足尾銅山観光(5月17日)

 夜半からずっと雨降りである。しかも雨脚が強い。

 旅行最終日だが、雨となると行くべきところが限られてしまう。日光付近でどこか。今年の1月に行った田母沢御用邸にはもう一度行きたいのだが、駐車場から道路を渡って入り口まで歩くことを考えると。傘をさして行けばいいだけなのだが、車いすを押してとなるとどうにも。基本、妻に傘を持たせて自分は濡れるというパターンなのだが、強い雨だとびしょ濡れになってしまう。

 雨なので屋内施設、美術館へという選択肢も、一番近い日光美術館にしろ、宇都宮美術館、栃木県立美術館、いずれも駐車場から建物までは少し歩くことになる。調べた限りではあまり食指が動くような企画展もやっていないみたいだ。

 天気はというと、午後遅くに雨は上がるらしい。でもおそらく3時くらいからということになる。しかたなく日光市内で少し土産物を物色する。日光おかきの工場直売店でカレーおかきなどを。

 次に日光駅近くにあるチーズガーデンに戻り、那須御用邸チーズケーキを買う。雨の土曜日の午前中ながら店内は混んでいて、小学生の集団がいある。おそらく修学旅行とか、遠足とかだろうか。

 半世紀以上前のことになるが、自分も小学校の修学旅行は日光だった。田母沢御用邸のすぐ隣にある旅館に泊まった。たしか御用邸の一部を旅館に改造したとかそういう話を聞いた覚えがある。今その場所にはホテルが建っているとかいう。

 自分の前にレジで購入している女の子は、一つ1700円くらいのチーズケーキを5個くらい買っていた。きっと親から頼まれたのだろうか。

 

 土産物を買ってから車を東照宮方面に走らせる。神橋のT字路を左折し中禅寺湖の方に向かう。途中で足尾方面に行くことにする。雨はずっと降り続けている。

 足尾銅山観光は坑内を見て回るので雨は関係ないはずだ。そう、しばらくぶりで足尾銅山に行くことにする。前に来たのはどのくらい前だろうか。子どもがうんと小さい頃に来た記憶がある。それきりだとおそらく25年とかそのくらい前のことになる。妻に言わせると、その後にもう一度来ているというのだが、まったく記録がない。

 国道120号を清滝のT字路で右に行くといろは坂へと向かう。そして左に折れると国道122号線になる。そこからだいたい30分も走ると途中で県道250号に入るとすぐに足尾銅山観光へと着く。

足尾銅山観光/日光市公式ホームページ

足尾銅山観光 - Wikipedia

 車は日光市足尾市民センター前の駐車場に止めるのが一番近い。身障者用スペースがあったので、そこに止めたのだが、そこからトロッコ乗り場までは少しだけ坂を下る。雨はいくぶんか小降りになっているけれどやんでいない。これはもう仕方ない。切符売り場で入場券を購入して待合でトロッコが来るのを待つ。身障者手帳を見せると、本人と付き添い1名は無料になる。トロッコには車いすのまま乗ることができるようになっている。

 トロッコは15分間隔で運行していて、坑道内150メートルくらいのところまで行き、そこで下車してからは坑道を300メートルくらい歩いて見て回る。帰りはそのまま外に出て階段などを上りながら売店・食堂を経て出口へ向かう。車いすの我々はというと戻るトロッコに再び乗ってトロッコ乗車場に戻る。

 

 坑内には鉱夫の人形などが随所に展示されていて、しかも江戸時代、明治時代から昭和期まで時代の変遷とともに採掘が変る様子が見て取れるようになっていて、なかなか見応えがある。これはたとえば伊豆の土肥金山の坑内観光などに比べても、はるかに展示内容がなんていうか博物館的な感じだ。このへんはやはり日光市が運営する施設ということもあるのだろう。

 展示や解説もけっこう興味深いものがあるのだが、例の足尾鉱毒事件などについてはほとんど触れられていない。このへんは古河電工古河財閥、そこから派生し発展した富士通との絡みもあるのかと、なんとなく思ってしまう。足尾鉱毒の問題は近代日本の黒歴史であることは間違いないことなのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 
 
 

 

 

 しかし20数年ぶりに訪れたのだろうが、前回の記憶がまったく残っていない。正直なところトロッコに乗ったことも覚えていない。かすかに坑道内で人形を見たことだけうっすらと覚えているようにも思うのだが、それも例えば最近の土肥金山観光などで塗り替えた記憶かもしれない。

 そういう意味では、既視感がほとんどない分新鮮な感じもした。足尾銅山は、江戸時代からの採掘、そして明治以後の古河財閥による採掘などにより、掘り進められた坑道の総延長は1234キロメートルに達するという。坑内で流れるガイダンスでは、博多までの距離とも言っていた。山をくり抜くようにして、地中深く掘り進めたということなのだろう。

 そして山地の伐採による洪水、掘り出した鉱石を製錬する工場から排出される煙害による大気汚染、製錬による廃棄物による鉱毒事件など、さまざま問題を引き起こした負の歴史は、それが戦前の日本の近代化、資本主義の利潤追求の裏面性でもあったわけだ。その反省や鉱毒予防を顧みなかったことが、戦後の様々な公害事件に繋がっていったのかもしれない。

 調べると足尾鉱毒事件や田中正造については、館林に田中正造記念館があるという。今度はそっちに行ってみようかと思ったりもした。

NPO法人 足尾鉱毒事件田中正造記念館