏教においても当初はやはりブッダを描くことは忌避され、造形的には釈尊不存在という表現がとられていた。おそらく仏像が描かれるのはガンダーラ仏教美術が興隆をみせた頃からで、それから中国を経て朝鮮、日本にも伝わってきた。

 キリスト教にしろ仏教にしろ、当初は偶像崇拝は忌避されていた。それがじょじょに描かれ、世俗的な美術にも波及して人物画が描かれるようになった。そういう意味での世俗化は10世紀前後のあたりから進んだのではないか。

 それに対してイスラームはというと、もともとムハンマドイスラームを組織したのは7世紀前半である。それ以降も偶像崇拝の禁止は厳密に守られていた。そのためイスラームで花開いた美術はというと、一つはコーランを美しく飾る装飾文字であり、あとは幾何学文様、植物文様などの装飾文様だ。イスラーム寺院を飾る美しいタイルはそうした装飾文様にあふれている。そして神の言葉を記したコーランを飾るのは文字文様だ。

 人物や動物の具象を忌避したことにより、装飾文様が花開いたイスラーム圏で世俗的な人物画が描かれるようになるのは13世紀以降のことで、キリスト文化圏、仏教文化圏よりもはるかにあとのことだ。そこから生まれたのがミニアチュールといわれる細密画だ。

 まあこういうネタで1200字程度でまとめてみた。内容的にはもっと字数が必要なのだけど、かなり端折ってみた。

 

 他にはというと、江戸から明治の文学については、井原西鶴作品の受容を当時の江戸、大阪の人口増加との関係で論じるとか、あとは空間デザインについてとか。

 

 正直にいってこの歳になっての学習はけっこうしんどい部分もある。文献にあたっても、頭にまったく入ってこない。ノートに書きだしてもすぐに忘れる。もっと早くに始めれば良かったのになあと思うことが圧倒的に多い。そしてそれとは別に、自分が様々なことをなにも知らないまま年月を過ごしてきたことへの残念な気分、さらにいえば新しく得られる知識への喜び。もっと深く知りたいという希望などなど。

 とはいえ年齢的にいえば、残された時間はかなり少ない。それを思うと残念な気分にもなるが、まあそれもまた人生だという諦観。とりあえずダラダラと本を読み、WEB授業を視聴して、慣れぬレポートを書いてと、そんな日々をもうしばらく続けようかと思う。

 そういえば当初は学士入学で2年間で卒業の予定だったけれど、とてもとても。頑張ってもあと1年は最低必要。年金生活者には学費がけっこう負担だけど、最後の贅沢と思ってもう1年は続けるつもり。

 友人に言わせると、「金払ってヒーヒー言っているの、訳わからない」ということらしい。まあ自分でもそう思う部分もある。

 高齢者の自虐的学習生活。

マリー・ローランサンと堀口大学

 アーティゾン美術館の「マリー・ローランサン」の回顧展の解説キャプションに印象深い記述があった。メモをとっていたのでそのまま引用する。

マリー・ローランサンと芸術

ローランサンは、同時代の芸術家たちと交流を持っていたものの、ある特定の流派に正式に属するのではなく、独自の画風をつくりあげた。そのようなローランサンの作品を特徴づけているのは、そのパステルカラーの色彩だろう。
堀口大學 (1892-1981)は、1915年、外交官の父の赴任先であるマドリードに滞在していたときに、ローランサンと出会った。堀口は、ローランサンの散歩のお供を務めて、アポリネール(1880-1918)をはじめとする文学や芸術を教えてもらい、絵の手ほどきも受けた。あるとき堀口は、ローランサンから、自分の使っている色はこれだというメモを渡されたという。そこには7つの絵の具の色が書かれていた。

コバルトブルー(bleu de cobalt
群青 (bleu d'outremer)
茜紅色 (laque de garance)
エメラルドグリーン(vert emeraude)
象牙黒(noir d'ivoire)
銀白(blanc d'argent)
鉛白(blanc de zinc)

この7色のうちに青が2種、白が2種含まれており、色の種類は4つのみになる。とてもシンプルな色合いである。ローランサン自身も「夜の手帖』のなかで、「朱色(vermillon)が使えず、茜紅色を使った」、「赤(rouge)は敵だった」と書いている。その後、ローランサンのパレットには黄色も加わり、より鮮やかさを増していくが、基調色は変わらない。ローランサンの優美で華やかな女性たちは、パステルカラーの色面で表されており、その身体を感じさせない。そういう意味で、女性たちは中性的に表現されているとも言える。とはいえ、画面はなめらかに仕上げられるのではなく、絵の具の質感を全面に出している。ローランサンの芸術とは何であったのか。彼女の群像表現を通じて確認してほしい。

