東近美常設展示(4月2日)

 胃カメラ検査、神保町で古書の後、竹橋の東京国立近代美術館(以下東近美)に行く。

 

 3月13日と割と至近に来ている。企画展のヒルマ・アフ・クリントはなんとなくお腹いっぱいになっていたので、今回はアート・ライブラリーで少し学習の後に常設展へ。

 寝不足の故、まずは4階眺めのよい部屋で仮眠。その後は4階から順に観ていく。いつものように気になった作品をいくつか。

《極楽井》と《舞妓林泉》のアップ

《極楽井》部分 小林古径 

 美しい少女たちの横顔、着物。背景には裏箔が使われ、モクレンを際立たせているという。

 

《舞妓林泉》部分  土田麦僊

 背景の装飾的性と舞妓の写実表現なのだそうな。速水御舟の《京の舞妓》が写実表現でリアルな舞妓を描き、それを横山大観が「悪写実」と断じたという。そのうえで美術院を除名しろとまで言ったのだが、「御舟を除名すると、古径もいなくなります」と安田靫彦が言ったことで思いとどまったとか、そんなエピソードを読んだことがある。御舟の舞妓も写実というか美しくない。モデルの舞妓がその絵を見て泣いたという話もあるという。

 そういうエピソードあふれる御舟の舞妓よりも、さらに麦僊の舞妓は「悪写実」的のような気もする。御舟の《京の舞妓》は1920年制作で、麦僊の《舞妓林泉》は1924年。たぶん麦僊は御舟のそれを観ているだろうし、たぶん参考にしたのではないかと、これは適当な想像。

有馬さとえ《赤い扇》

《赤い扇》 有馬さとえ 1925年(大正14) 油彩・キャンバス

<有馬三斗枝 :: 東文研アーカイブデータベース>https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9671.html

 有馬さとえ(1893-1978)は岡田三郎助に師事し、日展を中心に活動した女流洋画家。本作は第6回帝展出品作。少女の横顔には内面の強さ、精神性みたいなものが出ている。着物にネックレスというのもどこかモダンな感じもする。どこか心に残るような作品だ。

 有馬は長命で83歳で杉並のアトリエで死去したという。このアトリエは弟子の鹿島卯女が贈ったものという。弟子とはいえ杉並に家を建てそれを師匠に贈るって、鹿島卯女って誰って思ったが、彼女は鹿島組(のちの鹿島建設)の令嬢だったそうな。さもありなんと思ったり。

藤島武二《うつつ》

《うつつ》 藤島武二 1913年 油彩・キャンバス

 なんとなく艶めかしさとアンニュイな雰囲気を醸す絵だ。解説によると緻密に構成された絵のようで、画面の右上から左下にかけて対角線が引かれ、左上が明るく、右下が影となっている。また女性の肢体も腕の線と頭から背中にかけての線が逆三角形になっている。配色でも赤と緑、黄などが効果的に使われている。

 そうした構成的要素よりもやはり全体の艶めかしさ、気だるい雰囲気が勝るというか、そっちが強く訴求するような絵だ。

恩地孝四郎《浴後》

《浴後》 恩地孝四郎 1926年 木版(多色)

 恩地孝四郎(1891-1955)は、日本の抽象絵画の先駆者、創作版画運動の推進者といわれている。カンディンスキーらの受容した作品を多数描いている。この作品はというと、なんとなくエゴン・シーレを思わせるような、どこか退廃的なエロティシズムを感じさせる。

浅原清隆《郷愁》

《郷愁》 浅原清隆 1938年 油彩・キャンバス

 なんていうんだろう、抒情性とシュール・リアリズムの融合みたいな。解説キャプションによれば、この絵は作者の故郷である兵庫県播磨の海岸の夜の情景に母親の胎内のイメージを重ねたものだという。具体性のある郷里への思いと抽象的な母親への思いという郷愁へのダブルイメージ。日中戦争が泥沼化し、招集されることへの漠然とした不安がさらに重なる。

