給食論争について

弁当で家庭の「格差」が見える」 「中学校は給食に」反響
弁当は個に食パン1枚------。弁当で家庭の状況がみえてしまうので、中学校はみな「給食に変えるべきだ」という当初を載せた4月16日付けの記事に、賛成、反対の立場から多くの意見が寄せられた。議会が「弁当の日」を作るよう決議し、論争になった待ちもある。弁当を作らないと愛情が足りないのか。子どもが「格差」を実感させられることを、どう考えるか。議論は広がる。   朝日新聞 5/14付 27面

なにを今さらみたいな記事だとは思った。今どき中学校は完全給食が普通だと思っていたのだが、そうでもない自治体とかもたくさんあるわけだ。それにしても義務教育なんだから給食という画一的な制度であっていいじゃないかと思う。たかだか昼食に愛情とかを求めるのはなにか話しが違うぞとも思うし、確かに弁当は経済格差が象徴的に現れてくるから、はっきりいって年端もいかない子ども達の世界ではあんまりいいことないと思うぞ。
記事の中に所謂弁当派の主婦の意見が二件載っている。

東京都町田市の会社員大音美月さん(46)は、朝4時起きで、高1と中2の息子たち、夫婦計4人分の弁当を作る。「お母さん!給食に逃げないで、心をこめてつくりましょう。時間と手間をかけてくれることに子どもは喜びを感じる」と言う。「家庭で収入に違いがあるのは、本当の姿。画一的な給食ではそれが見えない。弁当なら、世の中には色々な違いがあることを知るチャンスになる」
甲府市のパート青山洋子さん(55)も2人の息子たちの弁当を作ってきた。「私は給食に反対。税金の無駄遣い。親が働いているからこそ弁当を作り、子どもと接点をつくるべきだ」。弁当から格差が見え、他の子の陰口を言う子がいるなら、逆に子どもの考えを聞く機会になるという。

なんかこういう主婦の方々の善意あふれる意見というのはものすごくたちが悪そう。なまじいい人たちばかりだからという感がある。この人たちは給食制度によって、自分たちの頑張ってきた母親としてのアイデンティティが崩されることが多分嫌なんだろうな。そして自分たちの頑張りを普遍化したい、他のお母さんたちにも自分と同じように頑張って家事やるべきだとみたいな思いがあるのだろう。
でもさあ、それこそ格差じゃないけど家庭環境的に個々に事情があるのだから、自分たちの頑張りを押し付けちゃいけないのではないかと思うのだが。例えば大音さんに聞きたい、毎朝4時に起きて家族4人分弁当作っちゃうスーパーお母さんかもしれないが、「あんたあんまり会社の仕事ちゃんとやってないんじゃない」と聞きたくなってしまう。なんでそう思うかというと、私自身がたぶん仕事しながら毎朝4時起き弁当作りなんてできっこないと思うから。うまく両立できていたらとてもすごいけど、たぶん仕事手抜いてないって思いたくなってしまう。さらにいえば、「お母さん!給食に逃げないで!」と言う前に、まずあんたの亭主に一週間でも一ヶ月でもいいから、4時起き弁当作りをさせてみたらとも思う。世の中のお母さん、つまりは世間様に問う前に、まず家庭内で愛情弁当作りを作業を共有化させてみたらとも思うのだが。もちろん実践済みだったら、それはそれですごい。
たいていのこういう頑張っている主婦さんたちには、家事は女の仕事というきわめてクラシックなイデオロギーが染み付いているような気がしてならない。で、それを普遍的な真実であるかのように振り回すから怖い。いい人たちだけにとても怖いと思う。世の中にはさあ、料理の苦手な女性がいても不思議ではないと思うわけだ。料理が苦手な男性がいるのと同じように。なのに、母親だけは料理に手間をかけなくてはいけない、そうすれば子どもも喜びを感じるみたいな荒っぽい思いこみを振り回すのはどうかと思う。
我が家の事情についていえばだけど、小学校は給食、学童でも夕食食べさせてもらっているからなんとかなっている。それでも一応はきちんと毎朝子どもの朝飯だけは一品、二品作って食べさせている。でも、正直しんどいよ。おまけに来月からは妻が退院してくるから、朝飯は二人分作らなくてはならない。これで子どもが給食じゃなくて弁当になるとなったら、本当に弁当箱に食パン1枚は笑い話ではない現実になるぞ。
それじゃ子どもの食事に愛情そそいでないかって、土、日とかはきちんとした夕食作ってやることもある。もちろん外食の機会も多いけど。でも、そこそこ手をかけてやればうまいうまいと食べてくれる。毎日なんてできないけど、それでも子どもは親の作った料理できちんと愛情とかも含めて享受しているんじゃないかと思うのだがどうだろう。
経済格差についていえば、それが実感できるというのが本当の姿なのかもしれない。でも、小中学校という義務教育にあっては、少なくとも学校という教育環境の場では、経済格差のような個々の事情は反映されるべきではないのではないかと思うのだがどうだろう。あの子の家は貧乏、あの子はお金持ちみたいな認識をあからさまにすることに何の意味があるのだろう。それでなくても子どもたちはそういうことにけっこう敏感なのだ。
理想的な社会の絵空事をいわせてもらえば、金持ちの子であり、貧乏な子であり、様々な家庭環境にある子どもたちが、公的教育の場としての学校で、それこそ同じ釜の飯を食べることがなにかとても大切なことなんではないかと思うのだが。いずれ卒業してそれぞれ社会に出れば、嫌でも経済格差やそれぞれのおかれた経済状況等にぶち当たるのだから。
とにかく弁当推進論は絶対嫌。うちの家庭事情では特にそう思うよ。母親の病気という現実を小学校三年の娘はそれなりにきちんと認識している。健常者の母親がいる家庭に比べてすでに様々な思いを抱いていると思う。そこに持ってきてだよ、給食よりも弁当は娘が自分の置かれた状況をよりソリッドな現実としてつきつけられてしまうような気がしてはならない。まあそうならないように父親も頑張るつもりとはいえ、やっぱりこれはおかしいよ。せっかく制度としての給食制度がこれだけ定着してきているのにと思う。そこに持ってきてだ、小中学校に「弁当の日」を設ける決議案を採択した鷲宮町議会、これはトンデモ自治体だよ。同じ埼玉として恥ずかしい。

