港南台・上大岡今昔 (12月23日)

 神奈川県立近代美術館を出てから再び鎌倉に向かい、そこから大船周辺から鎌倉街道を走って横浜に向かうことにした。それは子どもの頃、よく自転車で走り回っていたところでなんとなく土地勘があるようなないような。もっともその記憶はかれこれ50年くらい前のことではあるんのだけど。その時点で帰宅ルートはなんとなく保土ヶ谷あたりから横浜新道、第三京浜、環八に出てみたいなことを適当に考えていた。

 鎌倉は段葛から鶴岡八幡宮に突き当たって左にそれ北鎌倉に向かう。途中の踏切でこれも昔、バイクではみ出し禁止で違反罰金くらったこととか、もうどうでもいいようなことを思い出す。北鎌倉の先の踏切をわたって大船を目指すのだが、そこそこ行ってからここから公田方面は渋滞が続くことを思い出したが、これは後の祭りだ。

 ナビは渋滞回避もせず、というかこのへんはどの道通っても結局渋滞にはまる。大船の駅周辺も通ると、これも大昔父親が再雇用で働いていた大船西友前を通ったりとか懐かしい。しかし大船周辺もけっこう変わったな。

 笠間十字路から鎌倉女子大あたりの渋滞を抜けてようやく少し進むようになる(地域ネタ的)。そういえば自分が子どもの頃は鎌倉女子大の名称は京浜女子大だったような記憶があるな。きちんとスーツ的な制服着ているお姉さんたちを見かけたようなないような。

 鎌倉街道から港南台に向かうため環状3号線に入る。昔は環状線なんて呼び方してなかったような気がする。そして港南台はというと、実は駅周辺はあまり変わっていないような。ただし商業ビルの名前が変わってしまった。

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 高島屋が撤退したのが去年のこと。今年になって相鉄バーズが拡大してリニューアルされたという。高島屋がオープンしたのが1983年だから36年くらい続いたのだろうか。もともとのバーズのすぐ向かいにあったダイエーは随分と前にイオンに変わったという。この駅周辺から、放射線状に広がる団地群の風景はなんとも懐かしい。

 港南台に住んでいたのは1986年から1996年までの10年間。その前は近接する上永谷に15~16年住んでいたので、この周辺にはかれこれ25年以上いたことになる。中学生の頃に山を崩してニュータウンを造成しているところを歩いた記憶もある。本当になにもない所だったのにね。

 港南台では団地暮らしをしていた。引っ越した年に父親が亡くなり、結婚して埼玉に移る間際に祖母が亡くなった。港南台駅のすぐ裏にある南部病院には祖母が入退院を繰り返した。上永谷に移る前には上大岡に4年くらい住んでいたから、港南区民というくくりでいえば30年と少し住んでいたことになる。もっとも上大岡に越してきた時にはまだ南区で、途中で南区が分かれて港南区が出来たことなども微かに覚えていたりする。

 港南台バーズで割と早めに夕食をとる。バーズの中もまったく様変わりしているが、これも20数年経過していることからすれば当たり前といってしまえばそれまでだ。バーズ内には浜書房という中規模の書店が入っているが、これも4階に移っているみたいだ。この本屋は地元ということでよく理解していたけど、はて営業で訪れたことがあっただろうか。確か本店は洋光台の方で、そこには1~2度行ったような気がするのだが。どっちの店長だったかが、後に社長になったとかいう話も風の便り的に聞いたような気もする。

 昼食後、港南台バーズを後にする。駐車代を取られるところはさすが横浜である。埼玉の商業施設で駐車代取られることは滅多にない。それから以前住んでいた団地のあたりを少し回ってから鎌倉街道に出る。そこから港南区庁舎前を通り岡の下交差点で狭い道に入る。

 そういえばこの交差点のすぐ脇に書店があり、いつもそこに入り浸っていた。当時は漫画の立ち読みは自由で、買わない雑誌はいつもそこで読んでいた。たしか『少年サンデー』は必ず買っていて、『マガジン』や少女漫画誌はそこで立ち読みしていたような気がする。里中満智子浦野千賀子はよく読んでいた。

 その狭い路地のような道をまっすぐ行きと右手にヨーカ堂が見える。ここは大昔、確か日産かなにかの社宅があったような気がする。そして道沿いに駄菓子屋が二軒あり、そこにもけっこうな頻度で行っていた。新聞紙に包んだ薄いお好み焼きだのクジ付きのお菓子だの、いわゆる昭和の駄菓子屋体験はそこだったような。

