ふじみ野市長選〜島田氏が当選

 ふじみ野市長選は、旧大井町町長の島田行雄氏が当選した。
http://www.saitama-np.co.jp/news11/14/01p.htm
http://www.city.fujimino.saitama.jp/life/election/kekka.html
 ある意味では市民はよりベターな選択をしたということだろう。旧大井町民としていえば、これで少なくとも大井町上福岡市に吸収されたような一市一町の合併のイメージは払拭できただろう。島田氏が大井町長時代に進めてきたふじみ野駅を中心とした街つくりは継続されることになるだろう。
 ただし民意を問うことなく決定された一市一町の合併とその過程で島田氏がリコール寸前までいったという事実もまた霧消したということだ。島田氏は今回の当選により町長リコールの禊は終わったと思うだろう。それにしても住民のバランス感覚は皮肉なほど抜群だ。住民投票を経ずして決定された合併には12000筆近くの署名で住民は町長にお灸をすえた。しかし、いざ合併がスタートした以上もっとも行政手腕を期待できそうな島田氏に投票する。あたかも国政選挙で衆院選には自民党に投票し、少し勝ちすぎかなと思うと参院選では野党に投票するように。
 また島田氏は、今回の当選で彼が進めた合併が住民が支持されたと語るのだろう。そう、合併はすでに成されてしまった既成事実なのだから。合併がすでに決まってしまったことであり、現に10月1日から新市がスタートしているのだ。だから合併の手続きに若干の瑕疵があったとしてもいたし方ない。もっと現実的になって新市の舵取りをしてもらわざるを得ない。そんなところだろうか。
 こうした現実主義の名のもとに既成事実をどんどん追認していく政治の流れをみるとき学生時代に読んだ政治学丸山真男の小エッセイを思い出す。講和問題に触れて書かれた「『現実』主義の陥穽」という一文だ。丸山は日本人の現実、非現実を考える場合の「現実」の構造性を三つの特徴から分析している。
 第一には、現実の所与性だ。

 現実とは本来一面において与えられたものであると同時に、多面で日々造られて行くものなのですが、普通「現実」というときはもっぱら前の契機だけが前面に出て現実のプラスティックな面は無視されます。いいかえれば現実とはこの国では端的に既成事実と等置されます。現実的たれということは、既成事実に屈服せよということにほかなりません。現実が所与性と過去性においてだけ捉われるとき、それは容易に諦観に転化します。「現実」だから仕方がない」というふうに、現実はいつも、「仕方のない」過去なのです。

 丸山はこの現実の所与性の思考様式が戦前戦時の指導者層に食入り、それが日本を戦争の破滅に導いていったことを様々な角度から分析している。

「国体」という現実、軍部という現実、統帥権という現実、満州国という現実、国際連盟脱退という現実、日華事変という現実、日独伊軍事同盟という現実、大政翼賛会という現実−そうして最後には太平洋戦争という現実、それらが一つ一つ動きのとれない所与性として私たちの観念にのしかかり、私達の自由なイマジネーションと行動を圧殺して行ったのはついこの前のことです。

 丸山があげる日本人の「現実観」の第二の特徴は現実の一次元性だ。

いうまでもなく社会的現実はきわめて錯雑し矛盾したさまざまの動向によって立体的に構成されていますが、そうした現実の多元的構造はいわゆる「現実を直視せよ」とか「現実的基盤に立て」とかいって叱咤する場合にはたいてい簡単に無視されて、現実の一つの側面だけが強調されるのです。(中略)「現実的たれ」というのはこうした矛盾錯雑した現実のどれを指しているのでしょうか。実はそういうとき、ひとはすでに現実のうちのある面を望ましいと考え、他の面を望ましくないと考える価値判断に立って「現実」の一面を選択しているのです。

 この二つの現実の特徴をふまえたうえで丸山は「現実」観を形成する第三の契機を以下のように分析する。

すなわち、その時々の支配権力が選択する方向がすぐれて、「現実的」と考えられ、これに対する反対派の選択する方向は容易に「観念的」「非現実的」というレッテルを貼られがちだということです。(中略)さきに挙げた戦前戦後の例をまた繰り返すまでもなくこのことは明らかでしょう。われわれの間に根強く巣食っている事大主義と権威主義がここに遺憾なく露呈されています。

 丸山の分析は的確だ。この1950年に発表されたエッセイは日本人の政治認識の一面性をきわめて正確に言い当てている。そのうえで丸山は現実の多面性を重視し、別の現実認識の有効性をきわめてポジティブに語っている。

私達は観念論という非難にたじろあず、なによりもこうした特殊の「現実」観に真向から挑戦しようではありませんか。そうして既成事実へのこれ以上の屈服を拒絶しようではありませんか。そうした「拒絶」がたとえ一つ一つはどんなにささやかでも、それだけ私達の選択する現実をヨリ推進し、ヨリ有力にするのです。これを信じない者は人間の歴史を信じない者です。

 そう、結局のところ必要なことは一面的な現実を拒否しうる意思の強さなのだと思う。例えば今回の民意を問うことなく決まった一市一町の合併という既成事実。これを拒否し別の現実を想定する、選択しうる、そうした想像力が必要なのだろう。日本人の心性に徹底的に欠如しているのはある種の現実は別の現実によって乗り越えるべきもの、変えることができるものだとするアクティブな試み、それを成し得るための想像力なのだと思う。想像力の欠如、それがまさしく現代の日本人の心性の特異的現在なんだろう。
 私は半分負け犬の遠吠えのごとく、あるいは晦渋に満ちた独り言のごとく、ぶつぶつと小さな声でジョン・レノンの「イマジン」を口ずさむ。
♪国とか、宗教とかがない世界を思い描いてごらん♪