京都ミュージアム巡り

 今回の旅行は、まあ夏の京都は暑いし出来れば室内で過ごしたいということで、1日ミュージアム巡りをすることにした。最初に行ったのは京都国立博物館。ここは子どもが学校の研修旅行で訪れていて、けっこう面白いよというので一度生きたいとは思っていた。場所的には三十三間堂の真ん前というところにある。事前に駐車場とか調べていたのだが、博物館横の駐車場には入れず、そこより少し離れた博物館の裏口の前にあるタイムズ駐車場に止める。それにしてもなんとも趣のある建物ではないかと。

京都国立博物館
 ここでは「百万遍知恩寺の秘宝展」という企画展をやっていて、これはこれでそこそこ興味深いものがあったが、常設展の1Fの仏像群がなんとも見事というか素晴らしかった。ただ残念ながら、自分には仏像を親しむだけの素養がないので、感動が半減みたいな部分もあるかもしれない。
 博物館としての規模でいうと、上野の東博や福岡の九州国立博物館に比べて小ぶりな印象もあるが、なんといっても京都である。その収蔵物には圧倒される部分もあるが、ここを楽しむためにはもう少し古美術に対する勉強が必要かもしれない。
 とりあえず入り口付近にいたキャラクー「虎リン」を記念撮影する。

 ついでに三十三間堂も久しぶりだったので覗いてみる。以前、カミさんが退院してまもない頃に子どもと三人で来たことがあるのだが、その時に比べるとずいぶんと入口近辺がキレイになっていて驚いた。室内用の車椅子が用意されていて乗り換える。そのまま一周できる。暑かったけど、ここの仏像群は本当に壮観。外の景色もよく、京都の中では割と好きなところではあるな。

 その後、午後は平安神宮近くの京都近代美術館にも足を向ける。ここは去年も行ってみたのだが、なんと月曜でお休み。さらにいえば道路を隔てた京都市美術館は現在改修中で、長期休業に入っている。ここでは何年か前に東京に見逃したマグリットの回顧展を観ている。
 京都近代美術館での企画展は「バウハウスへの応答」というもの。
バウハウスへの応答|京都国立近代美術館 | The National Museum of Modern Art, Kyoto
 バウハウスは戦前、ドイツにあった美術工芸学校、たしかカンディンスキーパウル・クレーが教師をしていたということくらいしか知識がない。なのでその全貌と日本やインドへの影響といった視点からのこの企画展には面白さを感じつつも、知識がない部分、よくわからないというのが率直なところだった。
 展示物の中で興味深かったのは、バウハウスの影響で、日本でデザイン論を展開した川喜田煉七郎の雑誌「アイシーオール」の表紙の斬新性。川喜田煉七郎という人物は建築系の人のようだが、この時代にあっては相当に先進的な人物だったようだ。少し調べてみたいと思った。時代の数歩先をいったような人物で、戦後であればもっと活躍したのではないかと思った。
 常設展示の方では山口華楊の素描が多数展示されていた。

京都旅行に出る

 去年のお盆はたまたま宮津のホテルがとれたので、宮津から京都へという旅行をした。ただし抽選ではどこもとれなかった。出版健保の保養所、契約ホテルもだんだんと狭き門になりつつある。これも高齢化社会のためだろうかと思っている。団塊の世代がほぼ一斉にリタイアしたのがつい数年前、彼らは多分相当に元気で、金を持っているだろうから、安くてそこそこ質の良い健保の宿を利用するだろう。本当に10年前に比べると宿の確保が難しい。
 という訳で今回は京都の宿を申し込んだ。なぜかって、夏の京都に行くような酔狂はあまりいないだろうと思ったから。昨年、淡路を申し込んで外れたので、今回は完全に安パイ狙いでいった。その結果、見事に抽選に当たった。なので京都旅行、その後帰りに岐阜で一泊の予定。
 今回はお盆休暇が土曜からということで、一斉休暇みたいな状態になり、どこも道路はメチャ混みで、朝7時に家を出たもののほぼ1日ずっと運転みたいな状態だった。途中、ナビが渋滞回避ルートをとるので、初手から圏央道を青梅で降ろされ、山道走って上野原まで。その後、中央道はほとんど渋滞なく進んだけれど、名古屋のだいぶ手前の土岐でいったん下道を少し走り、その後東海環状自動車道東海北陸道と迂回し、さらに一宮の手前でまたまた下道に降りて関ヶ原まで走り、そこから名神で大津まで。さらにそこから下道で京都へという道のりだった。
 とはいえ下道で地方の町を通るのはけっこう楽しいことではある。普通だったら絶対通らないような地方の町、田園地帯とかを抜けるのではある。ある種の一期一会というか、そんな感じだろうか。日本に生まれたといっても、多分一度も訪れることない場所が圧倒的に多いのだろう。それを思うと、通り抜けるだけであっても、なにやら嬉しくなるものではないかと。
 嵐山の宿に着いたのは5時を少し回る頃。10時間くらい運転していた計算になる。今回は新しいフリードでのドライブだったのだが、さすがにハイブリッド車である。トータルでリッター21キロを叩き出した。
 とりあえず宿の窓から庭へとイメージショット風。