 しかしその道は子どもの感覚ではもっと広かったはずなのだが、一方通行になっていてかなり狭い。さらに京浜急行のガードを潜ると突き当りを右にそれると長くて狭い坂道が続く。この道もこんなに狭かったかと思うくらいに狭い。対向車来るとけっこうやばい、周囲に家がなければポツンと一軒家的な道である。小学生の頃は毎日この狭い坂を上り下りして通学したし、多分二日置きくらいに銭湯に通っていた。祖母と一緒に買物にも行った。自分らが住んでいたとんどもなく古いアパートや友だちの家なども跡形もなくなっている。さすがに50年以上昔のことである。

 盛り土の法面をコンクリでかためたところが、台風かなにかで崩れたことがあった。道路にコンクリや土が散乱していて、家の基礎の一部が露出しているけっこうな被害だった。その時、その崖というか法面はかなり高いような印象があったが、車から見かけた限りではおよそ3メートル程度の高さのようだった。子どもの見ている空間は大人のそれとはだいぶん変わっている。ましてそれに50年の歳月がある。記憶違いもあるかもしれない。

 夜、多分8時前後という暗い時間帯、おまけに車からの景色なのではっきりしない。今度、機会があればもっと明るい日中に歩きで来てみてもいいかもしれない。そういえば埼玉にマンションを買い、いよいよ横浜を離れるというときに一度徒歩か自転車でこの辺を回ったことがある。記憶にあるような建物、人の家の門のあたりとかを写真に撮ったりした。まだ銀塩フィルムだったはずだ。それからも25年近く経っている。

 すぐに車を引き返して坂を下り京浜急行のガードをくぐる。狭い道の連続で、一通ばかりで難儀する。記憶と合致する道、風景もあり、そうでもないところも沢山ある。やや遠目に赤い風船という看板を見つける。確かボウリング場や書店が入っているビルだったか。あそこに入っている書店は大蔵書店といったが、今でもあるのだろうか。そこではけっこう沢山の本を買った記憶がある。

 その後、ヨーカ堂に少し入った。妻がトイレに行きたいと行ったからだ。店内はリニューアルされているようで、店舗は1階の生鮮市場だけ。2階はスポーツジムだった。短時間の滞在だったが、当然のごとく駐車代が取られた。やはり横浜である。

 鎌倉街道に出てみると改めて上大岡の発展ぶりがわかる。タワーマンションが数棟あり、駅と隣接する京急百貨店も立て直されている。多分、そこらを歩いてみればかってあったような古い商店街は一層されているのかもしれない。

 上大岡で暮らしたのは小学生の頃だから50年以上前のことだ。そこから上永谷港南台港南区に暮らした。生まれたのは中区山下町だったから、矢作俊彦的にいえば都落ちである。彼の言い分では中区から磯子区に移るのを、国を出る感覚だったらしいから。それにしても横浜を離れて25年、自分が住んでいた町の今昔を思うと、当たり前のことながらそこそこの感慨がある。

 改めて思うが、身体が動くうちに一度、住んでいた町を散策してみるのもいいかもしれない。ちょっとした感傷である。

神奈川県立近代美術館-葉山館  (12月23日)

 平塚市美術館で悲しくもソフトに門前払いされちゃったので、仕方なく次なる目的地を探すことにする。せっかく神奈川まで遠征して来たので、すごすご手ぶらで帰るのもなんだし。ということで駐車場でスマホ検索、お隣の茅ヶ崎市美術館は「浜田知明」展。知らない人だし、常設展示がどうなのかもよく判らないのでパス。そういえば鎌倉には鏑木清方の美術館があったなと思い出す。ただしあそこは確か小町から狭い道いくようなとこにあるという話。しかもカミさんの車椅子を押してだとちょっとアクセスしずらいかなとか思った。まあウィークデイだから駐車場は探せばすぐに入れるだろうけど、おそらく駐車場から美術館まではけっこう距離ありそうな感じ。

 鎌倉は埼玉に越してからほとんど行ってない。多分、ここ20数年で1回か2回。でももともと横浜に住んでいたので、それこそ子ども時代は自転車で遊びにいけるくらいのところだった。さらにいうと30代の後半の一時期、鎌倉の会社に勤めていたこともある。なのでけっこうあのへんの土地勘はある。まあその会社は残念ながら縁が薄かったのか、半年くらいで辞めてしまったけれど。

