『真景累ヶ淵』を読んで少しだけ近代日本文学を考える

 ちょっとした訳あって、言文一致体の嚆矢についてあたりをつけるために、円朝の『真景累ヶ淵』を読んだ。怪談話くらいの予備知識しかなかったのだが、400ページを超える長大な話。しかも登場人物がやたら多い。戯作ぽい調子の文体で多少だれたが三日くらいで読んだ。話の枕に今時(明治初期)、怪談や幽霊は流行らないこと、怪奇現象は神経を病んだ者の幻覚みたいなことが触れられる。そのうえで真景は神経にかけているともいわれている。

 そのうえでストーリーはというとナンセンス一歩手前の因果応報譚である。旗本深見新左エ門が、督促に訪れた金貸し盲目の鍼医皆川宗悦を惨殺することを発端に、その子孫に降りかかるこれでもか、これでもかという不幸の連鎖。そして真面目な働き者だった深見の息子たちが、偶然に罪を犯し、そこから非情な極悪非道の罪人へと転じていく悲劇。なんでこんな簡単に悪に染まっていくのかというくらいの展開などなど。

 当初の描写には人物描写の的確さなど自然主義の萌芽を感じさせるような写実的表現もあり、けっこう読ませる。ただし後半の敵討ちの展開はどこか古臭い戯作的な雰囲気やご都合主義的な纏め方などが鼻につく感じがした。

真景累ヶ淵 - Wikipedia (閲覧:2023年9月25日)

真景累ヶ淵−あらすじ (閲覧:2023年9月25日)

 それにしても登場人物の多さとその相関関係の複雑さ、入り組みには難儀する。この咄、本当にすべて高座で演じられたのだろうかと疑問に思う。まあ通してというのは無理だろうが、全編の咄は円朝自身の他では、近年に亡くなった桂歌丸、さらに最近では三遊亭遊馬が演じているという。

 上記したリンクを参考に、物語の章立て、人物相関と主要登場人物を書き出してみる。

・宗悦殺し
・松倉町の捕物
・豊志賀の死
・お久殺し
・迷いの駕籠
・お累の死
・聖天山
・麹屋のお隅
・明神山の仇討

深見新左衛門 小日向服部坂.旗本小普請組.酒乱であり借金取りの宗悦,妻を惨殺.後に梶井主善に殺され改易.
深見新左衛門の妻 宗悦の亡霊と誤った深見に斬られる.
新五郎 新左衛門の長男、新吉の兄.お園を殺して逐電.松倉町で捕縛され,獄門.
新吉 新左衛門の次男.勘蔵に養育され煙草屋に奉公.豊志賀の情夫となり、お久と駈落ち.累と結婚後,お賤と密通.甚蔵,惣右衛門殺す.最後は贖罪から自害する.
皆川宗悦 根津七軒町.盲人の金貸し.深見に殺される.
豊志賀 宗悦の長女,志賀.富本の師匠.仇の新吉を情夫に.腫瘍で死に,新吉にたたる.
お園 宗悦の次女.新五郎に殺される.
お熊 中働きから深見の妾へ.後尼となる.新吉の母を柏で殺す.
宇田金五郎 お熊の夫.甚蔵の父.死亡.
お賤(しず) 甚蔵と兄妹.新吉と出奔.改心した新吉に殺される.
土手の甚蔵 お熊の子、賤の腹違いの兄.鎌で三蔵ゆする.新吉らに騙し討ちにされる.
三右衛門 元深見の家来で宗悦の死骸処理.労賃元に羽生村で質屋.累の父.
三蔵 累の兄,お久の伯父.元下総屋の番頭.新吉に松戸で殺される.
お累(るい) 新吉に恋慕,火傷負う.新吉と結婚し子を設けるも新吉に虐待され鎌で自殺.
与之助 新吉の子.新吉に殺される.
お久 羽生屋の娘.新吉と駈落ち,羽生村土手で誤って鎌で殺される.
下総屋総兵衛 谷中七面前の質屋.園,新五郎の主人.
惣右衛門 羽生村名主.妾の賤,新吉に殺される.
惣右衛門の妻 仇討の途中,尼となったお熊に殺される.
惣次郎 惣右衛門の子.安田一角に殺される.
お隅(すみ) 惣次郎の妾.山倉,貞蔵討つも安田に返り討ちにされる.
惣吉 惣右衛門の子.仇討の途中に母を殺され出家し宗観,還俗し仇討.
花車重吉 関取.安田一角と喧嘩.惣次郎殺し目撃.仇討.
安田一角 剣術師.お隅に横恋慕して惣次郎を殺害。仇討ちにきたお隅を返り討ちにする。最後に新吉,花車に討たれる.
山倉富五郎 瓜盗みが縁で惣次郎に出入り.安田と謀り惣次郎殺す.お隅に討たれる.
貞蔵 安田の内弟子.お隅に殺される.
作蔵 馬方.安田の一味となるも新吉に殺される.
梶井主膳 龍泉寺前の占い.深見を斬り,座光寺らを攫う.
勘蔵 深見の門番.改易後大門町で新吉を養育.
道恩 観音寺の和尚.新吉預かる.追い剥ぎに会う.

