時間意識とブラッシュアップライフ

 芸術教養のテキストを読んでいて、人間の時間意識についての記述があった。それはまあ当たり前のことではあるのだが、あらためて確認するうえでちょっと書き出してみた。

 

1.直線的時間意識

  • 過ぎ去った時間は戻らないという直線的意識。
  • 物事を過去、現在、未来という時の経過の連続のなかに置く考え方で、これは歴史意識を形成する。
  • 個人の成長もこの直線的な時間経過のなかで、幼年期、少年期、青年期、壮年期、老年期といった区分が成立する。

2.循環的時間意識

  • 日の出と日没は毎日繰り返す、一週間は七日を単位として巡るという循環的意識。
  • 循環的時間意識は、一日や一週間、一ヵ月、一年という循環のなかで物事が繰り返される。
  • 物事が循環することから「しきたり」「ならわし」が形成される。
  • 「年中行事」は一年という時間循環のなかで慣習化されたもの。
  • 企業は会計年度によって企業行動が循環される

 

 まあ言われてみれば、当たり前のことではある。時間意識については哲学的にも様々な思考実験が行われているし、生物学的な分野でも様々な考察が成されている。「ゾウの時間、ネズミの時間」とか昔読んだ記憶もある。

 改めて時間については、確かに線的な連続として捉えることから人は個人史を考え、社会や国、民族の単位で歴史を考えていく。一方で時間を循環、繰り返すのものとして考えることから、行事、慣習、制度が生まれる。

 でも例えば「歴史は繰り返す」みたいな言い方も存在しないではない。同じような事象が繰り返されるという意味合いで使われる。「歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」は、カール・マルクスの『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』の中ある言葉だ。フランス第二共和政における政治闘争がフランス皇帝ナポレオン3世のクーデターに収斂される過程を描いた歴史叙述の名著といわれる。

 直線的な形で経過していく過去、現在、未来という時間意識の集成としての歴史。多分人々はそこから学ぶのであろうから、過去はそのまま繰り返されるのではなく、おそらく過去から学んだ形でより良いものに変奏される。そういう言い方は成立するかもしれない。

 今風にいえば過去はブラッシュアップされ、けっして同じ形では循環しない。でもブラッシュアップはやや前向きな形になるが、マルクスのいう悲劇なり、喜劇という言い方からすれば、マイナス方向でのブラッシュアップもあるのかもしれない。

 ブラッシュアップは最近よく耳にする言葉だ。「磨きをかける」「よりよくする」「勉強しなおす」という意味合いで使われるビジネス用語だという。「この案件はもう少しブラッシュアップさせたほうがいい」とか、

 

 Netflixで『ブラッシュアップライフ』というドラマ全10話を一気見する。このドラマは去年(2013年)に日テレで放映していたもので、安藤サクラ主演。バカリズムが脚本を手掛けている。タイムリープ(時間跳躍)というか、人生を何度も繰り返す女性の話である。

 ブラッシュアップライフ - Wikipedia

 ここからは全部ネタバレに類することになる。

 

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相関図|日曜ドラマ『ブラッシュアップライフ』|日本テレビ

 

 「ブラッシュアップ」については先に触れたとおりだが、「タイムリープ」(時間跳躍)は、時間移動し過去や未来へ行き来するという意味でのこれは和声英語。『時をかける少女』で登場した言葉だというので、これは筒井康隆の造語かもしれない。

 北熊谷という地方都市(おそらく埼玉のどこか)で公務員をしている近藤麻美(安藤さくら)は、幼馴染の友人二人組(夏帆木南晴夏)と月に二度は食事にいくようなジモティ。自宅で両親、妹と暮らしている33歳の独身女性である。この地方都市の地元志向、家族と同居、小学以来の友達と仲良しという設定が微妙。

 そして近藤麻美は不慮の事故で死ぬ。死後の世界の受付係(バカリズム)に、すぐに次の生き物として生まれ変わることを告げられる。その生き物はなぜか大アリクイ。前世で徳を積まないと来世で人間に生まれ変わることはできないのだという。ただし生まれ変わるのではなく、もう一度前世の記憶をもったうえで同じ人生をやり直すことはできるという。そして彼女は来世人間に生まれ変わるための徳を積むため、同じ人生をやり直すことにする。

 ただし前世の記憶があるため、同じ人生を送ってもよりよい人生を送ることは可能。なんといっても前世の記憶という経験値があるため、勉強もできる、勉強の仕方も知っている。だから受験も成功するし、いい大学、いい就職先につける。このへんがまさに「ブラッシュアップライフ」なのだ。