マリー・ローランサン ―時代をうつす眼 | アーティゾン美術館

 

      <コバルトブルー>             <群青>



       <茜紅色>            <エメラルドグリーン>

 

       <象牙黒>              <銀白>

 

 <鉛白>


 さらにこれに黄色がまざるという。マリー・ローランサンのパレットのこの色を想像しながら実際の絵を観てみると、妙に納得感があったりもする。

 

 

 堀口大学は仏文学者として有名なあの堀口大学である。我々の世代にはお馴染みで、自分などもヴェルレーヌやランヴォーの詩をこの人の訳で読んだクチである。

堀口大學 - Wikipedia

 堀口が渡欧中にマリー・ローランサンと交流があったというのは、今回初めて知ったのだが、一部ではけっこう有名な話のようだ。堀口(1892-1981)、ローランサン(1883-1956)、9歳の歳の差がある。出会ったのは1915年の頃で、第一次世界大戦のさなか、ドイツ人男爵と結婚しドイツ国籍となったローランサンは夫とともにスペインで亡命生活を送っていた。堀口は当時外交官であった父親の赴任先だったスペインにいたという。ローランサンは9歳下の若い東洋人の学生に詩や絵の手ほどきをしたのだという。

 二人に恋愛的な感情があったのかどうかは様々な説がある。堀口は帰国後もそのことについては多くを語っていないとも。しかし引用した文にあるとおり、ローランサンは自らの絵画制作の基本となること部分を示唆しているところなど、かなり親密な部分があったのかもしれない。

 

 堀口大学というと、自分はやはりランボーの詩のことを思い出す。多分、読んだのは16~17歳の頃のことなので、いまだに覚えているのはけっこう印象深かったのだろうと思ったりもする。

 それはまあランボーの代名詞ともいうくらい有名な詩なので、70年代あたりで文学に少しカブレたような少年が覚えたとしてもまあまあ不思議ではないかもしれない。

<永遠>

もう一度探し出したぞ。
何を? 永遠を。
それは、太陽と番った(つがった)海だ。  堀口大學

 

 この詩は他にも多くの文学者、詩人が訳出している。有名なところを三人くらい引用するとこんな感じだ。

 

とうとうみつかったよ。
なにがさ? 永遠というもの。
没陽(いりひ)といっしょに
去って(いって)しまった海のことだ。  金子光晴

 

また見つかった。
何がだ? 永遠。
去って(いって)しまった海のことさあ。
太陽もろとも去って(いって)しまった。 中原中也

 

また見附かった。
何が、永遠が。
海と溶け合ふ太陽が。   小林秀雄

 

 多分、一番意味が判りやすいのは小林秀雄かもしれない。でも、自分は最初に読んだ堀口訳がなんとなくしっくりきた。「番った」の意味を調べ、そしてフランス語で太陽が男性名詞であり、海が女性名詞であることなどを調べたりしたときに、この詩のもつエロチックな感傷性みたいなものを想像(今風にいえば妄想)してみたものだった。そうか永遠とはそういうエロチックな部分なのかみたいな・・・・・・。

 まあ16~17歳の多感かつ稚拙な思考の産物かもしれないが、早熟な天才詩人の感性は、アホな男子の想像力(妄想力)を喚起するに十分だったのかもしれない。

 

 画家として、詩人としてのマリー・ローランサンは、堀口大学とのエピソードなどから、なんとなくそれまでのエコール・ド・パリ派周辺の女流画家というポジションから、ちょっとだけ親和感が増したような気がした。まあそんなところだ。

「ベイビーわるきゅーれ」を観た

ベイビーわるきゅーれ - Wikipedia

 なんの予備知識もなく観た。低予算のB級アクション映画だが思いのほか面白かった。女子高校生二人組の殺し屋が高校卒業後、組織から表向きは社会人として生活することを要請される。殺しについてはプロだが、生活力ゼロに等しい二人は、バイトは首になる、そもそも面接で落ちるを繰り返す。

 キレの良いアクションシーンやハイテンポな展開と、二人のグダグダな日常生活、そういう緩急がうまく処理されていて一気に観ることができる。設定の面白さ、不自然さをアクションと俳優の演技でうまく処理している。なんかこう日本映画の底力というか、質の高まりみたいなものを感じた。低予算、無名の俳優でも、設定や脚本のうまさ、役者の演技できちんと娯楽映画にした立てる。そういう部分でのレベルアップを感じる。

 もっとも女子高生の殺し屋というあり得ない設定、そういうものに違和感を感じたり、ハイテンションに銃アクションシーンや格闘シーンが続く、そういうバイオレンスに忌避感をもつ人にはちょっと難しいかもしれない。