アイロンを新しくする

 7月にアマゾンのセールで衝動買いしたアイロンがやっと届いた。

https://panasonic.jp/iron/p-db/NI-R36.html:TITLE
 パソニックの多分一番安い方のタイプだ。コードレス全盛の時代にあえてコードリール式にしたのは、充電式は途中で充電し直すケースがあるという話を聞いたことがあるから。とはいえシャツとかスラックス類をたまに短時間アイロン掛けするだけだから、多分自分のニーズでは充電式でも十分だったのではないかと思っているが、コード式の方が安いし、まあ取り敢えずというところだ。
 アイロンを買うのは本当に久しぶりだ。試しに今使っているものと並べてみた。左のピンクのものはずっと使ってきたもので、独身時代からだから多分25年くらい使っていて、実は現役である。記憶の限りではこのアイロンをずっと使っているし、祖母がまだ生きている頃も使っていたはずなのでひょっとすると30年くらい使い続けているものかもしれない。
 それでいてこのアイロンはまったく調子が悪くなったということもない。子どもができてからもずっと使っているし、カミさんが病気になってから、子どもの服だのゼッケンだのといったことにもこれを使ってきた。
 子どもが中学生の頃は毎日のようにブラウスにアイロン掛けしていたのをよく覚えている。ナショナル製であり、このアイロンを使い続けてきたこともあり、アイロンといえばナショナルという信頼感がある。だもんで、今回もナショナル、もといパナソニックとなった。

 そこで洗ったばかりのコッパン三本にアイロンをかける。イージーリスニングにはつい最近購入したスィングアウト・シスターのベスト盤を流してみる。この80年代から90年代にかけて流行ったイギリスのコーラス・グループは、全体としてはブルーアイド・ソウル風であり、なんとも心地よい。流行っている頃はなんとなく流してしまったが、もっとちゃんと聴いておいても良かったかなとも思う。まあ多分その頃は仕事が忙しくて、音楽を聴き込むなんて余裕はほとんどなかったようにも思うのだが。

 音楽を聴きながらアイロンをかけているとふいに村上春樹の小説の中に、イージーリスニング・ミュージックをかけながら営業している幸福なクリーニング屋っていうのがあったことを思い出す。たしか『ねじまき鳥クロニカル』だったと思う。かかっていた音楽は多分パーシー・フェイスとかフランク・プールセルとかそのへんだったと思う。ムード・ミュージックというやつだね。村上春樹らしいある種の比喩表現だとは思うが、確かにムード・ミュージックをかけながら営業するクリーニング屋というのは、なにやら幸福なイメージを増幅させるものがあるとは思う。
 しかしアイロンというものを20数年ぶりに買ったというのに、その機能についてはほとんど変化がないというか進歩していないという印象だ。ドライとスチーム、霧吹きなどなど。そういう意味ではアイロンは大変原始的な家電製品なんだと思う。最近の進歩といえば、そう充電式、コードレスくらいなものなのだから。
 とはいえアイロンに付加価値を求めても何ができるだろう。SDカード入れて音楽が再生出来るとか、なんかつまらんな。カメラ機能をつけても何の意味もないし自走式にしてもしょせんアイロン台の上の話で機能性はゼロだ。まあいい、アイロンに付加価値は無理だ。
 自分の中ではアイロン掛けというのは家事の中でもっとも苦手な部類だ。掃除、洗濯はまあ普通にこなしているほうだが、アイロンだけはなんというか出来れば避けてとおりたい、やるとなると相当な意気込みというか、自分に「アイロンやるぞ、アイロンやるぞ」と言い聞かせてから始めないといけない。もう5年以上前だが、よく毎日のように子どものブラウスにアイロン掛けていたようなと我ながら感心するくらいだ。
 このアイロンを1日に何十、何百と掛ける職人がかってはいた。今でも自前でクリーニングをやっているような洗濯屋にはそういう職人がいるはずだ。実はうちの親父が60年くらい前に、山下町で本牧の米軍住宅相手の洗濯屋をしていて、店には何人かそういう職人、洗濯職人がいたように記憶している。暑い最中でも毎日スチームと霧吹きしながら何百枚ものブラウスやワイシャツ、スラックスにひたすらアイロンをかける仕事、これはこれで大変な仕事ではあると思う。当然、私の父親もそういう洗濯職人だった訳だ。
 まあ親が洗濯屋だったからといって息子がアイロン掛けが得意ということはまったくない。そういうDNAはまったく受け継いでいない。もっとも父はその洗濯屋の事業に失敗して40とちょい過ぎで店を手放してしまった。ようするに幸福なクリーニング屋ではなかったし、多分自分は、幸福ではないクリーニング屋の息子ということになるのだろう。