 もう一つ、候補として浮かんだのが神奈川県立近代美術館の葉山館。近代美術館は鎌倉にもあるけど、やっぱり駐車場とかアクセスが今一つなので没。葉山館はきちんと駐車場も整備してあるらしいのでちょっと興味がある。以前、萬鉄五郎の展覧会とかをやっていて行きたいと思ったところでもある。

 HPを見ると開催中の展覧会は、「矢萩喜従郎展」と「アンリ・マティスの挿絵本」だという。

葉山館 | 神奈川県立近代美術館

 矢作喜従郎という人はまったく知らないが、マティスの挿絵本、おそらく『ジャズ』あたりかと思い、まあ軽く『ジャズ』観て帰るのもいいかと思い葉山館をチョイスする。

 平塚から葉山まではナビの予測で1時間くらい。まあ冬だしウィークデイなので海沿いの134号線もそれほど混んでいないのだろう。茅ヶ崎江ノ島から七里ガ浜、稲村ケ崎を通り由比ガ浜材木座海岸を抜けてという湘南ドライブもいいかということにした。

 逗子から葉山に入り日影茶屋の前を通るところでは横にいる妻に、ここは昔大杉栄が情婦に刺されたところだとか、それを元に瀬戸内寂聴が小説書いてとか、適当にウンチクをのべるが妻はほとんど興味がないみたい。

 そしてようやくというか美術館に到着。

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 美術館のすぐ裏が遊歩道になっていて、下まで降りるとすぐに海というロケーションでなかなか雰囲気がある。

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 さてと周囲の環境はおいといて展覧会の方だが、大々的なのは矢萩喜従郎の方。4室ある展示室のうち3室がこっち。しかもその展示室が天井が高く開放感がある。

 

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矢萩喜從郎 新しく世界に関与する方法 | 神奈川県立近代美術館

矢萩喜従郎 - Wikipedia

 展示は多分矢萩喜従郎のキャリアに沿って作品が展示されている。まずは写真、そしてアート的造形、さらにポスター、建築、家具などなど。とにかく活動範囲が広い。ひとことで言い表せないくらいに作品の幅が広いのだが、自分の了解可能な部分でいえばアート・デザイナーという括りになるのだろうか。

 自分がなんとなく理解できる範囲でいうと、この人のポスター作品にはある種圧倒される。どれも斬新でまったくマンネリズムみたいなものがないように感じられた。

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 矢作喜従郎の展示を終えるとマティスの挿絵になるのだが、こちらは1室のみでこじんまりとしたもの。『ジャズ』以外にはリトグラフによる版画集『シャルル・ドレルアン詩集』などが展示してあった。これらはいずれも山口蓬春文庫とキャプションがあり、山口蓬春から寄贈されたものだとか。

 山口蓬春は松岡映丘に師事していた日本画家だが、戦後はモダニズム的な雰囲気の作品を多数描いており、マティスやブラックの影響も受けているという。山口蓬春は葉山に長く住み、近代美術館の近くに山口蓬春記念館もあるという。ひょっとするとこちらの方が楽しめたかもしれないとはちと思ったりもする。まあ次回葉山に来ることがあったら、記念館に真っ先に行ってみたいとも思った。

 

平塚市美術館で沈没する (12月23日)

 年も押し迫ってきたけど、もう1回くらい美術館に行くかなと思い、さてとどこかないかなとしばし思案。最近読み終えた『日本画の歴史 近代篇・現代篇』の著者草薙奈津子氏が館長を務める平塚市美術館で日本画の企画展をやっていることに気がつく。

湘南の日本画ー院展、創画会の作家を中心に 2021年10月30日(土曜日) ~2022年2月13日(日曜日) | 平塚市美術館

 出展作品の中に安田靫彦『日食』があるので、圏央道走って行ってみた。この美術館は以前小倉遊亀の回顧展を観に行っている。割と雰囲気の良い鑑賞しやすい美術館という印象がある。それで普通に駐車場に車止めて館内に入る。ユニコーンもお出迎えしてくれる。

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 で、受付に行くと座ってる案内の女性が一言こうおっしゃられる。

「展示替えのため展覧会はお休みです」

「え、今日お休み。いつまで?」

「年内はそのままお休みで年明けに再開します」

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 さようなら、ユニコーンということでそのまま退散する。

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 あとでHPを確認すると、確かに右側の「お知らせ」に展示替えの記述があることはある。

