仕事を辞めたら、やりたかったこと

 仕事を辞めて6ヶ月が過ぎた。そして仕事を辞めたらやりたかったこと、もういきなり過去形モードだ。

 仕事を辞めたのはある意味年齢的にも潮時だったし、仕事に詰まっていたし、60代半ばで体もじょじょに動かなくなってくるし、妻の介護にも本腰いれなければとかまあ諸々の事情もあった。

 それと同時に40年、月並みにいえば馬車馬のごとく働いてきたし、もう仕事はうんざりみたいな部分もあったし、そろそろ好き勝手してもいいのではと思った。そしてこれも定型文みたいな感じだけど、仕事辞めたらやってみたいことなんていうのも人並みに幾つかはあった。いや、根が欲深なだけにやりたいことはいくらでもあった。

 まず一つ目はとにかく体を動かすことをもう一度始めたいと思った。50の坂を超えてから、ジョギングとかを集中して始めたことがあった。さらにジム通いとかもして短期間に8キロくらい痩せたことがあった。米袋を担いで、これが自分の体からなくなったみたいなギャグを飛ばしていた。それから数年は身体の軽かったこと、軽かったこと。

 その後は次第に仕事に忙殺されて体を動かすことから遠ざかっていった。ジムは幽霊会員のまま数年放置した。バカみたいである。ジョギングは断続的に続けたが、少し銚子をこくと膝に水が溜まり中止みたいなことを繰り返した。そして運動という運動を一切しなくなった。仕事もこれもバカみたいに押し寄せてきたし、ストレスから酒量も増えた。人生で未だかってない80キロの大台を軽く突破した。

 仕事を辞めるとなると、まあそう簡単に早死にする訳にもいかずで健康面からも運動は必須だったのだが、今のところ継続な形にはなっていない。一応、ウォーキングで一日10キロ程度歩くのは断続的にやっているけど、当初思っていたものとはどうも違う。

 仕事を辞めてやりたかったことの二番目。英語を一から勉強したいと思った。英語はもう二十代からずっと勉強したいと思い続けてきた。何事にも形から入るタイプなので、いろんな教材にもチャレンジした。自分と同じ世代の人はだいたい知っていると思うが、シドニー・シェルダン作、オーソン・ウェルズによるナレーションの『追跡』、『ゲームの達人』は全部揃えた。もちろん「スピード・ラーニング」も持っている。あれは子どもと一緒にやったのだが、自分も子どもも英語を覚えずに日本語の会話だけ覚えるという訳のわからん結果になってしまった。

「黄色いスカーフとブラウスでいいんじゃない」

「お母さん、あれは、もうすっごく流行おくれよ。きれいな青いドレスで欲しいのがあるの」 

  日本語のセリフを覚えてどうするのかと子どもと笑いあった。

 心底、英語が必要だと思ったのはここ15年くらいのところだ。

 妻が病気になって16年になる。身体が不自由になっただけでなく高次脳機能障害で、認知レベルも低下してしまった妻は、とにかくあちこちに行きたがるようになった。病気になる前は仕事で疲れているせいもあり、割と出不精だったのだが。

 出来れば妻の要望で出来るだけ応えたいということもあったし、とにかく障害者だからということで行動に制限がかからないよう、健常者と同じようにいろんなところに出かけられるようにみたいなことを当時は考えていた。フェリーと車で北海道にも行った。京都や大阪にもよく行った。いっときは淡路島に年に2回くらい行っていたと思う。子ども曰く「友だちに聞いても、関西に車で行くなんて人誰もいない。淡路島に行くって話すと驚かれる」ということらしかった。もちろん車で行くのは、少なくとも電車での移動よりもはるかに自由が利くからだった。

 海外旅行にもこの間、2度アメリカに行っている。いずれもロス周遊とアナハイムのディズニーランドだ。理由は子どもが無類のディズニー好きなこと、多分アナハイム周辺はアメリカでも最も治安が良い場所であること、ホテルとパーク内の移動であれば車椅子でも無理がないことなどなどからだ。

