『書棚と平台』について

 内沼晋太郎の『本屋読本』を東京堂で購入。少しずつ読み始めている。

これからの本屋読本

これからの本屋読本

  • 作者:内沼 晋太郎
  • 発売日: 2018/05/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 天の両側をカットした奇抜な装丁は、どちらかというとやらかしてしまった感が漂っている。なぜここまで奇をてらう必要があるのか。これはデザイナーの問題か、著者の意図か、いずれにしろ一目につく工夫ということなんだろうが、正直これはやり過ぎ。多分、製本屋は泣かされただろうし、大体これってワンプに包む時大変だったのでは。まあ帯封にしたんだとは思うけど。そしてまた最終的には改装屋も苦労することになるだろうなとも思う。
 この本の中に柴野京子の『書棚と平台』からの引用で一般書店が開架式になったのは明治中期頃という記述がある。柴野京子トーハン勤務から東大大学院を経て、今は上智大で教員をしているはず。取次出身の研究者は珍しいので覚えている。この本については確か練馬区の美術館に行った時に、図書館の除籍本が無造作に置かれていて、ご自由にお持ち下さいとなっていた。奥付のページには廃棄新宿区立図書館と朱印が押してあった。
書棚と平台―出版流通というメディア

書棚と平台―出版流通というメディア

 しかし、取次出身で学者というのもやっぱりトーハンなんだなとなんとなく思ったりもする。取次出身者で一番有名なのはセブンイレブン鈴木敏文になるんだろうが、この手の出身者はどうもトーハンという印象がある。日販出身者で他業界とかで活躍してる人っていうのは聞いたことがないな。
 内沼が引用した部分をそのまま引用する。

 一般書店に現在のような開架式の陳列が現れたのは明治中期あたりとみられる。それ以前は、本屋といえどもほかの商店と同じく畳敷、板敷の坐売りであった。江戸時代の典型的な本屋は、表に箱看板を出した坐売り式で、客が往来や土間に立ち、あるいは畳に座って希望のものを告げ、店員が呉服屋のように品物を出してきて見せる。双紙類など大衆的な書物を扱う店では「出し本」といって一部を畳の上に直に置いたり、斜めの低い台に陳列するものもあった。しかし在庫はおおむね店の奥にある棚に重ねて置かれ、人気のある本や新刊の類は、短冊上の板に書名を書いたものが掲示されていた。
 このような坐売りが土間式の立売りに転じたものとしては、石井研堂『明治事物起源』に「新式売り場の始め」として、明治18年ごろ神田通り新石町(現在の内神田三丁目)洋酒缶詰問屋あさひ屋が「洋風を取り入れし新式にて、U字形の販売台にて客に接」したと記されている。また大規模小売店では、三越の前身である三井呉服店が明治33年に土間式を採用したことが知られるが、書店において確認できたものでは神田神保町東京堂書店日本橋丸善が最も早く、丸善が畳をリノリウムにかえて完全開架にしたのが36年ごろである。『書棚と平台』P109-110