介護で欠勤 雇い止め

4月7日の朝日朝刊の記事だから、かれこれ一週間も前のことになるのだがずっと気になっている。親や配偶者の介護のために仕事を辞めることになった三人の方の事例がレポートされている。一人は認知症の母親との二人暮らしをしている52歳の女性で、派遣社員として勤めていたコールセンターで雇い止めを受けた。理由は「勤怠不良」。
もう一人の女性は20代の保育士だったが、脳梗塞で倒れた母親の世話をするために月に5〜6日休むことになり社内の人間関係も悪化し、結局仕事を辞めた。さらにもう一人は男性で57歳。15年前に奥さんが脳梗塞で半身まひとなり、二人の息子の世話と妻の介護、そして仕事との両立ができず、会社からはさらに仕事が厳しくなる営業職への配置転換命じられ、結局仕事を辞めたという。
なんとも身につまされる話だ。特に男性の例はまさに私自身におきたこととほとんど同じではないかとも思った。私の場合は2005年だからもう9年近く前のことだが、共働きをしていた妻が勤務の後同僚と食事をとっている時に脳梗塞で倒れた。脳の右半分から前頭葉にかけて大きな梗塞巣があり、当初の医師の診断ではよくて車椅子、へたすれば寝たきり、意識障害ありという重篤なものだった。発症二日後には、脳浮腫で危篤状態となり頭蓋開頭手術を受けた。
その後は二週間の入院の後、リハビリ専門病院に半年入院して懸命なリハビリ訓練もあり、短い距離の4点杖歩行ができるまでに回復した。症状は左上肢、左下肢機能全廃による片麻痺高次脳機能障害による注意障害などなどで、1級1種の身障者というのが妻の状態である。そして医師から明確に言われたことは、現在の機能を維持することが重要であり、改善の余地はなしとのことだった。ようするに悪くなることはあっても良くなることはないということだった。
子どもは娘一人だが小学二年生だったか、私立の学童に入れていたが、仕事しながら、娘を迎えに行き、それから妻の入院する病院へと向かうのが日課だった。入院しているときはまだ良かったけど、妻が退院するときは暗雲垂れ込めてた。一応名ばかりの自宅回収やって最低限の手すりとかつけた。でもとにかく入浴介助、食事の介助、さらには下の世話、退院当時はけっこうな頻度で失敗もあったし、女性特有のこととかもあったし。
会社はどちらかといえばユルイ、労働者に優しい部分もあるにはあったけど、それでもやっぱりいろいろいう人もいるわけで、あんまり休んだりとかできなかった。まあ遅く来たり、早く帰ることもあったけど、残れるときや休日出勤とかでカバーしたりとかいろいろやったように思う。けっこう毎日が薄氷を踏む思いだった。
今、自分はいちおう役員みたいなことやっているけど、ずいぶん遠回りしたようにも思う。たぶん、たぶんだが、妻の病気とかがなければもう少し早くにそういうポジションにつけたかもしれないとも思う。ただの個人の感想だけど。
特に自慢とかでなく、なんとかそういう状況を乗り切ってこれたのは、いつも心がけていたことだけど、常に先をみて行動すること、出来るだけ準備しておくことみたいなことだったかもしれない。
介護保険の申請や障害者の認定とかも早目にやったし、とにかく社会資源として使えそうなことは、一応当たりをつけて利用できるものはできるだけ申請した。
経済面で一番ネックになっていたのは家のローンのことだった。妻は出版社に勤めていてけっこうな収入もあった。発症する間際だと、たぶん年収は私より多かったかもしれない。そのぶん仕事量は増え、責任も増していったようで、たぶんそれも病気の一要因だったかもしれない。共稼ぎだったからそこそこ経済的余裕もあり、妻が倒れる1年ちょっと前に一戸建てを建てたばかりだった。ローンは二本立てで、二人あわせると月15〜16万くらいになっていたんじゃないかと思う。それが一気に収入は半減して、ローンはずっしり圧し掛かってきた。
それでけっこう早くに動いて、家を売る算段をし、会社の近くの中古物件を見つけて買い換えた。会社は田舎にあり、売った家と買った家の差額は二千万近くもあり、ローンもなんとか凌ぐことができた。そしてなによりも通勤徒歩5分という近さが介護や子育てと仕事を両立させることを可能にした。なにかあればすぐに家に帰り、会社にとんぼ返りすることも可能だ。そんなこんなでなんとか不安定ながら今の状態を維持している。
100点満点ではないがなんとか妻の介護をしているし、子どももどうにか高校生にまでなってる。会社の業績はかなりしんどい状況にはあるが、とりあえず今日の明日のというところで失職することもない、たぶん。
そういう現在進行形で介護と仕事を抱えている身だけに、介護を理由に失職という事象は正直頭を抱える。もっとも自分の人を使う側の人間なので、会社の組織の事情にも理解できる部分もある。非正規雇用の方との更新にあたっては安定した勤務を前提にする部分もある。以前、パートを採用する場合には、小さい子どもがいるかもけっこう気にすることがあった。小さい子どもがいて、預けているようだと、急な病気で休むことも多い。そういう人はアウトみたいな感じか。
そういう採用パターンもあまりにも旧態依然としているので、自分が雇う立場になってからはあまりその部分を重要視しなくなった。実際、シングルで1歳児抱えたお母さんをみんなの反対をよそに採用したこともある。その人からすれば仕事見つけないと保育園にいれることもできないという事情もあり、けっこう必死だったようだし、会社としては有給の範囲内で休む分にはなにか言うことはできないわけだし。
話は脱線だが、とにかくこの介護を理由に回顧は絶対にアウトだと思う。介護は出来るだけ社会的資源に頼るべきだ。そして何より人は社会に出て金を稼ぐことで、労働してその対価を得ることで自己実現していくのである。介護を理由に辞めさせてはいかんし、辞めてもあかん。会社は利潤追求を一義的な目的とした組織ではあるが、それでも社会的資源の一つでもあるわけだ。仕事と介護だの子育てだのといった労働者の事情にも配慮はすべきだろうとは思う。そのうえで甘えあいのないドライな関係を構築していくそういうことなんだろう。
いちおう記事内容を個人的アーカイブとして全文引用しておく。