 アメリカ旅行で得た一番の教訓は、最大のバリアーは言葉だということだ。コミュニケーションが通じ合えば、たいていの障碍が意外とクリアできる。言葉が通じないとどうにもならないことが大きい。

 1回目の旅行の時は、いつも飛行機の搭乗がギリギリだった。ロスの空港でも登場ゲートに行くまで、いくど右往左往したことか。パーク内でも中々注文がうまくいかず、コーヒーを頼んでもコークが出てくるなんてこともあった。3日間、満足な食事がとれず、最終日に意を決してホテルのレストランに予約してなんとかまともなディナーをとった。

 2回目、これは去年、ほとんどコロナが蔓延するギリギリの2月下旬の旅行だったが、この時はgoogle先生とテクノロジーがいろんな意味でフォローしてくれた。ホテルのレストランの予約は日本にいる時にネットでできた。パーク内での食事はほとんどがネットでオーダーしてクレジット決済、料理が出来ると通知がきて窓口で受け取るみたいなことですんだ。とはいえやはり言葉が通じないと、様々に支障がある。google先生の翻訳画面を相手に見せてみたいなことが多かったがそれでは足りない。

 年齢的には多分次はないかもしれない。子どもも巣立ってしまったので、次となると妻と二人での旅行となる。大きなスーツケースと車椅子を一人ではさすがに難しいかもしれない。でも可能なら新婚旅行で行ったニューヨークにもう一度行ってみたい。メトロポリタン美術館アメリカ自然史博物館にまた行ってみたい。なんならニューヨーク近代美術館だって。そのためには最低限のコミュニケーションが交わすだけの語学が必要になる。

 最初、一月くらいは時間を見つけては独習書を使って少し勉強をしたり、Ipodに入れた英会話を聴いたりとかしたけど、結局中断したままである。

 仕事を辞めてやりたかったことの三つ目はピアノを習うということ。

 自分はけっこう半端ない貧乏な家に育ったので、ピアノがある家というのは羨望の眼差しみたいなところがあった。子どもができたらピアノ買って習わせたいとプチプル的に思っていて、実際そうした。子どもは10年近く先生についてピアノを習ったが結局モノにはならなかった。でも、音楽自体は好きになったようで中学から始めた吹奏楽は、大学まで10年間続けた。

 大学を選ぶときに親の適当なアドバイスとしては、「大学で習う法律や経済は実社会ではクソほどに役に立たない。せっかく4年間自由な時間が過ごせるのだから、出来るだけ好きなことをやった方がいい」というものだった。子どもはそれに従って芸科を専攻して、美術館や博物館に行き、映画を観て、音楽を聴いて4年間を過ごした。親としては羨ましい限りだった。

 ピアノを習うのを辞めてからも子どもは時々ピアノを弾いてはいたが、最近はほとんどがただの箱みたいになっている。なのでいっちょう親の自分がやってみようかと密かに思っていた。「もしもピアノが弾けたなら」のあれである。別にショパンモーツァルトが弾きたいとかそんな大それたことではない。1曲か2曲弾ければそれで充分なのだ。

 さらにいえばあの駅ピアノ、街角ピアノでふらっとピアノの前に座ってたどたどしく1曲弾くというの、あれをやりたいと密かに思っている。すでにやる曲も決めていて、ハービー・ハンコックの「Tell me a bedtime story」、これをジョージ・シアリング風に弾きたいという設定ができている。

 まあそれは置いといて、せっかくピアノがあるのだしタケモトピアノに引き取ってもらうのではなく、ちょこちょこといじりたいというのが細やかな願望である。

 まあ、他にも全国の美術館、広島、足立、山形、長野、滋賀、佐賀とか行ってみたい地方美術館が山ほどある。それからえーと・・・・。

 大病なしに生き長らえても体が動くのはせいぜい70代前半まで。それを思うとやりたいこと数多あっても時間がないということに尽きるのだが、とにかく仕事を辞めてからやりたいと思ったことが何も出来ていない。そんな風にして時間だけが過ぎていってしまう。