日光には何度も来ているが一度も訪れていなかったところ。
神橋のT字路を左に入って1.5キロくらいいったところにある旧御用邸を整備した公園。明治以降に作られた御用邸としては全体がほぼ残され維持管理されている。
大正天皇の御用邸としては1893年に沼津御用邸が造営され、1899年にこの日光田母沢御用邸が設けられた。新設の沼津に対して日光は、日光出身の銀行家小林年保の別邸に赤坂離宮の元となった紀州藩中屋敷の一部(三階の展望部屋のあたり)を移築したものだとか。
冬の静養先が沼津、夏の静養は日光ということだったようで、これは今でいえば葉山と那須のようなものだろうか。
沼津の御用邸は空襲により本邸を焼失したが、残った西付属邸が公開されている他、海岸に隣接した広い庭園を散策できる。この西付属邸だけでも迷路のような建物を巡るのはなかなかなものだ。
これに対して田母沢御用邸はかっての建物が現存しており、栃木県が取得後に改修工事を行い記念公園として2010年に開園している。建物の規模も大きく、沼津に比べてきれいで保存管理と修復がなされているように思えた。今回は前日に降った雪の影響で、庭園は入ることができなかった。なんでも落雪があるためとか言われた。
奥に見える手洗いも明治のままだそうな。
沼津もそうだったが当時の御用邸の室内は基本的に和室。なのに照明はシャンデリラだし、奥には書院造りの違い棚があったりと、和洋折衷も甚だしい。明治という時代は、作られた伝統と進取の西洋文明がごった煮になっていたということだ。
田母沢御用邸には初めて訪れたのだが、遠い記憶を辿るとこの場所の近くを訪れている。というのは小学校の時の修学旅行が日光だったのだが、宿泊した旅館は大正天皇がお泊りになった由緒ある施設というようなことを、当時説明された記憶がある。子ども的には古めかしい、それこそ廊下を歩くと音が鳴るようなところだった。
あれはいったいどこだったのだろうと、日光を訪れるたびに思っていた。そういう皇室に関わるような旅館があったのだろうかと。そして調べていくと、どうもこの田母沢御用邸に近接した別館が戦後払い下げられて宿泊施設として利用されていたということのようだ。
サンデー毎日:児童が皇后の寝室に宿泊 日光・田母沢御用邸の民主化 社会学的皇室ウォッチング!/92 成城大教授・森暢平 | 週刊エコノミスト Online
一方、田母沢川を挟んだ対岸には御用邸の「付属邸」があり、親王・内親王その他皇族の宿泊場所として使われました。現天皇が戦時中に学習院のご学友と集団疎開していたのも、この付属邸です。
この旧付属邸が戦後民間に払い下げられ、改修されて「田母沢別館」という宿泊施設となり、主に修学旅行生の宿泊に使われました。この田母沢別館は大正5年(1916)築の木造建築で老朽化が激しく、付属邸とはいえかつての皇室の御用邸だったとは思えないほど荒れたオンボロ旅館でした。
このため昭和53年(1978)に解体され、翌昭和54年(1979)に鉄筋コンクリート建の「田母沢ホテル」に改築されています。
しかしこの改築後の田母沢ホテルも平成18年(2006)に取り壊され、現在その跡地は更地になっています。<Yahoo!知恵袋>
田母沢川の対岸に建つ付属邸は正式には澄宮附属邸というらしい。御用邸内に展示してあった地図ではこんな感じである。
小学校の修学旅行というと12歳くらいなのでおそらく1968年のこと。おおよそ57年も前のことになる。半世紀以上前である。そのときの写真は数枚残っているが当然モノクロ写真で、東照宮や眠り猫とかの写真などで宿の写真はない。ただうっすらと古い木造の建物に泊まったことだけは覚えている。そうか当時この地に泊まったなのかと、ちょっとだけ感傷的な気分になったりもした。
この田母沢別館はYahoo!知恵袋の回答にもあるとおりに取り壊され、しばらくは更地となっていたが、東武鉄道の所有となり、そこを借り受けたレジャー企業カトーレジャーグループが高級宿泊施設「ふふ日光」を運営しているということだ。
ということで修学旅行の思い出の地にはレジャー施設が建っている。昭和の遠い記憶を辿るには田母沢御用邸のここを訪れ、今は亡き幻影のような木造施設に思いをはせるだけということかもしれない。