 でも最初にまず出るのはこういう画面である。

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 そして画面を下にクロールすると・・・・・

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 右側のお知らせ欄にありましたね。

2021年12月21日 12月21日(火曜日)から12月28日(火曜日)まで、「湘南の日本画展」展示室は展示替えのため休室となります。展示再開は令和4年1月4日(火曜日)です。

 その下にある年末年始の休館・休業のお知らせというPDFを見ると、美術館は開館しているが展示室は休室ということらしい。美術館はやっていますが展示室はお休みという不思議なロジック。そりゃ美術館は展覧会だけがお仕事じゃなく、教育とか図書閲覧とかいろいろあるのだろうとは思う。でも、一般人からしたら展示室がお休みということは、それはすなわち休館ということだと思う。

 願わくば、自分のようなおっちょこちょいが遠くから来て(一応、埼玉から来ている)、がっかりすることないように、HPでの告知はもっと目立つ場所にしてもらいたいとそう思ってしまう。

「美術館は開館していますが、展覧会は展示替えのためお休みしています」という明確な告知をぜひお願いしたいと、草薙奈津子先生には切にそうお願いしたいと思った次第でした。

国土交通省「統計書き換え」~しっかりと

 財務省による公文書改竄、厚労省の毎月勤労統計調査の不正調査と続いて今度は国交省による建設業の基幹統計の書き換え問題が発覚。まず最初にデータの「書き換え」とかいってるけど、これはデータの改竄ですから。だいたいにおいて、企業が決算数字を意図的に「書き換え」たら、これは粉飾決算な訳で、誰がどういう意図で粉飾したかの責任は問われることは当たり前のことなのだけど、この国の行政にあってはそれがまったく責任問題とならない。

 国への統計データの提出というと、自分の経験では毎月勤労統計調査はけっこうな頻度でやってました。勤めていたのは中小零細企業でしたが、一応それでもきちんと期日までに七面倒臭い集計をして提出してたつもり。それが一応東京都の話らしいけど、全数調査のところを抽出調査に端折られていたとか。忙しいのに国から提出を義務づけられているからきちんと対応していたのにとか思ったりしましたよ、あの時は。

 そして今回の国交省の「統計書き換え」=「改竄」の問題。国会でも質疑がされているが、国交相の答弁もかなりいい加減である。そのへんのことは土曜日の朝日朝刊にも3面で取り上げられていた。

 

 この記事によると国会質疑はこんなやりとりになっている。

だが、この日の予算委でも、誰がどういった動機で書き換えを指示したのかは、明らかにならなかった

 これって新聞が客観的報道に徹しているような風だけど、実はこれってえらく他人事のような書きぶり。書き換えの動機や指示が明らかにならなかったのは政府、国交省の問題なのに、それをまったく捨象している。政府批判は行わないというのが、最近のマスコミの流儀のようである。

 

 共産党小池晃氏は、都道府県に書き換えを指示した文書を提出するよう要請。これに対し、斎藤氏(国交相)は、「しっかりと探しているが、私自身その文書を見ていない。もしあったら提出させていただく」と述べた。

 役所が指示を口頭だけで行うことがあるのだろうか、本省内での指示にしろ、本省から自治体への指示にしろ、役所仕事はすべて文書に基づいて行われる。その指示書が見つからない、「しっかりと」探しているというのはどういうことだ。多分、この先の流れでいえば、「しっかりと」探したがそういう文書は存在していない、あるいは事案終了のため廃棄されているというオチになるのがミエミエなのである。それでも最初に「しっかりと」という言葉を付け加えるだけで、なんとなく誠実に対応しましたみたいな印象になる、そういうことだ。いったいどこが「しっかり」なのだろう。

 さらに厚労省の「毎月勤労統計」の不正が2018年に発覚したため、政府は全ての基幹統計を一斉点検しているのだが、国交省の統計書き換え行為はその一斉点検で明らかにならなかったという。

小池氏がこの点をただすと、斎藤氏は「ピックアップできなかった。上がってこなかったということ」と述べ、第三者委員会で検証するとした。

 これに対して、小池氏は、第三者委より以前の段階で国交省として責任を持って調べる問題だと批判。「これだけ明らかな書き換えを一斉点検で見落としている。全ての統計をもう一度見直すべきだ」と主張したが、岸田文雄首相は「まずはしっかりと経緯や原因を明らかにし、再発防止のために何をしなければいけないのかが第一歩」などと述べるにとどめた。

