港南台・上大岡今昔 (12月23日)

 神奈川県立近代美術館を出てから再び鎌倉に向かい、そこから大船周辺から鎌倉街道を走って横浜に向かうことにした。それは子どもの頃、よく自転車で走り回っていたところでなんとなく土地勘があるようなないような。もっともその記憶はかれこれ50年くらい前のことではあるんのだけど。その時点で帰宅ルートはなんとなく保土ヶ谷あたりから横浜新道、第三京浜、環八に出てみたいなことを適当に考えていた。

 鎌倉は段葛から鶴岡八幡宮に突き当たって左にそれ北鎌倉に向かう。途中の踏切でこれも昔、バイクではみ出し禁止で違反罰金くらったこととか、もうどうでもいいようなことを思い出す。北鎌倉の先の踏切をわたって大船を目指すのだが、そこそこ行ってからここから公田方面は渋滞が続くことを思い出したが、これは後の祭りだ。

 ナビは渋滞回避もせず、というかこのへんはどの道通っても結局渋滞にはまる。大船の駅周辺も通ると、これも大昔父親が再雇用で働いていた大船西友前を通ったりとか懐かしい。しかし大船周辺もけっこう変わったな。

 笠間十字路から鎌倉女子大あたりの渋滞を抜けてようやく少し進むようになる(地域ネタ的)。そういえば自分が子どもの頃は鎌倉女子大の名称は京浜女子大だったような記憶があるな。きちんとスーツ的な制服着ているお姉さんたちを見かけたようなないような。

 鎌倉街道から港南台に向かうため環状3号線に入る。昔は環状線なんて呼び方してなかったような気がする。そして港南台はというと、実は駅周辺はあまり変わっていないような。ただし商業ビルの名前が変わってしまった。

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 高島屋が撤退したのが去年のこと。今年になって相鉄バーズが拡大してリニューアルされたという。高島屋がオープンしたのが1983年だから36年くらい続いたのだろうか。もともとのバーズのすぐ向かいにあったダイエーは随分と前にイオンに変わったという。この駅周辺から、放射線状に広がる団地群の風景はなんとも懐かしい。

 港南台に住んでいたのは1986年から1996年までの10年間。その前は近接する上永谷に15~16年住んでいたので、この周辺にはかれこれ25年以上いたことになる。中学生の頃に山を崩してニュータウンを造成しているところを歩いた記憶もある。本当になにもない所だったのにね。

 港南台では団地暮らしをしていた。引っ越した年に父親が亡くなり、結婚して埼玉に移る間際に祖母が亡くなった。港南台駅のすぐ裏にある南部病院には祖母が入退院を繰り返した。上永谷に移る前には上大岡に4年くらい住んでいたから、港南区民というくくりでいえば30年と少し住んでいたことになる。もっとも上大岡に越してきた時にはまだ南区で、途中で南区が分かれて港南区が出来たことなども微かに覚えていたりする。

 港南台バーズで割と早めに夕食をとる。バーズの中もまったく様変わりしているが、これも20数年経過していることからすれば当たり前といってしまえばそれまでだ。バーズ内には浜書房という中規模の書店が入っているが、これも4階に移っているみたいだ。この本屋は地元ということでよく理解していたけど、はて営業で訪れたことがあっただろうか。確か本店は洋光台の方で、そこには1~2度行ったような気がするのだが。どっちの店長だったかが、後に社長になったとかいう話も風の便り的に聞いたような気もする。

 昼食後、港南台バーズを後にする。駐車代を取られるところはさすが横浜である。埼玉の商業施設で駐車代取られることは滅多にない。それから以前住んでいた団地のあたりを少し回ってから鎌倉街道に出る。そこから港南区庁舎前を通り岡の下交差点で狭い道に入る。

 そういえばこの交差点のすぐ脇に書店があり、いつもそこに入り浸っていた。当時は漫画の立ち読みは自由で、買わない雑誌はいつもそこで読んでいた。たしか『少年サンデー』は必ず買っていて、『マガジン』や少女漫画誌はそこで立ち読みしていたような気がする。里中満智子浦野千賀子はよく読んでいた。

 その狭い路地のような道をまっすぐ行きと右手にヨーカ堂が見える。ここは大昔、確か日産かなにかの社宅があったような気がする。そして道沿いに駄菓子屋が二軒あり、そこにもけっこうな頻度で行っていた。新聞紙に包んだ薄いお好み焼きだのクジ付きのお菓子だの、いわゆる昭和の駄菓子屋体験はそこだったような。

 しかしその道は子どもの感覚ではもっと広かったはずなのだが、一方通行になっていてかなり狭い。さらに京浜急行のガードを潜ると突き当りを右にそれると長くて狭い坂道が続く。この道もこんなに狭かったかと思うくらいに狭い。対向車来るとけっこうやばい、周囲に家がなければポツンと一軒家的な道である。小学生の頃は毎日この狭い坂を上り下りして通学したし、多分二日置きくらいに銭湯に通っていた。祖母と一緒に買物にも行った。自分らが住んでいたとんどもなく古いアパートや友だちの家なども跡形もなくなっている。さすがに50年以上昔のことである。

 盛り土の法面をコンクリでかためたところが、台風かなにかで崩れたことがあった。道路にコンクリや土が散乱していて、家の基礎の一部が露出しているけっこうな被害だった。その時、その崖というか法面はかなり高いような印象があったが、車から見かけた限りではおよそ3メートル程度の高さのようだった。子どもの見ている空間は大人のそれとはだいぶん変わっている。ましてそれに50年の歳月がある。記憶違いもあるかもしれない。

 夜、多分8時前後という暗い時間帯、おまけに車からの景色なのではっきりしない。今度、機会があればもっと明るい日中に歩きで来てみてもいいかもしれない。そういえば埼玉にマンションを買い、いよいよ横浜を離れるというときに一度徒歩か自転車でこの辺を回ったことがある。記憶にあるような建物、人の家の門のあたりとかを写真に撮ったりした。まだ銀塩フィルムだったはずだ。それからも25年近く経っている。

 すぐに車を引き返して坂を下り京浜急行のガードをくぐる。狭い道の連続で、一通ばかりで難儀する。記憶と合致する道、風景もあり、そうでもないところも沢山ある。やや遠目に赤い風船という看板を見つける。確かボウリング場や書店が入っているビルだったか。あそこに入っている書店は大蔵書店といったが、今でもあるのだろうか。そこではけっこう沢山の本を買った記憶がある。

 その後、ヨーカ堂に少し入った。妻がトイレに行きたいと行ったからだ。店内はリニューアルされているようで、店舗は1階の生鮮市場だけ。2階はスポーツジムだった。短時間の滞在だったが、当然のごとく駐車代が取られた。やはり横浜である。

 鎌倉街道に出てみると改めて上大岡の発展ぶりがわかる。タワーマンションが数棟あり、駅と隣接する京急百貨店も立て直されている。多分、そこらを歩いてみればかってあったような古い商店街は一層されているのかもしれない。

 上大岡で暮らしたのは小学生の頃だから50年以上前のことだ。そこから上永谷港南台港南区に暮らした。生まれたのは中区山下町だったから、矢作俊彦的にいえば都落ちである。彼の言い分では中区から磯子区に移るのを、国を出る感覚だったらしいから。それにしても横浜を離れて25年、自分が住んでいた町の今昔を思うと、当たり前のことながらそこそこの感慨がある。

 改めて思うが、身体が動くうちに一度、住んでいた町を散策してみるのもいいかもしれない。ちょっとした感傷である。