戦後60年、豊かな時代を迎え、学校給食は氏名を十分果たし終えた」
昨年9月、小中学校に「弁当の日」を設ける決議案が、埼玉県鷲宮町議会で出された。親子間で殺傷事件が起きるのは親子の愛情不足が背景にあり、母親が弁当作りをすることで親子の愛情が生まれるという考えだ。
提出した栗原昭文議員(74)は「昔母親が朝4時に起き、かまどでご飯をたいた。給食がなければ母親も弁当を作らざるをえなくな、子どもも親のありがたみがわかるようになる」と話す。

詳しくは以下のURLに。
http://d.hatena.ne.jp/washimiya2005/20051230/p1
しかし、何だよこの栗原さんという人、論理がめちゃくちゃだよ。教育とか、社会問題とかにどういう思いを持とうが自由だけど、それを強引に食育という言葉に収斂させて給食制度へのアンチテーゼにもっていくのはひどすぎる。年いった困った爺さんなのかもしれないけど、町議会とはいえ議員さんだぞ、これはひどすぎるよ。ジジイ、とにかくお前が子どもの弁当を作ってきたり、孫の弁当を作っているんだったら、まだ多少は説得力あるかもしれない。いや、それでも説得力ない。個人が個人の体験だけに依拠したことであり、普遍性がない。でも、ジジイお前弁当作ったことあるのか、昔母親は朝4時に起きて、かまどでご飯をたいた。お前がやればいいんだよ、それを。と、およそ論理的な反論などする気にならないところだ。
町議会での発言では、自分の母親が4時起き、かまどでご飯作った、親のありがたみみたいな体験談めいたことも話されているようだけど、いいか、たぶん昭和初期の時代だったかもしれないけど、お前の母親はきっと自分の境遇を呪詛しながらお前達の飯作っていたんだよとあえて言いたくなるな。
多分、この栗原さんの子ども時代、きっと農家だろうという勝手な仮定でのうえでの話しだけど、農家の主婦っていうのはジェンダー的にいえば、最も劣悪な状態に貶められた立場だと思う。お舅、お姑さんはいる。労働力として家事労働だけでなく、農作業等等にも当然駈り出される。子作りにあっては、生殖装置として沢山の子どもを産むことを義務つけられる。農家の姑さんが嫁いびりをするのは、自分がまさしくそういう立場に置かれてきたから。嫁いびりも輪廻のごとく制度化されているだけのことだ。と、そのくらい農家の嫁、主婦というのはしんどい立場にあり続けてきたんだと思う。
それを栗原議員は歪曲、美化しているだけだ。とにかく田舎の頑固ジジイが縁側あたりで勝手に吹聴しているだけなら、それはそれとしておきたい。でもこのジジイが町議会議員で、おまけにたぶん保守派のボス的存在で、今回のように影響力を行使してしまうと、やっかいなことになるのだなあと思う。まあ、このジジイはいいよ、ただの困ったジジイなだけだから。本当に困ってしまうのは、このジジイに引きずられて決議に賛成してしまう鷲宮町議会多数派の他の保守党議員だ。お前達の意見はどこにあるのかということ。
しかしディープサウスに非ず、ディープ埼玉の話だ、この鷲宮町の話は。本当に困ったことだと思うよ。強引に自分の考えをまとめっぽく言えばだ、給食もある意味制服と同じこと。ある種の多様性が入り込む余地ある制度くらいにしてしまえばいいということだ。これもずっと繰り返されていることだけど、例えば、中高の制服。あれも画一的だの、自由化したら子どもたちがだらしない格好をするとか、経済格差が反映するとか、まあ様々な議論がある。とはいえ、制服制度が確立した学校とかでも親が強固に私服を主張しさえすれば、たぶん学校もそれを認めることになっているのではないかと思う。ただし相当奇異な存在に子どもがなってしまうようにも思うけど。
弁当派のお母さんもそういう形で給食制度に挑戦してみればいいんじゃないかと思うのだが、どうだろう。「給食制度があってもうちは弁当持たせます。それが愛情の証ですから」すばらしいと思うよ。でもさ、子どもがきっと言うんじゃねえの。「母ちゃん、給食食うから弁当いらねえよ」って。