 岸田首相はここでも「しっかりと」という言葉を使っている。そして経緯や原因を明らかにして再発防止をというもっともらしい言葉を述べている。しかしこれまでの「桜を見る会」、森友・加計学園もそうだが、経緯や原因、責任の所在は不明なままということがこの国、この政府の調査の実態である。かって森友学園問題での公文書改竄について、当時の責任者麻生財務相は、「なんで改竄が起きたか、それがわからんのですよ」と嘯いていた。そしてマスコミはその言葉を報道するだけで、さらなる追求を行わないできた。

 今回も多分なぜ統計書き換え=改竄が行なわれたのかは、曖昧なまま灰色の報告がなされて終わると思う。そして「しっかりと」と調べたうえで「しっかりと」報告したという言葉だけを空しく連発して終了となる。マスコミはそれを他人事のように報道して終了ということになるのだろう。

 まあ、実際のところなぜ統計データを改竄したのか。それは民主党から政権を奪取した安倍政権が、主に経済政策面での成功をうたうために、それを意図して改竄したということだ。多分、それは多く者が薄々感じている、いやそれが事実だろうと思っている。ひょっとするとマスコミの内部でも多くの記者がそう思っている。でも、それはおおっぴらに報道されないのだが。

東京国立近代美術館 (12月16日)

 ほぼ1ヶ月ぶりに東京国立近代美術館(MOMAT)に行く。今年72回目の美術館巡り、MOMATは9回目になる。これが今年の美術館詣での最後かな、もう1、2回行くかなみたいな感じである。

 今回は妻と二人で行ったので車で。いつものように北の丸公園駐車場に止めてから下っていく。妻が昼食をとりたいというので、毎日新聞社地下の飲食店街へ。しかしこのビルも古い作りのせいか、飲食店街に行くにはすべて階段で降りる仕様。短い階段だけど妻は車椅子を降りて伝い歩き。自分が車椅子を担いで降りる。まあこういうのには慣れっこになってはいるけど、竹橋は地下鉄から外へ上がるのにもけっこう難儀するので、割とハードルが高い。車椅子もそうだけど、ベビーカーのお母さんとかもシンドイ思いしているのかもしれない。

 今回のMOMATは企画展の「民芸100年」も観たけど、正直あまり興味がないので本当に駆け足で観た。前回書いたけど、大学時代にゼミで柳宗悦民芸運動とかやるにはやったんだけど、どうしてもあの手には興味が持てない。なので特に記すことはありません。

 常設展の方はというと、4Fのハイライト(インデックスと称するらしい)や3Fの日本画で展示替えがあったのでまずはそのへんから。

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『獅子図』 (狩野芳崖) 1886年

  キャプションによると日本の伝統絵画における獅子は唐獅子が一般的なのだとか。それに対してこの絵のライオンがリアルなのは、1886年にイタリアから来たサーカス団の興行があった折に、芳崖が実際のライオンをスケッチしているから。狩野派的な山水画の背景に妙にリアルなライオンが西洋画の趣で描かれるという、和洋折衷のような絵柄なのだとか。いわれてみると獅子図はちょっとドラクロア的な感じもしないでもない。

 

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『極楽井』(小林古径) 1912年

 これは一度3Fで観ているはず。小林古径安田靫彦前田青邨とともに「院展三羽烏」とうたわれ、一般的には新古典主義の画風、線描の美しさに特徴があるのだとか。どのへんが新古典主義なのか、ニワカの自分には今一つピンとこないが歴史画的な主題を、画題に積極的に取り組んだ部分なんだろうかと思う。この絵でいう「極楽井」は小石川伝通院裏の宗慶寺附近にあった井戸が霊泉として知られ、少女たちがその泉を汲みに来たという言い伝え表したものだという。しかも少女たちの衣装は桃山時代の風俗で描かれている。

 

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『浴室』(落合朗風) 1933年

 落合朗風(1896-1937)、この人は初めて知る。ざっと調べると菊池契月、小村大雲に師事。さらに川端龍子の青龍社でも数年活躍した人だという。

落合朗風 – 作家紹介

落合朗風 :: 東文研アーカイブデータベース

 入浴する女性を描くという点では小倉遊亀の『浴室』を思い出すが、いずれも日本画としてはモダンな雰囲気。落合朗風のこの絵についていえば、色彩がカラフルな点、女性がふくよかでどことなくルノワールな雰囲気を感じさせる。そういう点では土田麦僊の『湯女』との近似性もあるかもしれない。