 

 落語の起源は一般的には、戦国大名の話し相手として話術をもって仕えた御伽衆と大衆に向けて説教を行った僧侶たちの講話にあるといわれている。御伽衆たちの話は後に「噺本(はなしぼん)」としてまとめられたが、その中でもっとも有名なものは浄土宗の高僧安楽庵策伝がまとめた『醒酔笑』といわれている。

 そういう出自からすれば、円朝の傑作とされる長編続き物『真景累ヶ淵』が、仏教的な因果応報譚となっているのは、なんとなく理解できる。「因果は巡る糸車」的な考え方は広く大衆に受入れられる素地があったのだろうし、だからこそ円朝のこの噺は当時にあっては高座で広く受け入れられたということなのだろう。

 さらに円朝の噺は、明治10年代後半に開発された速記術によって記録され、「やまと新聞」に掲載されて好評を得た。大衆は高座で演じられる話芸を書き文字として受容することになったのだ。

 それは当時の大衆文学としては江戸から通じる戯作文学、滑稽本や草双紙、黄表紙本などの系譜だったのかもしれないが、口述による話芸を筆記することでより話し言葉に近い形でまとめられたものだった。明治初期においてはそれ以前の戯作的なパッケージのなかに現代的な話し言葉が収められたコンテンツとなっていたのではないかと思ったりもする。

 その現代性に着目したのが、おそらく近代日本文学における言文一致運動だったのかもしれない。それまでの書き言葉は、格調性のある漢文もしくは漢文訓読体、あるいは手紙などの候文、それに対して口語体による文章は戯作的なものだったはずだ。そこに戯作的な雰囲気ながらより今風の話ことばによる文章が活字化された。それが円朝の速記による噺だったのだろう。

 西洋的な文学を翻訳し受容するなかで、当初は漢文訓読体などがもっぱらだったが、そこに古い戯作や円朝の噺というパッケージを元にした言文一致体の表現を試みた。それが例えば長谷川辰之助二葉亭四迷らの試行錯誤だったのではないか。四迷の『浮雲』が若きインテリ青年の恋愛と苦悩を描きつつも、どこか戯作的な調子の良さ、下世話な調子があるのは多分そのためだろう。

 もとより長谷川辰之助は師でもある坪内逍遥の名を借りて『浮雲』を出版し、それを不甲斐なく感じて自らを「くたばってしめい」と揶揄して二葉亭四迷と名乗ったとも、文学の道に進む辰之助を父親が「くたばってしめい」と言ったとも伝えられている。いずれにしろ亭号のペンネームをつけたのも、その言文一致体の試みが戯作調であったことにも符号しているのだろう。

 四迷が『浮雲』を刊行したのは1891年、その前後の森鴎外舞姫』、幸田露伴の『五重塔』のいずれもが文語体である。いまだ文学は格調性を維持するためには文語体であることが普通だったといえる。

 『浮雲』から10数年後に東大の英文学の講師であった夏目漱石が、英国留学中に病んだノイローゼからの回復のために書いたとする『吾輩は猫である』、『坊ちゃん』はどこか戯作的な雰囲気を醸し出している。ほぼ同時期にようやく近代的な写実主義、リアリズム文学の嚆矢として田山花袋『蒲団』、島崎藤村『破壊』が刊行され、新しい入れ物としての言文一致体と文学的テーマは融合をし始める。そして漱石はわずか8年という短い期間に、近代日本人の苦悩をテーマにした作品群を立て続けに作品化する。

 

西暦 元号 出来事 作品 作者
1865 明治元 明治維新    
1872 5   安愚楽鍋 仮名垣魯文
1877 10 西南戦争    
1885 18   小説神髄 坪内逍遥
1886 19   当世書生気質 坪内逍遥
1887 20   累ヶ淵後日の怪談(速記本ーやまと新聞連載) 三遊亭円朝
1889 22 明治憲法    
1890 23   舞姫 森鴎外
1891 24   浮雲 二葉亭四迷
1892 25   五重塔 幸田露伴
1894 27 日清戦争    
1895 28 にごりえ 樋口一葉
1897 30   金色夜叉 尾崎紅葉
1904 37 日露戦争    
1905 38 吾輩は猫である 夏目漱石
1906 39   坊ちゃん 夏目漱石
1906 39   草枕 夏目漱石
1906 39   破戒 島崎藤村
1907 40   蒲団 田山花袋
1908 41   三四郎 夏目漱石
1909 42   それから 夏目漱石
1910 43   夏目漱石
1912 44   行人 夏目漱石
1914 3   こころ 夏目漱石
1916 大正6   明暗 夏目漱石