東京富士美術館再訪〜ピッピ展とか

 車の一ヶ月点検で午前中ふじみ野まで行く。午後は時間が空いたので、八王子の東京富士美術館まで足を伸ばす。三週間前に行ったばかりだが、車だと気軽に行きやすい。
長くつ下のピッピの世界展 〜リンドグレーンが描く北欧の暮らしと子どもたち〜 | 展覧会詳細 | 東京富士美術館

 リンドグレーンはよく知っている作家なのだが、通して読んだものがいくつあるか。『長くつ下のピッピ』も確か読んだはずなんだが、まったく思い出せない。多分、子どもの頃に読んだんじゃないかと思う。
 そのリンドグレーンの作品の原画展なんだが、ピッピのイラストが自分のイメージするものとまったく違う。自分等が親しんできたのは桜井誠のものだ。

 それに対してオリジナルのものはイングリッド・ヴァン・ニイマンによる。

 ピッピの9歳という年齢からすると、さらにいえばピッピのハチャメチャな活躍ぶりを描いたストーリーからするとニイマンのこのちょっとマンガチックなイラストのほうがあっているかもしれない。現にリンドグレーンもニイマンのイラストをたいへん評価していたという話だ。
 それに対して桜井誠のイラストは、背が高くて足が長い、9歳というよりティーンエイジャーみたいな雰囲気だ。そしていかにもという雰囲気の挿絵だ。日本の児童文学にありがちな感じのそこそこのリアリティがある。
 親もいない一人で暮らしていて、馬をも持ち上げる力持ちのスーパー少女というピッピの設定にあっているのはどっちかといえば、それは多分マンガっぽいニイマンのイラストなのではないかとそんな気がする。
 そんなことを思ってみているとニイマンのイラストにはどことなく赤塚不二夫を連想させるものがある。リンドグレーンがピッピを書いたのは1945年という。戦争が終わってすぐという頃のことだ。親がいないという設定は、戦争によって生まれた戦災孤児たちを投影した部分があるのかもしれない。親がいなくても、楽しく新時代を行きて抜いていく、なんでも出来ちゃうバイタリティの塊のような子どもたち。リンドグレーンは子どもたちにそんな希望を抱いたのかもしれない。
 そう思ってみてみると、赤塚不二夫のマンガにはそうしたバイタリティ溢れる子どもたちが沢山でてくる。その典型が例えばチビ太だったりするのではないか。チビ太はいつも一人で生きている。親がいるという設定はほとんどなかったように記憶している。あれは満州からの引き上げ者だった赤塚が、戦後すぐに身近に見た親のいない子どもたちのイメージを凝縮させたキャラクターだったんじゃないかとそんなことを思った。
 もっともリンドグレーン赤塚不二夫を一緒にしては、ファンの児童文学愛好家から怒られるかもしれないけれど。
 そしてさらにいえば、ピッピシリーズを翻訳出版した出版社は最初ニイマンの挿絵を見て、これはちょっとマンガっぽすぎやしないか。良質な児童文学を出す出版社としては、こんなマンガっぽいイラストは採用できない、そんな力学が桜井誠の挿絵となったのではないかと思う。その出版社、岩波書店は今回、ニイマンのイラストを用いた『長くつ下のピッピ』を新たに出版している。桜井イラスト、大塚勇三訳版と併売していくようだ。

  ちなみにピッピ展はピッピの家の模型とかも展示されていて、なかなか楽しいものになっている。