美術館の初詣は3年連続で小杉放菴記念日光美術館。ここは神橋のT字路を左折、東照宮駐車場に行く手前、右側にある。駐車場は東照宮や日光社寺に行く車でいっぱいになるが、運よく空いていて受付で美術館利用と告げると確か2に時間くらい無料で停められるようになっている。
ここは日光出身の洋画家・日本画家小杉放菴の作品を中心にした美術館。そして日光に所縁のある画家の企画展や、それ以外にもけっこう斬新な企画展を実施する美術館。小ぶりだけど質の高い美術館で、観光地によくあるようなお手軽なそれとは一線を画すようなところ。ただ立地が良すぎるというか、ある意味日光の社寺に隣接しすぎているので、土日や祭日は周辺が混みすぎてアクセスが極端に悪くなる。
今回はというと古橋義朗という日光で生涯を過ごした水彩画家の回顧展。そういえば今、この美術館のメインにした小杉放菴の作品は大挙東京都下八王子にいっている。八王子市夢美術館で小杉放菴展が開かれている。
この企画展は1月26日までなのでできれば行きたいと思う。小杉放菴は当初は未醒と名乗っていた。放菴は無類の酒好きで、それを師匠の五百城文哉に咎められたのに反発して「未醒」と名乗ったのだとか。「未醒」=「未だ醒めず」ということで二日酔い状態ということか。その後に「放菴」と名乗るようになった。なのでよく小杉放菴(未醒)と表記されることも多い。
画業は五百城文哉について日光の土産物絵として日光の社寺や風景を描いた水彩画から出発し、油絵を描くようになる。途中から日本画に転じるようになる。なので便宜的に洋画作品の場合を未醒、日本画作品を放菴とする場合も多いと聞く。
そしてこの美術館の顔ともういうべき小杉放菴のこの作品がいつものごとくお出迎えしてくれる。
東大安田講堂の壁画の一部として構想されほぼ完成した作品なのだが、展示されることなく自宅に仕舞われていた作品だとか。シャヴァンヌややまと絵の影響、さらにはルノワール的な雰囲気も醸す作品だ。
もともと小杉放菴は東近美なのでいくつか作品を観ていた。たまたま子どもの吹奏楽の演奏会が安田講堂であったのを見に行ったときに、ステージ上部の壁画が見事だったので、調べると小杉放菴作と知った。それからこの美術館を訪れて、この作品と出会い安田講堂と一緒だと確認した。そんなことを思い出す作品。
そして今回の古橋義朗展である。
古橋義朗(1924-2006)は日光の美術界を牽引した水彩画家で、日光の老舗旅館古橋旅館に生まれ、当初独学で油絵を描き始め、日光を訪れた水彩画家春日部たすくの影響で水彩画に転じ、以後日光の美術グループ「青光会」、全国的な公募団体である「旺玄会」に出品、受賞を重ね、長く二つの会を中心に活動。栃木県芸術祭の審査委員を務め、日光スケッチ同好会の指導などにあたった。
画風は様々に変転するが、基本的には水彩画で油絵と同じような質感の絵を描くことを希求したようで、セザンヌ調であったり、ゴッホ調であったり、さらにはフォーヴィズムや表現主義、また水墨画や南画的な趣のある作品も手掛けている。
展示された作品を観ていくと、その折々でどんな思潮に影響されたかがなんとなく伺えるような気もする。もっともこの画家、専門的な美術教育を受けていない人なので、ある意味アウトサイダーアート、ナイーブ派の範疇で括ることも可能かもしれない。
いろいろな見方があるだろうけど、まあなんというか里見勝三的フォーヴィスムと表現主義、それに南画とゴッホで味付けみたいな感じだろうか。特筆すべきはこれが油絵ではなく水彩画だというところ。
とはいえそれ以上のオリジナリティというか独創性は感じられない。いろいろ試したんだろうなあというところで終わってるような感じもしないでもない。この画家が全国レベルで活躍できなかったのは、なんていうのか決定的にオリジナリティ、あるいはこの画家ならではの独創性に欠けていたのかもしれない。そしてこうしたデフォルメされた形象を描くためのベースになるような専門的な技術の不足みたいなものが、なんとなくすけてみえるような。
けっして嫌いなタイプの絵ではないけれど、激しい表現の割にあまりインパクトに欠けるような。これは画家の技量と水彩画の限界かもしれない。
古橋義朗は日光の老舗旅館古橋旅館の12兄弟の一人として生まれた。父は義朗が10歳のときに亡くなり、旅館の経営は最初長兄の清一が継ぎ、その後は義朗のすぐ上の兄栄亮(えいすけ)に、さらにその子克信へと引き継がれる。義朗は旅館の仕事を手伝いながら旅館廃業までそこで制作活動を行った。
当時のエピソードとして、空室にイーゼルを立てて絵を描き、客が来たら一式を抱えて他の部屋に移動していたという。さらに画家仲間が日光に旅する際に宿泊先として利用してもらったり、1960年代には喫茶室を設けて自らコーヒーをたてたり、大広間をダンスホールに変えたりもしたという。
なんていうのだろう、画家といいつつもある意味旅館の居候である。経営にあたる兄弟の家族からはどんな風に見えていたのだろう。画家として旺玄社の会員であるとはいえ、全国レベルでいえば無名のある意味市民画家である。生涯独身だった古橋義朗は、古橋旅館が廃業した1998年以降は市営団地に転居し独居生活を送ったという。晩年は彼が指導したという日光スケッチ同好会の会員な何人かが身の回りの世話をしていたという。
生涯、絵を描き続けることができた人生は本人にとっては幸福だったかもしれない。でも実人生としては兄弟が経営する旅館の居候。全国規模の画会に加わり入選する画家として同好会などを指導する。きっと女性会員たちに「先生、先生」と慕われて、そういう独特の雰囲気が醸成されていたかもしれない。なんかよく絵画教室なんかにありそうな俗っぽい世界を適当に想像してしまう。
世間にはそこそこ著名な公募展に一度、あるいは何度か入選したことがあるというようなキャリアの市民画家が開く絵画教室なんかが多数あるのだろう。そうした教室で絵の好きな人たちが集まり、独特の自称画家と同好の士による狭い狭い空間が生まれていくような。まあいいか、どうでもいい話だ。
歴史的事実とは歴史家が事実の羅列の中から取捨選択し、スポットライトをあてたものである。そんなことを『歴史とは何か』の著者E・H・カーが言っていたような気がする。歴史的事実は最初から歴史的に重要な事実だったのではなく、歴史家が研究の中である事実を評価し、そこに特別な意味性を与えたとそんな意味合いだろうか。
同じことは美術史においてもいえるかもしれない。美術史的な歴史的事実、あるいはある画家の画業、作品については、美術史家がスポットライトをあて、評価を加えることによって歴史に刻まれる画家、作品になる。
そういう意味でいえば、古橋義朗という画家は小杉放菴記念日光美術館が、地域の画家としてスポットライトをあてたことによって記憶に残る画家となったのかもしれない。古橋義朗の回顧展は、日光美術館で二度目だという。こうやって地域の画家の画業を掘り起こし、そこにスポットライトをあてる。これは地方の美術館の主要な任務なのかもしれない。
21世紀あって、日光にかって棲み、そこで画業に生涯をかけた水彩画家古橋義朗という存在を、我々が知ることができるのは日光にある美術館とそこで研究をする学芸員のおかげかもしれない。そんなことを思った次第。