 

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『星五位』(上村松篁) 1958年

 動物画を得意とした上村松篁の代表作の一つ。この絵はMOMATでも前に一度観ている他、たしか京都市京セラ美術館や山種美術館でも観ている。多分、京セラ美術館では京都派の画家の作品を集めた企画展、山種美術館竹内栖鳳と動物画を集めた企画展だったと記憶している。星五位はゴイサギの幼鳥なのだとか。よく観るとそれぞれに表情があり、それがよく描き分けられている。

 

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『墓守』(朝倉文夫) 1910年

 4Fの2室にある朝倉文夫の『墓守』。いつも思うのだが、この老人を描いたブロンズ像、どう考えても墓守に見えない。深淵な思索の世界に浸る哲学者のように見えるのだけれど。

 

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『星を見る女性』 (太田聴雨) 1936年

 今回の展示では全体として科学との関わりという視点で洋画、日本画が集められている。3Fの日本画の間もそういうことで、まずは太田聴雨の『星を見る女性』が。この絵は個人的にも大好きな絵の一つで、今回はある意味これを観に来たという部分もある。

 太田聴雨(1896-1958)は内藤晴州や前田青邨に師事し、古典と現代風俗のいずれも画題にし、主に院展を中心に活躍した人だという。この絵の他にも、まだ実物を観ていないのだが、京都市京セラ美術館にある『種痘』など、若い和装の女性と天文学、医学というある種ミスマッチな取り合わせにより、昭和初期のモダンな風俗を描いているところが面白い。

太田聴雨 - Wikipedia

 

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『気球揚がる』(中村岳陵) 1950年

 気球見物をする洋装の女性と和装の女性を描いた作品。この作品の発表は1950年と戦後のことだが、この題材は実は中村岳陵が生まれた年(1890年)に、イギリスの軽業師が横浜と上野で気球を揚げたという出来事によっているのだとか。時代は明治、洋装の女性のドレスはほぼ鹿鳴館時代のそれ、和装の後ろ姿の女性は扇子を振っている。ポップなイラストのような作品。

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『戯れ』 (北野恒冨) 1929年

  熱心にカメラを覗き込む若い芸妓というモダンな題材。これもカメラという近代的なガジェットと芸妓というミスマッチな画題だ。若葉や着物の細密描写、やや俯瞰から女性の半身だけを捉えた構図などに斬新な趣がある。

 北野恒冨は大阪で主に小説挿絵を中心に活躍した画家。この人は今年、MOMATの「あやしい絵展」や東京ステーションギャラリーでの「福富太郎の眼」展などで、心中ものの妖しい大作『道行』を観て知った。

 

 その他では日本画の革新を目指したパンリアルを主導したという三上誠の作品、洋画抽象画の李禹煥の作品などがなんとなく心に残った。

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『日日の凍結の生理』(三上誠) 1969年

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『線より』 (李禹煥) 1977年

 そういえば来年8月に六本木の国立新美術館李禹煥の回顧展が開かれるという記事を何かで読んだ気がする。これは行くかな~。

古谷三敏死去

 新聞朝刊の訃報記事が目に飛び込んできた。

漫画家の古谷三敏さん死去 「ダメおやじ」「BARレモン・ハート」:朝日新聞デジタル

 この人のことは赤塚不二夫のアシスタント時代からなんとなく知っていた。そして『ダメおやじ』でブレイクしてからも。あのマンガはもともとはダメおやじがオニババたる猛妻から虐待の限りを受けるというギャグ漫画だったが、途中から財閥令嬢やその祖父と知り合い、一躍大会社の社長に抜擢されたり、ユートピアを求めて自然生活をしたりと話の展開が大きく変わっていく。

 ダメおやじが社長をやめ自然生活を続ける少し前に、あるバーの常連となりマスターや常連客のメガネさんと仲良くなり、そこでウンチクを繰り広げるという章があり、それが後の『レモン・ハート』に繋がっていくというのを覚えている。たしかコミックの巻数だと13巻、14巻のあたりだっただろうか。

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 そして『レモン・ハート』、このマンガである意味酒を覚えたようなものかもしれない。学生時代から酒といえば、ビール、安い日本酒、ウィスキーはホワイトか角、オールドはまず飲めないみたいな風だった。勤めてからも安月給でとにかく量が飲めればいいという考えだったが、このマンガや探偵小説などに出てくる酒を少しずつ飲み始め、酒の知識を増やしていったものだ。

