都内徘徊~墓巡り 駒込・巣鴨あたり

 午前中、歯医者通院。ようやく差し歯が入る。

 

 その後、例によって都内徘徊。前回と同じようにお茶の水から水道橋に出て白山通りを歩く。途中で駒込方面にそれて六義園を目指すことにしたのだが、このへんはちょっと歩くとそこそこのお寺の前を通りかかる。

 その中でかなり大きめなお寺があり、境内や広い墓地があったので中に入る。

吉祥寺

 

文京区 吉祥寺(きちじょうじ) (閲覧:2023年6月19日)

吉祥寺 (文京区) - Wikipedia (閲覧:2023年6月19日)

 正式には諏訪山吉祥寺という。武蔵野市の吉祥寺は、この諏訪山吉祥寺とその門前町が明暦の大火で消失し住民が移住して作った場所で、吉祥寺の名を偲んで吉祥寺村としたのだという。ということで本家吉祥寺らしい。

 参道も寺院も立派だ。

 

 そしてここには吉祥寺大仏もある。

 

 この大仏、1722年鋳造だとか。

 

 そしてここの墓苑には沢山の大名の墓がある他、著名な歴史的人物の墓もある。門のところに案内板があった歴史的人物の墓を探してみたのだがなかなか見つからない。ようやく見つけたのは。

榎本武揚

 

榎本武揚 - Wikipedia (閲覧:2023年6月19日)

 明治の政治家。戊辰戦争では旧幕府軍を指揮して最後まで抵抗し、蝦夷共和国総裁となり函館戦争を戦った。その後は投獄するも黒田清隆の尽力で助命され、その後は明治政府の官僚として露西亜との外交交渉を行った。色川大吉の歴史叙述の名著『日本の歴史21近代国家の出発』は榎本武揚の日記による記述から始まる。

シベリアの曠野を二台の馬車がよこぎっていた。

1876年(明治十一)七月二十三日、皇帝に別れを告げてペテルブルクを出発した榎本武揚は、モスクワよりボルガを下り、カザンからベルムあでの一千露里を馬車でとばし、ウラルの山脈を超え、トムスクイルクーツクをへてシベリカ官道数万キロを突っ走った。P2

 その後は外務大臣、文部大臣、農商務大臣などを歴任、東京農大を作ったのもこの人である。幕臣であり、ある意味逆賊でありながら、明治政府にも重用される。まあ優秀な官僚、政治家だったということだろう。

鳥居耀蔵

 

鳥居耀蔵 - Wikipedia (閲覧:2023年6月19日)

 蛮社の獄をでっち上げ、渡辺崋山高野長英を死に追いやった張本人、奸計の輩、妖怪と揶揄された男だ。本人は明治になっても生き残り78歳と長命で穏やかな人生を送ったとも。鳥居家の墓の端の方にある。

 

 その他にも川上眉山二宮尊徳などの墓は発見した。あとで調べると多くの大名の他にも、八百屋お七と吉三郎の比翼塚、日本画家西郷孤月などの墓もあるとのこ。最近の人では民社党の政治家だった佐々木良作の墓などもあるようだ。

六義園

 なんとなく流れで立ち寄った。

文京区 六義園(りくぎえん) (閲覧:2023年6月19日)

六義園 - Wikipedia (閲覧:6月19日)

 

 

 

 

 一周1.2キロくらいと小ぶりな庭園公園。落ち着いた雰囲気で都会の喧騒を忘れさせてくれる。午後の時間だったが、ウィークデイということもあり、散策するのは自分のような高齢者ばっかり。ときに外国人や小さな子どもを連れたお母さんもいたりする。マンデー・イン・ザ・パークという感じである。

染井霊園

染井霊園 - Wikipedia (閲覧:2023年6月19日)

 ここは先日、やはりお茶の水から巣鴨、大塚、池袋と歩いたときに、後から駒込巣鴨の間にある墓苑で著名人が多数埋葬されていると知ったところ。いろいろと気になる著名人の墓を見てみたいと思った。なんか墓巡りが趣味になりそう。まあ歴史好きならなんとなく興味あるよね、という感じだ。