東京富士美術館再訪〜ピッピ展とか

 車の一ヶ月点検で午前中ふじみ野まで行く。午後は時間が空いたので、八王子の東京富士美術館まで足を伸ばす。三週間前に行ったばかりだが、車だと気軽に行きやすい。
長くつ下のピッピの世界展 〜リンドグレーンが描く北欧の暮らしと子どもたち〜 | 展覧会詳細 | 展示をみる | 東京富士美術館(Tokyo Fuji Art Museum, FAM)

 リンドグレーンはよく知っている作家なのだが、通して読んだものがいくつあるか。『長くつ下のピッピ』も確か読んだはずなんだが、まったく思い出せない。多分、子どもの頃に読んだんじゃないかと思う。
 そのリンドグレーンの作品の原画展なんだが、ピッピのイラストが自分のイメージするものとまったく違う。自分等が親しんできたのは桜井誠のものだ。

 それに対してオリジナルのものはイングリッド・ヴァン・ニイマンによる。

 ピッピの9歳という年齢からすると、さらにいえばピッピのハチャメチャな活躍ぶりを描いたストーリーからするとニイマンのこのちょっとマンガチックなイラストのほうがあっているかもしれない。現にリンドグレーンもニイマンのイラストをたいへん評価していたという話だ。
 それに対して桜井誠のイラストは、背が高くて足が長い、9歳というよりティーンエイジャーみたいな雰囲気だ。そしていかにもという雰囲気の挿絵だ。日本の児童文学にありがちな感じのそこそこのリアリティがある。
 親もいない一人で暮らしていて、馬をも持ち上げる力持ちのスーパー少女というピッピの設定にあっているのはどっちかといえば、それは多分マンガっぽいニイマンのイラストなのではないかとそんな気がする。
 そんなことを思ってみているとニイマンのイラストにはどことなく赤塚不二夫を連想させるものがある。リンドグレーンがピッピを書いたのは1945年という。戦争が終わってすぐという頃のことだ。親がいないという設定は、戦争によって生まれた戦災孤児たちを投影した部分があるのかもしれない。親がいなくても、楽しく新時代を行きて抜いていく、なんでも出来ちゃうバイタリティの塊のような子どもたち。リンドグレーンは子どもたちにそんな希望を抱いたのかもしれない。
 そう思ってみてみると、赤塚不二夫のマンガにはそうしたバイタリティ溢れる子どもたちが沢山でてくる。その典型が例えばチビ太だったりするのではないか。チビ太はいつも一人で生きている。親がいるという設定はほとんどなかったように記憶している。あれは満州からの引き上げ者だった赤塚が、戦後すぐに身近に見た親のいない子どもたちのイメージを凝縮させたキャラクターだったんじゃないかとそんなことを思った。
 もっともリンドグレーン赤塚不二夫を一緒にしては、ファンの児童文学愛好家から怒られるかもしれないけれど。
 そしてさらにいえば、ピッピシリーズを翻訳出版した出版社は最初ニイマンの挿絵を見て、これはちょっとマンガっぽすぎやしないか。良質な児童文学を出す出版社としては、こんなマンガっぽいイラストは採用できない、そんな力学が桜井誠の挿絵となったのではないかと思う。その出版社、岩波書店は今回、ニイマンのイラストを用いた『長くつ下のピッピ』を新たに出版している。桜井イラスト、大塚勇三訳版と併売していくようだ。

  ちなみにピッピ展はピッピの家の模型とかも展示されていて、なかなか楽しいものになっている。
  

東京富士美術館常設展

 常設展の方はというと7月に行った時とだいぶ展示作品が変わっていた。印象派のコーナーでは一番人気の高いモネの「睡蓮」、マネの「散歩」、ルノワールの「浴後の女」「読書する女」「赤い服の女」も展示されていなかった。その代わりにロワゾー、シダネル、アンリ・マルタンといった新印象派の作品群が展開されていた。