 多分、こんなの現実的じゃないと思った瞬間にこの映画に入り込む余地はなくなる。リアリティ性は皆無かというと、アクションの非日常性とは真逆な社会不適合ニートな女子たちのグダグダな日常のリアリティ、そういう部分を笑えるかどうか。まあそういいうことだろう。

 

 まずワルキューレってなんだったっけ。オールドな自分が思い浮かべるのはというと、やっぱりワーグナーの「ワルキューレ」だ。

ワルキューレ (楽劇) - Wikipedia

 そして例の音楽といえばやっぱり「地獄の黙示録」のあのシーンだったりする。

 

 この狂気のビル・キルゴア中佐を演じたロバート・デュバルの怪演技はこの楽曲とともに映画的記憶として残り続けている。どうでもいいがランボーに出てくるトラウト大佐とこのキルゴア中佐がなんとなくゴタ混ぜになるのは、やはりヴォネガットキルゴア・トラウトのせいかもしれない。

 「ベイビーわるきゅーれ」の中でもワグナーの「ワルキューレの騎行」は、様々なバージョンのアレンジで用いられている。やっぱり監督はけっこう意識しているみたいだ。

 

 そもそもの「ワルキューレ」はというと北欧神話に由来している。

ワルキューレ(ドイツ語: Walküre)またはヴァルキュリャ(古ノルド語: valkyrja、「戦死者を選ぶもの」の意)は、北欧神話において、戦場で生きる者と死ぬ者を定める女性、およびその軍団のことである。

ワルキューレ - Wikipedia

 そこから転じてというかワルキューレといえば「武装した乙女」、「女性戦士」を称するということになったということのようだ。

ワルキューレとは? 意味や使い方 - コトバンク

 

 「武装した乙女」、ハイティーンの戦士、女子高生の殺し屋、ベイビー・ワルキューレとまあそういうことのようだ。なるほどね。

 

 もっともこの映画は、そういうタイトルやら設定の由来とか、そういう小難しいことや小理屈は一切無用だし、どちらかといえば、そういうのを排除し忌避するところから始まっている。

「いるよね、いちいち説明つけるやつ」

「あ~、そういうのダメだわ」

 グダグダな日常を送る若き殺人乙女が言いそうだ。

 

 この映画はまず監督・脚本の阪元裕吾のアイデア、センス、ハイテンポな演出に依拠している。そして監督が生み出した二人のキャラクター、ちさととまひろという殺し屋女子の設定がすべてかもしれない。

 ハイテンションで社交的だが雑ですぐにキレる性格のちさとを演じるのは高石あかり。彼女はまだ21歳でこの映画の製作時は17歳だったとか。それを考えるとそのタレント性は高いし、おそらくカメレオン的にどんな役も出来そうな感じがする。

 一方、まひろ役の井澤彩織は高石とは9歳上の29歳。キレの良いアクションシーンを演じるのは、もともとスタントパフォーマーだから。そうかスタントマンは今はスタントパフォーマーと呼ぶのかとちょっと納得したりもする。まひろ役はコミュ障でニート度の高さと、格闘シーンのキレとのギャップが面白く、キャラクターとしてはこの映画の中でも異彩を放っている。ただしこのまひろというキャラの印象が強く、今後の井澤のキャリアは、この役に規定されてしまうかもしれないという部分もある。

 

 この映画、一部では絶賛され、単館では池袋シネマ・ロサで9ヶ月以上のロングラン上映されたという。メジャー映画とは別のジャンルになるのだろうが、相当のヒットとなったようで、すでに続編「ベイビーわるきゅーれ2ベイビー」も公開され、今秋にはパート3も上映予定だという。ヒット作のシリーズ化ということだろうか。

 アクションシーンのリアルさと、グダグダ女子の日常生活、そして主役二人の名演技など、それこそテレビドラマ化してもイケそうな気もする。十代の殺し屋というセンシティブな部分から、ゴールデンの時間帯は難しいだろうとは思うけれど。

 

 もう一つこの映画の面白さは、女性同士の友情という部分、いわゆるシスターフッドなところだ。さらにいうとこの映画、殺伐とした殺人シーンは多数出てくる。もうバタバタと人が撃たれる、死ぬ。ただ一方で、若い女性をメインにしているが、恋愛だのセックスだのは無縁でもある。

 「人は放っておいても死ぬし、セックスをする(寝る)」。

 そういう部分でいえば、この映画にはセックスはない。ありがちなリアリティをそもそも放棄している部分が、この映画がウェットに陥らない理由かもしれない。シスターフッドはハードボイルドでもある。そういうことかもしれない。

 深夜、ハードな殺戮というハードワークの後、二人はジャレあうようにして帰宅する。「酔っ払いみたい」と自虐しながら。

 そして部屋に帰ったら、冷蔵庫に入っているケーキを頬張るのだ。