 しかしここはかなり広い墓苑で、入り口のところに著名人の墓の場所を記した看板もあるにはあるのだが、正直わかりずらく、思いの外ぐるぐるとした。

 墓の中には普通に散策する人、バードウォッチングする人などがいる。まあ日中はそれなりの散策スペースなのかもしれない。

若槻礼次郎

 

若槻禮次郎 - Wikipedia (閲覧:2023年6月19日)

 戦前、財務官僚から転じて二度総理大臣となった。日本史やっていたので名前だけはかろうじて知っている。染井霊園にはこの人の他に総理大臣経験者では幣原喜重郎の墓があるのだが、改修だか補修だかで中に入れないようになっていた。

二葉亭四迷

 

二葉亭四迷 - Wikipedia

 二葉亭四迷こと長谷川辰之助。言文一致体の『浮雲』を書いた人だ。二葉亭四迷ペンネームは、自身の著作としてではなく坪内逍遥の名を借りて出版したことに対して、自身を「くたばってしめい」と罵ったことによるとある。俗説として文学に理解のない父親から作家になったために「くたばってしめえ」と言われたというのがあるが事実ではないという。大昔、自分は父親からそんな話を聞いたことがあるので、かなりこの俗説は広まっていたのだと思う。

 『浮雲』は多分高校生の頃に読んでいると思うけど、あまり面白いとも思わなかった。多分国語の勉強の一貫として読んだんじゃないかと思っている。その後、学生時代に四迷が翻訳した『あひゞき』や『其の面影』は多分読んでいるはずなのだが、中身はさっぱり忘れてしまっている。

岡倉天心

 

岡倉天心 - Wikipedia (閲覧:2023年6月19日)

 いわずと知れた思想家、日本美術の大家、日本美術教育の始祖。東京美術学校の初代校長にして、排斥され弟子の横山大観菱田春草らと日本美術院を創始した。さらにはボストン美術館の日本美術部の要職に就く。

 五浦にある岡倉天心記念五浦美術館で彼の年表を見ると、一年の半分をボストンで過ごし、残りを帰国して五浦で過ごすみたいな時期もあったという。途中で多分一月くらいは船上で過ごしているのだから、かなりハードな生活を送っていたのではないか。

 12歳で開成学校(後の東京大学)に入学し、16歳で結婚。18歳の時に文部官僚となりお雇い外国人フェノロサの古美術蒐集の助手を務めた。19歳で専修学校の教員となり後進の指導も行う。1890年、27歳で東京美術学校(現東京藝大)の初代校長となるも、1898年に排斥され日本美術院を創建。

 天心は1913年に50歳で没しているが、とにかく早熟な天才で、明治の近代化の中で近代美術を思想面、教育面で駆け足で 走り続けた人でもあったのだと思う。

福田英子

 

福田英子 - Wikipedia (閲覧:2023年6月19日)

 戦前の社会運動家、婦人解放運動の先駆的活動家。この人の著作『妾(わらわ)の半生涯』をいつか読みたいと思っている。

高村光雲・光太郎・千恵子

 

 《老猿》の高村光雲、詩人高村光太郎、妻千恵子の墓だ。

智恵子は東京に空が無いといふ
ほんとの空が見たいといふ

 『智恵子抄』でお馴染みのあの光太郎、千恵子が一緒に入っている。高村家の墓なのだから当たり前の話だが、なんとなく感慨深いものがあったりもする。

 

 染井霊園には他にも沢山の著名人の墓があるようだ。今度はもっと時間をかけて散策してみたい。染井霊園のお隣には慈眼寺の墓苑もあり、そこには芥川竜之介司馬江漢谷崎潤一郎墓所もあるという。そのうちまたこの辺りを散策してみるのも一興。

 歴史散策としての墓地巡り、時折そういうのもいいと思っている。