http://digital.asahi.com/articles/ASG416HHZG41ULFA041.html?_requesturl=articles%2FASG416HHZG41ULFA041.htmlamp;iref=comkiji_txt_endle_s_kjid_ASG416HHZG41ULFA041:titl
(報われぬ国)介護で欠勤、雇い止め
春の暖かさに包まれた大阪市内の公園で、その女性(52)は母親(80)と愛犬を連れて歩いていた。

シリーズ「報われぬ国」
 派遣社員としてコールセンターでパソコン機器の顧客相談をしていた。だが、母の介護で欠勤が多いことを理由に「雇い止め」になり、昼間はこうして過ごすのが日課になった。

 「これ以降の契約更新はありません」。思いがけない言葉に頭が真っ白になったのをいまも覚えている。2012年8月のことだ。

 勤務中に呼び出されると、会議室で派遣会社の担当者が待っていた。「あなたは遅刻や欠勤が多い」

 担当者は、コールセンターの業務が縮小される計画を伝えた後、女性が人員削減の対象になった理由として勤務態度を挙げた。

 「介護しないといけない事情は説明していたはず。何とかなりませんか」。必死に訴えたが、「派遣先の事情もあるし、会社はボランティアではない」。

 雇用を打ち切る理由が示された書類には「勤怠不良」と書かれていた。怒りがこみあげてきた。

 その約1年前、母が認知症と診断を受けた。父親が亡くなった後、ずっと2人で暮らしてきた。

 母は不安や寂しさから、出勤しようとすると、体調が悪いと訴えたり、買い物などの用事を頼んできたりした。時には不満や小言を言い、なだめながらずっとつきあうしかなかった。介護サービスを受けるための手続きや付き添いもあり、最初は遅刻や欠勤が月に10日ほどになった。

 だが、その後はデイサービスを週3日に増やし、介護にも慣れてきた。12年6月ごろからは遅刻や欠勤もほとんどなくなった。何とか働き続けられると思った矢先の雇い止めだった。