 さらに人生の徳を積むために、保育園時代には保育士の先生と保護者の父親の不倫を阻止したり、痴漢冤罪に遭う中学時代の先生の窮地を救ったり、薬の飲み合わせが悪いために亡くなってしまう祖父を救うなど、小さな徳を積み重ねていく。

 そして彼女はまた30代で亡くなる。でも次の生き物は「サバ」と告げられる。しめ鯖になるような「サバ」である。彼女はまた同じ人生を送ることにする。そのようにして彼女は五度の人生のやり直す。

1周目:地方公務員(次の生き物=大アリクイ)

2周目:薬剤師(次の生き物=サバ)
3周目:テレビ局プロデューサー(次の生き物=ムラサキウニ

4周目:研究医(次の生き物=ようやく人間)
5周目:パイロット

 彼女が告げられる次の生き物は「大アリクイ」「サバ」「ムラサキウニ」。そしてようやく人間に生まれ変われるといわれる。それでも彼女はもう一度同じ人生を生きることを選択する。それは、幼馴染の二人が飛行機事故で亡くなるの阻止するためにパイロットとして生まれ変わることを決意したため。

 4周目あたりで、タイムリープしているのは彼女だけでなく他にもいることがわかってくる。クラスの優等生で運動もできる完ぺきなクラスメイトの女の子も5度もタイムリープしていることが判る。一番最初に優秀な彼女を称して安藤さくらと幼馴染の二人は、「あの子、絶対人生二周目だよね」と揶揄することになる。これが多分ドラマ全体の伏線になっているということだろう。

 その優等生の女の子はパイロットになっている。彼女もまた幼馴染の二人を救おうとしていた。そして安藤さくらの5周目では二人してパイロットになって飛行機事故を阻止しようとする。

 このドラマは基本的にコメディである。それもよく出来ている。ドラマとしての面白さ、成功は一つには安藤さくらの演技力、存在感。そして脇をささえる夏帆木南晴夏らのなんとなくいそうな30代ジモティの女性たちのリアリティだ。さらにいうとバカリズムの脚本の面白さと、この人特有の人間観察力が活かされている。実際、こんなとこまで見ているのかというくらい、普通の人々の微妙な人間関係や小さな感情的推移が描かれる。人間は本当にややこしく、そしていろんなことに小さな喜びや怒りを感じて生きている。

 でもこの人生何周目というのも、さすがに繰り返されるごとにリアリティが失われていくような気がする。荒唐無稽度が増すというか。「あの人、人生何周目だよね」という他者に対する見方、感想、それは多分的を得ていたりする場合もある。でもそれもせいぜい3周くらいであって、4周、5周となると、まったく違うジャンルになってしまう。リアリティのあるドラマ性とは多分違うものに。

 たぶんバカリズムもそれに気ずいている。ドラマの中でかなり脇役的、傍流的な一人の女性が「あたし人生11周目です」と何気に告白する。でも彼女は人生をまったくブラッシュアップせず、毎周同じ人生を繰り返している。これはこのドラマに対する批評性、逆説性かもしれない。

 理想的なこのドラマの終わり方は、主人公が3周目を終えてようやく次の生まれ変わりは人間と告げられる。でもそれでも彼女はもう一度記憶をもったまま、前世に戻る選択をする。そして彼女は前世のドアを開ける。そこで唐突にドラマは終わる。そういう終わり方が理想的なのかもしれないと。

 

 同じ人生を繰り返すという循環的時間意識。そこにブラッシュアップという成長、改良につながるような直線的な時間意識が組み込まれる。そこがこのドラマの神髄かもしれない。でも本当はマルクスのいうように「一度目は悲劇、二度目は喜劇」のようなマイナスのブラッシュアップがあるかもしれない。そんなことを思ったりもした。

 

 このドラマは先に触れたとおり北熊谷という、おそらく埼玉をイメージした地方都市が舞台となっている。でもロケ地になったのは秦野市のようで、遠くにはおそらく丹沢あたりの山々が連なっていたりする。その町で主人公が出勤する際に電車が通る下の狭いトンネルを車で通るシーンが何度も挿入される。ネットでも「あのトンネル」としてけっこう話題になっている。

 「あのトンネル」には何か意味性があるのかどうか。タイムリープを扱うドラマで、トンネルというと、自分らのような古い人間はなんとなく「タイムトンネル」というタイムリープを繰り返す外国ドラマのことを想起する。多分1960年代に放映されたものだったか。当然筒井康隆の『時をかける少女』が書かれる前なので、タイムリープという言葉はない。当時はタイムトラベルという言葉が使われていたか。

 時間を遡行する、前世に戻る、時間跳躍する、そういうところでトンネルがなんとなく象徴的に使われている。そんなことを思うのはやはり自分が古い世代だからなんだろうか。でもあれは絶対に狙っていると少しだけ思ったりもした。