 作者の不安は現実化し、1939年に召集され45年ビルマ行方不明となり、30歳の若さ亡くなったとされている。生きて戦後を迎えていれば、体験した戦争の現実を踏まえ、より抽象度の高い作品を描き大成していたかもしれない。

フェミニズムと映像表現(2025.2.11–6.15)

フェミニズムと映像表現(2025.2.11–6.15) - 東京国立近代美術館

 2Fギャラリーにて女性作家たちによる映像表現によるフェミニズムをテーマにした作品が上映展示されている。

キムスージャ《針の女》

 

 都市の雑踏の中で針のように直立不動で立つ女性。彼女に気づき眼差しを向ける人や気にも留めずに通り過ぎる人。アジアのあちこちでの映像が4つの大画面に映りだされている。立ち尽くす女性の心性は読み取ることはできないが、そこには人々との交流を拒絶するような意思性、あるいは排除されるような社会の無理解、社会と個との間の絶対的な孤独をも感じさせる。かなりインパクトが高い

《Love Condition》 遠藤麻衣×百瀬文

 

 二人の作家が粘土をこねながら、「理想の性器」についての対話を続ける。二人の性器についての考え方、見方の差異と一致、次々と生まれるアイデア、対話のなかで新たな(性器の)造形についてのスクラップ・アンド・ビルドが続いている。

 この作品は以前にも見たことがある。たしかその時は、二人が海辺で海洋生物のような原始的な生物の着ぐるみを着て絡み合うという《Love ConditionⅡ》と一緒に上映されていたような記憶がある。いずれも面白く、またあっけらかんと性について語る、演じる二人のパフォーマンスに、なんとなく性についての客観性、相対化みたいなものを思ったりもした。

 ただし今回のこのギャラリーでの上映では映し出される画面の横にヘッドホンが二つ置いてあり、それを耳にすることで二人の会話を聴くことができる。「理想の性器」、その形状、射精至上の性交への疑義、それらを二人の手が粘土をまさぐりながら、あっけらかんと語られていく。たいへん面白い試みだとは思ったのだが、ちょっとだけ困ったことがあった。

 この企画コーナーは、多分にエキセントリックかつエロティカルな部分をも有する作品が上映展示されている。とはいえそこには誰でもが観ることができる。なかには子ども連れで来ている人たちも何組か。お母さん、お父さんが別の映像を見ているときに、子どもたちが別の映像を見る。

 たまたま私がこの《Love ConditionⅡ》を観ていると、隣に小学校の高学年くらいの女の子がヘッドホンを耳にして映像を見始めた。画面でやれペニスがどうやらこうやらと語り合う。これはなんていうかちょっと気まずいというか。自宅のリビングで『ラスト・タンゴ・イン・パリ』を観ていたら、子どもが横で一緒に見始めるみたいな。

 性を好奇心や社会的な固定化した見方とは異なる対象化、批評化するような作品がある。それを子どもが見て何を感じるか。そしてそういう子どもが横にいて、ジイさんは一緒に観るのがちょっとだけ苦痛になる。ということで自分はヘッドホンを置いてその場を去ることにした。

 性を対象化、批評化する作品。それは性を扱ってはいるがまったくのところエロティシズムとは無縁ではある。でもそうした作品であってもやはりなんらかのゾーニングはなされるべきなのかどうか。とりあえず俗にまみれた自分は、多分かってマルクーゼが性が体制によって秩序化された社会を性器的体制と呼んだ、まさにその社会に洗脳されて生きてきた。なのでどうしても俗物的な羞恥心を払拭できない。

 自分が子連れでこの場にいたら、自身の関心だけで作品に向かうことはできないし、子どもが自由に作品を見ることには一定程度関与するかもしれないなと、少しだけ思った。多分、こういう考え方は百瀬や遠藤の意図とは異なるだろう。一方で美術館はそういう部分についてどう考えているのかどうか。ちょっとだけ微妙に思ったりもした。