 女性はいま、母の年金と父の実家を貸して得る家賃収入などで何とか暮らすが、介護はいつ終わるかわからない長い道のりだ。「いまは先のことは考えないようにしている。私の人生、変わってしまった」

■93日の休みでは…

 親などの介護をきっかけに職を追われる「介護失職」が広がる。東京都内で保育士をしていた20代のエイコさんもそうだ。

 12年秋、長野県にいた母(65)が脳梗塞(こうそく)で倒れた。父も脳梗塞になったことがあり、母の世話を任すのは心配だった。そこで、東京でいっしょに暮らす兄と2人で面倒をみようと、東京の病院に母を移した。

 手続きや介護の相談に加え心労で体調を崩し、月に5、6日休むこともあり、同僚との関係は冷えこんだ。相談しようにも、同じ年ごろで介護経験のある人はいない。孤立感が募り、半年後に保育士をやめた。

 その後、母が自宅からデイサービスに通うなど落ち着いたため、医療事務を請け負う会社に再就職した。国の「介護休業制度」に従って、介護をする社員のために通算93日間まで休める制度も整っていた。

 だが、エイコさんは休めなかった。母が長野に帰りたがったため、しばらく長野で世話しようと介護休業を使おうとしたが、この会社では勤続1年を超えないと取得できなかったのだ。

 母は長野に帰れず、いまは体調を崩して再び入院している。勤続1年を過ぎたところで、休めるのは通算93日間しかない。「これじゃ、とても足りない」

 そもそも厚生労働省は介護休業制度を「要介護の家族をどの施設に入れるかなど、今後のケア方針を決めてもらう準備期間を確保するもの」と位置づける。だが、手ごろな費用で入れる特別養護老人ホームは足りず、デイサービスなどを使った在宅介護では家族が支え続けなければならない。

 「職場が理解しないこともあるし、制度ができても現実と合ってなかったり、利用しづらかったり。結局は自分たちで支え合うしかない」。富山県に住むタカシさん(57)は感じる。

 約15年前、妻が脳梗塞で倒れて半身まひになった。大阪市内の照明器具メーカー直営店で正社員として働き、売り場リーダーをしていた時だ。2人の息子はまだ小学生だった。

 仕事を終えて自宅に帰るのは夜10時過ぎ。それから妻の入浴や子どもの翌日の朝食づくりなどを終えると、寝るのは午前3時を回った。介護休業制度も利用したが、終われば元の過酷な生活に戻るだけだ。

 介護疲れから、注文された商品とちがう商品を発送するなどのミスが続いた。妻の介護で早退も増えた。

 やがて出たのが外回り営業への辞令。拘束時間が長く、とても介護を続けられない。「辞めていいぞということだな」。正社員の座を捨てるしかなかった。

 その後、家電販売会社などで働いたが、介護との両立は難しく、ずっと続けられない。家賃を払うのも大変になり、約3年前に富山の実家に戻った。いまは、介護の悩みを持つ男性向けに料理教室や介護セミナーを催して暮らす。

 介護で職を失ったあげく、親も子も生活苦に陥る「共倒れ」の危険もある。

 茨城県に住むアツシさん(50)は30代後半から、パーキンソン病の父、がんで入退院を繰り返す母を介護した。地元の機械メーカーをやめ、アルバイトなどで食いつないだ。賃金のいい工場の面接も受けたが、介護でフルに働けないことを話すと採用されなかった。

 父は最も重い「要介護5」だったが、介護サービスは週2回の入浴しか受けさせてあげられない。十分なサービスを受ければ自己負担が月数万円になり、暮らしていけないからだ。両親の年金は月10万円ほどあったが、入院費用などの借金返済に消えていった。

 06年に母、10年に父が亡くなり、長い介護生活が終わった。肩の荷が下りた途端、待ち構えていたのは自らの生活への不安だ。

 工場などで働こうと職を探すが、50歳にもなると求人は少ない。履歴書の段階で落とされ、面接を受けることさえできない。「今度は自分が生きていかなきゃ。何とか仕事に就きたい」。焦りが募る。(木村和規、横枕嘉泰)