 このへんを以前、東京都美術館の新印象派展で集中して観た記憶があるが、いずれも印象派以後の技法、題材などに工夫や展開があり、興味深いものがある。今回は特にロワゾーは好みの絵が多く、彼がもともとはゴーギャンの影響にあったという解説文があったが、展示されている絵を観る限りは、どことなくゴッホ、あるいはピサロのような雰囲気を感じさせた。

iPhoneを新しくする

 子どもが使っているiPhoneがやれ通信制限だの、容量が少ないなどと文句が多い。通信制限はそれこそ四六時中スマホをいじっているからこれは当然といえば当然かもしれない。無料とはいえゲームやコミックなんかを毎日のようにやっている。時々スマホ猿と揶揄していうと自分などまだいいほうだと口答えをする。まあ実際のところ無料、有料を含めゲームに興じる若者は多数いるし、それを思うとまだまだマシなほうかもしれない。
 容量オーバーについていえば、これは授業を録音したり板書を撮影したりすることが多いせいもあるのだろうとは思う。何回か見せてもらったがスマホは完全にノート代わりである。授業中に写真を取り、後からそれをノートPCで清書するみたいなことをやっている。あまり試験とかで関係のないものはそのまま画像として保存するだけ。
 さらに講師の授業はけっこうな頻度で録音し、それを復習として電車の中なんかで再生しているようだ。今時の大学生はずいぶんと変わったのだなとも思う。
 まあそういうのもあり、今使っているiPhone6s16ギガではかなり使い勝手が悪いようなので、新しいものに代えてやろうかと思い立った。そうなると親の自分のものも代えようと思うのもまあ人情みたいなものではないか。さらにいえば自分の使っているのはさらに一つ前のiPhone6である。そうなると2台同時の機種変更となる。そこに持ってきてカミさんも私も新しいものがという声を出して来る。なので3台同時にということになる。
 すでに前週にヤマダ電気であらかた説明を受けていたので、もう後は勢いだけである。午前中から動き出し、昼食をはさんでなんだかんだで3時間近くかけて親子3名iPhone8に機種変更を完了。
 新しい機種はそれなりに早い。バッテリの持ちもいい。まあこういうのは最初だけのことだとは思う。そして思うのだが、年齢的にはもうこれが最後かなという思いもある。次に機種変更する時は格安のSIMフリーのものになるのかなとも思う。
 子どもはというと、親の金での機種変更はこれも最後になるのではないかと思う。来年は4年生、再来年は順調にいけば社会人だ。務めたらスマホの維持費は自分の稼ぎでやってもらうことになるし、さらに新しいものにしたければそれも自分の金でということだ。
 けっこう簡単に、勢いで3台の機種変更したけれど、それはそれで割とターニングポイントになるような類のものかもしれない。それ以外に特に感慨らしきものはない。

老齢年金の請求を行う

 だいぶ前に62歳になったら老齢年金の支給が開始されるという旨の書類をもらっており、一度年金事務所で説明も受けている。まあ結論的には今は収入があるため、年金支給は停止になるということだった。28万円の壁というやつで収入と年金の総額が28万が限度となっているということらしい。本当は細かい説明があるらしいが、自分の早晩な理解でいうとようは、月収が20万ある人は年金が月額で15万相当あっても7万減額されて8万円支給となり総額で28万となる。月収が15万であれば13万の支給みたいなことらしい。そして収入が28万を超えている場合、年金支給は全額停止となる。
 自分の場合、零細企業とはいえ役員やっているので、まあ28万以上の月収はあるので全額停止となる。それでも一度年金請求手続きを行っておくと、失職するとすぐに年金支給が始まると説明をもらっていたので、まあ早めにやっておこうと。任期はあと1年あるにはあるが、こういうご時世、一寸先は闇なので。
 年金事務所では事前に年金ダイアルから予約を入れておいたのでスムーズに対応してもらう。それでも小1時間くらい様々な説明をもらい、持っていった請求書類や謄本類をチェックしてもらい、受理してもらった。
 これでわずかではあるが年金生活者となる要件は片付いたことになる。幸運なことに65歳になるまで仕事を続けることができたとして、その後に年金を満額得ることができても月15〜16万程度。カミさんの障害者年金の方が多いくらいだ。それなりの貯蓄がなけれなとてもやっていけないような額でもある訳だ。それを思うと本当に暗雲立ち込めるというかそういう気分だ。
 とてもじゃないが老後は好きなこととか余生はゆとりをもってみたいなことはできそうもない。あくせくとずっと働いてきても結局のところ朽ちて行くだけである。願わくば病気とかすることなく、あっけなく死んでしまえればいいとも思うが、障害者をおいて先に逝くというのもどうかなとも思う。まあいい、先のことはわからない。とりあえず年金支給の手続きだけは終わった。