 ちょうど酒の量販店もポツポツ出始めていて、例えばバーボンなどでもハーパーあたりが3000円台で買えるようになってきていた。ワイルド・ターキー、ジャック・ダニエルも5000円前後、ブラントンやメーカーズ・マークはもう少ししただろうか。
 バー、ショットバーも最初は敷居も高くとても入るには勇気がいったけれど、じょじょに行くようになった。このマンガの影響ではないだろうが、80年代には若者が入りやすい、比較的チープなバーも増えてきていた。渋谷の門なんかは女の子を連れて行くとけっこう喜んでくれたのを覚えている。

 そして30代になって出版社に勤めたあたりから、ある部分タガが外れたようにあちこちのバーなんかに繰り出すようになった。一人でも普通に入るようになったし、ちょっと高級なところにも顔を出すようになった。青山のラジオに数人で繰り出して、ほとんど居酒屋のような飲み方をしたこともある。横にいたオシャレなカップルはさぞや迷惑なことだっただろう。あの時の支払いは誰がしたんだろうか。

 カクテルもいろいろと飲んだし、バーボンやスコッチもいろいろと試した。毎月のように大阪に出張していた頃はミナミに行きつけのショットバーもできた。そこで遅くに飲んでいると、バーテンがいろいろな酒を飲ませてくれた。当時、自分には珍しかったタンカレーウォッカなんかも飲ませてくれた。

 まあ正直にいえば自分の酒の知識のほとんどは『レモン・ハート』からだったと思う。30年以上も前のことである。

 ちなみに『ダメおやじ』や『レモン・ハート』に登場するハードボイルドを具現化したような人物メガネ氏。あのトレンチコート、中折れ帽、サングラスのモデルは、矢作俊彦ではないかと密かに思っている。当時、それを古谷三敏がどこかで書いていたような気がするのだが、記憶違いかもしれない。でもあの姿で酒や生き方のウンチクを語るのはまちがいなく矢作だと思うのだが。

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 そして古谷三敏といえばもう一つ『寄席芸人伝』である。これも80年代の頃に愛読し、それ以降も時折読み返してきた。もともと父親の影響で落語を聞くのは好きだった。もっとも寄席に連れて行ってもらったこともなく、浅草や新宿など寄席に行くようになったのはやはり30代になってからだった。高校や大学の頃はもっぱらテレビでの高座を見たり、落語本を読むくらいだったと思う。当時好きだったのは、やはり父親の影響で三遊亭円生だったように記憶している。落語本は不確かな記憶だが、角川文庫で多く出ていたような気がする。

 まあそういう落語への幾分かの興味があったので、寄席や噺家にまつわるエピソードを物語にまとめた『寄席芸人伝』はえらく面白かった。そしてこの漫画では明治期の寄席の雰囲気が味わえるようなところがあった。ちょうどそれは雑誌『話の特集』で永六輔が紹介していた正岡容安藤鶴夫の評論なども読んでいたこともあり、えらく親しみやすかったのだと思う。

 自分が多少とも落語に半可通的に興味を持ち得ていたのは、多分『寄席芸人伝』のおかだと思う。そしてその頃にはすでに鬼籍に入っていた志ん生文楽の噺もカセットテープなんかで容易に聴くことが出来た。けっこうマメにウォークマンで落語とか聴いていた時期もあった。

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 月並みというかミーハーというか、ある意味で自分などは、古谷三敏がいたから酒を覚え、落語を聞くようになった部分が大きい。80年代に古谷三敏のマンガを読んでいた人間でそういうのけっこう多いのではないかと思ったりもする。

 とはいえ古谷氏も85歳、ガンとはいえそういう年齢だったということだ。赤塚不二夫が亡くなったのが2008年(72歳)、彼のアシスタントやブレーンだった人たちでも、あだち勉(2004年没56歳)、高井研一郎(2016年没79歳)、長谷邦夫(2018年没81歳)と物故者が出ている。子ども時代、自分たちが愛読してきたマンガ家はじょじに鬼籍に入り、昭和が、20世紀が遠くなってきている。

 今日は多分、久しぶりに『寄席芸人伝』や『レモン・ハート』を読み返してみようかと思っている。古谷三敏のご冥福をお祈りする。

高崎市タワー美術館「彩・色を楽しむ」 (12月12日)

