とりあえず帰ってきた

晦日と元旦を長野で過ごした。
2日は9時過ぎに長野を出発して一路西へ、淡路島を目指した。高速は1000円の影響もあるのだろう交通量は多かったが、中央道はスムーズに流れていた。名神に入っても順調だったが、さすがに一宮から米原近辺より断続的に渋滞がはじまりけっこう時間がかかった。結局、淡路に着いたのは7時少し前。いつも泊まっている南淡路ロイヤルホテルに入り、その日は夕食とって風呂入って終了。
翌日の3日はけっこうのんびりした。朝風呂、バイキングの食事を時間ぎりぎり(10時)までのんびり食す。それから部屋に戻ってぐだぐだ。ようやく11時過ぎに出かけて、いつものように淡路の南端の道の駅で時間つぶしてから大鳴門橋を渡り、これも昨年と同様に大塚国際美術館へ。ここで半日のんびり絵画鑑賞。
いつも思うことだが半日では全然時間が足らない。きちんと観るならたぶん丸々2日必要だし、バロックから近代あたりを中心に観るにしたって朝一番くらいから時間をかけるべき。とはいえ基本、陶製の複製絵画だから、オリジナルのように有難がる必要もなし。リラックスして絵画鑑賞ができる。おまけにいついっても空いている。系統だって西洋絵画が網羅されている。普通の美術館ではありえない絵画とのツーショットなど普通にできる気楽さ。この美術館はある意味理想的なミュージアムなんじゃないかなとも思う。
ここでダラダラ過ごしてから宿に戻って、のんびり風呂。それから食事。これも例年通りで2日目は中華。
4日はただただ一路帰宅。といっても宿出たのが11時頃。淡路のSAでぶらぶらして明石大橋を眺めたりとかしてから本州へ。それから一応観光しようかと奈良に足を伸ばしたが駐車場がほとんどいっぱいで車止めようがなかった。昨年は三が日で県庁の駐車場が使えたのだが、今回は県庁が普通に営業しているため、観光客の駐車ができないのだとか。やむをえずそのまま帰ることにして、後はずっと運転しっぱなし。
夕方遅い時間に菩提寺パーキングで遅い昼食をとり後は高速乗ってきた。帰省ラッシュは3日だったらしいのだが、これまでのパターンでけっこうな渋滞を予想していたのだが、結局渋滞らしい渋滞は一宮IC手前で15キロ前後のダラダラ渋滞があっただけ。中央道に入ってからはスイスイと車が流れていて、10時台に鶴ヶ島まで戻ってくることができた。
今日はというととにかく5日分の洗濯に次ぐ洗濯。洗濯機を4回くらい回しただろうか。ベランダに干しきれずに、ゴミ袋二つに下着類をまとめて入れて近所のコインランドリーまで行って乾かしてきた。冬場で家族三人で5日家を空けると、まあこういうことになるのだろうな。
でも、正月をリゾートホテルで過ごすというのはとにもかくにも中流的な幸福だとは思う。これが出来るのも健保のおかげで、正月料金がいくらくらいかしらないけれど、たぶん通常の三分の一くらいで泊まれているんじゃないかと想像している。まあだからこそ出かけられるのだけれど。それでもやっぱり淡路は遠いとは思う。長野経由とはいえ往復で1500キロだもの。これを五十路を超えたオッサンが一人で運転だから。こういうの、後どのくらい続けられるのだろうかなどとも思う。
でも、温泉はいって、そこそこ美味い料理を家族三人で食べてと、そういう正月を過ごすと、また一年頑張ってみようかなどとも思う。そして来年もまた、温泉、料理、大塚国際美術館の三点セットの正月を迎えられたらなどとも思うわけだ。家族三人のささやかな幸福みたいなものである。
今回の旅行の収穫。妻が二泊の間、朝、夕の入浴で大浴場の風呂に入れたこと。前回まではシャワーだけ、あるいは二日間で1度くらい短時間大浴場に入れるかどうかだけだった。今回、すべて入浴ができたのは娘がけっこう手伝ってくれたかららしい。これまではあまり母親の介助というか、手伝いをすることはなかったのだが。
やっぱり12歳ともなると少しずつ自覚みたいなものでてくるのだろう。「介助少女、期待しているよ」などと言うと嫌な顔をするのだが、それでもきちんと母親の役に立っている。妻は今回の旅行中に、「やっぱり娘産んどいて良かった」としみじみ言っていた。娘もだんだんと母親の手助けしながら、もっと仲良くなっていくのかもしれないなとも思う。
そうなると私の負担も少しずつ減っていくかもしれない。私も年齢的な衰えとかも次第に出てくるだろう。少しずつ娘が手助けしてくれれば有難い。とはいえ娘をそれにしばりつけてしまうようなことを考えてはいけないのだろう。いずれは家族の元から離れていくのだろうし、そうやって自分の生活を見出してもらわなければ困る。妻のことは基本的に私が担っていかなくてはならないのだ。これまでもそうだし、今後もずっとそうなのだ。
でも家族三人での旅行、いつまで続けられるだろう。いやみんなが健康であれば、例えば今は家族三人だけど、将来は娘の家族と一緒の旅行なんていうことだってありえるかもしれない。小市民的なささやかな幸福みたいな世界、俗っぽさにも限度がありみたいな気もしないでもない。でもそういう夢みたいなことを一つ想像するのも、正月だからこそなんだろう。