舞鶴引揚記念館

 せっかく宮津まで来たのでこういう時でもないと絶対に行かない場所はということで、隣町に当たる舞鶴に行っていようかと思った。前日、金沢から福井を縦断して日本海側の京都府に入った時に舞鶴という地名をみて、あの舞鶴かと思ったりもした。あの舞鶴、そう岸壁の母の、満州ソ連からの引揚者が辿り着く舞鶴である。
 宮津からは一つ半島を超えて行くような感じで隣町といってもけっこう距離があり、京都縦貫自動車道を綾部ジャンクションまで戻って、それから舞鶴若狭自動車道舞鶴東ICまで行く。けっして隣町でもなんでもない。
 舞鶴ではどこへ行くかというとこれはもう地味に舞鶴引揚館である。まあ終戦記念日も近いこともあるし、しみじみさせてもらおうかということだ。観光に来ているつもりの妻にとってはあんまり興味があるところではなさそうなんだが、まあここは我慢してもらう。

舞鶴引揚記念館
 引揚者の記録だけでなく、どの地にどのくらいの移住民がいたか、さらにソ連に抑留された旧軍人捕虜たちがどのあたりで収容されたのかということまで、かなり細かく解説されていた。そこで知った事実として、敗戦時海外にいた日本人は660万人にのぼるという。そしてそのうちの三分の二以上が満州や朝鮮にいたということだ。ある意味、日本の朝鮮の植民地化や中国への侵攻、満州帝国の建設は、国内だけでは東北を中心に満足な食糧さえ供給できないという国内経済事情から、海外にうってでたというのが大きな理由なのだ。国内で食い詰めた貧しい人々が、あるいは国内で経済的に恵まれない人々が一攫千金を狙って満州に移住したという事情があるのだ。
 そうした数百万人の海外に取り残された日本人を帰国させるというのが、引揚というある意味、一大事業だった訳なのだ。それは1945年の敗戦から1956年くらいまで、10年をかけて継続的に行われたのである。数百万人という規模なのだから。
 そこには様々な悲劇があっただろう。ソ連に抑留された軍人たちもそうだ。記録を追って行くと、どうも将校といった位の高いものほど、抑留期間が長いということもあったようだ。最も関東軍が敗走する時に最も位の高いものから、率先して逃げまくり、いち早く国内に戻っているという話も何かで読んだことがある。それこそ非戦闘員の残し、末端の兵隊さえも置き去りにしてということらしい。なので割を食ったのは現場で指揮にあたった下士官レベルからせいぜい大尉クラスまでだったのではないかとも思っている。
 抑留軍人たちも、非戦闘員の一般住民たちもそれぞれ本当に大変な苦労をされて引揚船に乗って帰還された。かなりの人数の者が祖国の地を踏むことなく亡くなられた。引揚船の中で亡くなった方も相当数いたという。戦争はいつも弱い者、一般市民に惨禍が訪れる。そういうことなんだと思う。
 満州からの引揚の話になると、だいたいいつもソ連が悪者となる。日本が敗走を始めた頃に不可侵条約を破って攻めて来た。婦女子を陵辱した、といった言説である。多分それらはほとんどが事実なのだろうが、それは戦争の悲劇でもある。戦後、占領進駐軍(米軍)による一般女性への暴行事件も多数あったというし、もっといえば関東軍もまた朝鮮や中国では好き勝手し放題だったのだから。
 そしてもう一ついえば、第二次世界大戦でもっとも死傷者を出しているのは、ソ連であるという事実もある。ソ連もドイツに侵攻された時には相当に甚大な惨禍を被っている。そして憎きナチスドイツの同盟軍が日本出会ったということも戦争における一側面でもあるのだから。
 引揚館では展示された資料をいろいろ見た。その中で戦後、たまたまラジオでモスクワ放送によるシベリア抑留者の安否情報を聞いた一市民が、それを書き留めて家族に安否を伝える葉書を出したという記録が残っている。なんと安否情報を700通あまりの葉書にして家族に送り、そこから180通ほどが家族に渡り、家族から感謝を含め返信があったという。
 安否情報を伝える葉書や家族からの謝意の返信葉書がそのまま展示されているのだが、それを読んでいて不覚にも破顔した。いったんそうなるともう涙が止まらなくなった。父を夫の安否を知り感謝の返信を認めた者、帰還した本人からの手紙など。戦争の悲劇の中での小さな僥倖。安否情報が届かなかったかもしれない返事のなかった500通近いものの中には、家族すら戦禍の中で亡くなっているものもあったかもしれない。そんなことを考えているともう本当にいたたまれない気持ちになった。
「舞鶴への生還 1945-1956シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録」 – 舞鶴引揚記念館

坂井仁一郎氏(さかい・にいちろう、1923〈大正12〉年4月7日生、大阪府出身)が1948(昭和23年)年6月〜8月に、大阪府北河内郡門真町(現門真市)の自宅で旧ソ連の国営ラジオ放送「モスクワ日本語放送」を偶然受信し、聞き取ったシベリア抑留者の安否情報を、留守家族に葉書で伝えた活動記録。主な資料は、坂井氏が留守家族に宛てた葉書(ただし宛先不明で返送されてきたもの)と安否情報を得た留守家族からの感謝を伝える手紙・葉書類。
本資料は、坂井氏が上記のような状況下で1948年の3か月間に受信した「モスクワ日本語放送」の内容を、そのまま「聞き捨てならない」という強い責務に駆られるなかで行われた、個人の献身的な意志に基づく活動記録である。
実際に坂井氏が投函した葉書は、700通余り、その内約半数は宛先不明で返送されてきたといわれる。また、留守家族から坂井氏宛に送られた、謝意を伝える手紙・葉書は、約180通に及ぶ。