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 高崎市タワー美術館の企画展「彩・色(さいいろ)を楽しむ」を観てきた。

彩・色を楽しむ/高崎市タワー美術館 | 高崎市

 ここは今年になっていき始めたところで今回で4回目となる。前回も書いたことだが、この美術館はヤマタネ・グループが所蔵する作品を多数寄託されていて、そういう点ではある意味で山種美術館の姉妹館的性格もあるような気がする。まあ山種美術館は私立美術館で、こちらは高崎市が運営している公設美術館ということでまったく異なるといってしまえばそうなのだが。

 少しネット等で調べたのだが、もともとは山種コレクションで有名な山崎種二の三男である山崎誠三氏の日本画コレクションの収蔵・展示を目的とした私設美術館「高崎タワー美術館」だったが、集客が思うように増えずに2001年6月に閉館。その後、高崎市が運営主体となり、収蔵作品も高崎市に寄贈もしくは寄託されることで再館したという。高崎タワー21 - Wikipedia

 この美術館は高崎駅の真ん前にある複合ビルの3階、4階にある。なんとなくイメージ的には八王子市夢美術館に似た雰囲気がある。埼玉からだと関越道一本で行けるため、道路が空いていれば45分程度で行くことができる。駐車場も駅近のヤマダ電機の駐車場を利用すればいいのでアクセスしやすい美術館ということで、なんとなく気軽にいける美術館、しかも日本画の名品が揃っているということでつい行く回数が増えている。

 さて、今回の企画展「彩・色を楽しむ」である。チラシの開催概要にはこうある。

日本画の作品の画質をよくみると、砂状できらきらとしていることがあります。これは、岩絵具と呼ばれる画材のマチエール(質感)です。この岩絵具の他、日本の絵画では墨、胡粉、染料などの画材が伝統的に用いられており、その色や質感はそれぞれ異なります。本展覧会では、こうした画材自体の色の美しさと共に作品をご覧いただきます。

色はその組み合わせや、塗り重ね方によって、同じ色でも、まったく違う見え方をすることがあります。また、作品の中において色は、現実とそっくりに表現されるとは限らず、そこから、作者の制作意図やモチーフに対する感性を感じ取ることもできます。作品をみながら、色の世界をお楽しみください。

「彩・色を楽しむ」チラシより 

https://www.city.takasaki.gunma.jp/docs/2021102300025/files/SaiIro.pdf

 そしていきなり大画面のこの作品。

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『イグアス 天地の詩』(部分) 松本哲男 2000年 

 松本哲男は栃木県在住の画家(1943-2012)で、ナイアガラ、ビクトリア・フォールズ、イグアスという世界三大瀑布を描いた作品が有名だとか。この「イグアス大地の詩」も横幅12メートルという対策である。オレンジがかった空の美しさに目を奪われるが、滝と樹林は細密に描かれていて圧巻。

 

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『月山秋燿』(奥田元宗) 1996年

 元宗の赤と称される燃えるような赤だ。この人の作品は奥入瀬の紅葉を題材にした大作を水野美術館で観た。たしか川合玉堂の弟子である児玉希望に師事していた人と聞いている。

奥田元宋 - Wikipedia

 

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『薊』 (上野瑞香) 2019年

 最近の作品である。上野瑞香は群馬県富岡市出身とご当地の画家である。2000年に芸大を卒業、活躍している女流画家のようだ。

上野瑞香公式ホームページ

 画像では伝わらないが、実物画面は全体がキラキラしている。粒子の粗い方解石を使っているためとはHPにある。

岩絵の具、なかでも粒子の粗い方解石の光を反射してキラキラ光るところが好きで、それを多く使って作品を描いています。 HPより

 美しい、観る者を魅了する絵である。きちんとピンクと緑の補完関係を計算した色遣いになっていて、ドギツサ、毒々しさをギリギリ抑えたような印象がある。この絵の横には女流画家の大家片岡球子の『寒牡丹』があるのだが、インパクトの度合いでも片岡作品を凌駕している。もちろん美しさにおいてもだ。

 

 この他では、上村松園、上村松篁、横山大観、土田麦僊、冨田溪仙、小林古径、上村松篁など大家の作品などを含め49点が出品されていて、小1時間至福の時を楽しめた。

<出品リスト>

https://www.city.takasaki.gunma.jp/docs/2021102300025/files/Sai-List.pdf