矢崎泰久が死んだ (2023年1月1日)

 元旦の新聞を開くと訃報欄に矢崎泰久の死を告げる記事が。

矢崎泰久さん死去 元「話の特集」編集長:朝日新聞デジタル 

(閲覧:2023年1月1日)

矢崎泰久さん(やざき・やすひさ=元「話の特集」編集長、ジャーナリスト)12月30日、急性白血病で死去、89歳。葬儀は近親者で営む。喪主は妻陽子さんと長男飛鳥さん。

 東京都出身。日本経済新聞内外タイムスを経て、65年に月刊誌「話の特集」を創刊。95年の休刊まで編集長を務めた。「商業主義に流されず、リベラル、反権威」を掲げた同誌はミニコミ誌の草分けと言われ、小松左京寺山修司永六輔横尾忠則篠山紀信の各氏ら最先端の文化人が誌面を彩った。

 高校生の頃、この人の雑誌『話の特集』を愛読していた。ちょうどミニコミ系の雑誌が多く創刊されていた頃で、『面白半分』、『ビックリハウス』、『広告批評』などが創刊されていた。そうしたミニコミ誌の草分けが『話の特集』だった。

 高校1年生の頃、そうした雑誌を読みようになり、一時期は併読していた。多分、『話の特集』と『ビックリハウス』は毎号買い、その他は特集によって買ったり買わなかったりだったかもしれない。そういう意味では『話の特集』は愛読誌だった。

 それぞれの雑誌には特徴があり、『面白半分』は著名作家が編集長を務めるかたちで文芸指向が強く、『ビックリハウス』は読者投稿をメインにしたバロディ系だったと記憶している。そして『話の特集』は執筆者が多彩でサブカルチャーを体現しているような雰囲気があった。自分はこの雑誌でいわゆるサブカルチャーの洗礼を受けた。さらには和田誠を通じてイラストやデザインへの知見を広げたし、永六輔小沢昭一を通じて芸能についての知見を得たり、白井佳夫山田宏一を通じて映画批評を読み始めた。

 いわば『話の特集』によって自分は知的視野を広げていったのではないかと思っている。とはいえ自分は毎号かかさず読んでいたのは70年代の時期で、80年代に入ってからはあまりよい読者ではなくなっていたかもしれない。

 『話の特集』は1965年12月に創刊し、翌年12月で休刊。復刊、休刊を繰り返して、1970年1月から株式会社「話の特集」として再出発し、最終的には1995年に廃刊した。

話の特集 - Wikipedia  (閲覧:2023年1月6日)

 ウィキペディアには載っていないが、『話の特集』は1985~6年頃にも一時期休刊しているようだ。というのは今自分の手元にある1986年12月号の編集後記に「復刊題二号をおとどけします」とある。長く「話の特集社」の事務所は原宿の同潤会アパートにあったはずだが、それが渋谷の方に移転している。諸々資金繰りだのあったのかもしれない。

 矢崎泰久は雑誌編集、出版社経営以外にもさまざまな活動を行い、肩書には雑誌編集の他、プロデューサー業とあった。有名なのは、永六輔野坂昭如小沢昭一による中年御三家のライブ。さらに政治活動も行い、中山千夏とともに革自連の共同代表を務め、参議院議員となった中山千夏の公設秘書も務めていた。

 ちょうどその頃には、上野の木馬亭で政治寄席のようなイベントを定期的にやっていた。革自連旗揚げの頃熱気は、自分も「話の特集社」に行ったこともありなんとなくその雰囲気に触れている。その頃は、一応革自連シンパの一人として、中山千夏の選挙ボランティアをしたりもした。選挙の終わった後、だいぶ後まで彼女の選挙ポスターを何枚か持っていたような記憶がある。

 ついでにいえば、当時横浜市長選に自民党が官僚出身の落下傘候補を推薦したときに、革新系学者グループが市民派候補を推薦して対抗した。社会党共産党と革自連が推薦するという形だったと思う。そのとき横浜在住で革自連ボランティアとしてその選挙の手伝いをした記憶もある。何度か選挙応援に来た中山千夏矢崎泰久とは話を交わしたりもした。ちょうど成田空港反対闘争が盛り上がりをみせた時期で、管制塔占拠事件が起きたのが選挙中だったから、1978年の3月あたりのことだったのだろう。

 学生運動の友人、知人の何人かは成田に行っていた。自分も誘われたが、地元で草の根選挙やるみたいなことを話した記憶がある。誘ってくれた友人の一人が逮捕され、救援活動にも参加したなんてこともあった。T君といったが彼は今どうしているのだろうか。

 その後も矢崎泰久中山千夏は二人で様々な活動を続けていた。狭間組というユニットを組み対談形式の講演を行ったりしていた。大学の学園祭を回った対談講演が『狭間組見聞録1 バラの花など唇に』として出版されている。本棚をざっと見るとこの本はまだ残っていた。開くとなんとサイン本で二人のサインがある。1978年2月26日の日付も記入されているから発売してすぐのことだ。いったいどこでサインをしてもらったのか記憶がない。

 この本の最後に後書きに代えて中山千夏矢崎泰久がそれぞれ互いのことを評した一文を寄せている。その中山千夏の書いた人物評は的を得たものでまさに矢崎泰久とはこういう人間だということが判る。少し長いが引用する。

矢崎泰久について私が知っていること      中山千夏

姿 —— 身長165センチくらい、体重65キロをかなり超えると思われる。胸板厚く、頑丈。どちらかといえば、色白。髪黒く、少々波うち、短くもなく長くもなく、油は付けられていない。眉目秀麗にあらず。時として、大変美しく見えたり、若く見えたり老けて見えたり、知性的に見えたり無教養に見えたり、変化に富む個性的な顔立ち。

服装 —— 高級品を着す。はっきりした好みの傾向を持ち、おしゃれ。指輪、ブレスレットの類は身につけない。

性格 —— なみはずれた自主性を持ち、まれに見る行動力を持ち、驚異的な粘り強さを持つ。大胆不敵でありながら、針でちょっとつつかれても飛び上がるほどの、繊細な感受性をそなえている。明朗、快活、にして人前ではいつも機嫌良くふるまい、人も機嫌良くあることを好み、そのためにはあらゆるサービスを試みるが、追従はしない。よって、次のような誤解を受けることがある。面従腹背、不誠実、嘘つきね、腹黒いんだよ、等々。

 人に何かして貰うことよりも、することが好き。人付き合いは良いが癒着は嫌い。現在に執着し、過去にこだわらず、未来を現実的計画の一部として夢想する。基本的に物品に対しては執着はなく、人間と人間の手によって創造、再構成可能なもの以外、つまり、ケモノや虫や単なる存在としての山川草木にほとんど関心を示さない。

 好奇心、探求心に富む。そのためか、艶聞多し。酒はまるで飲まないが、かなりなヘビー・スモーカー。賭事を好み、すべてに勝負強い。うまいのものを選んで、よく食べる。しかし、いざとなった何でも食べる。

 表出している部分は他面的なので、外部から説明すると、言えば言うほどわけがわからなくなるが、本質的に捉えると、何よりも自分に忠実な人間だということだろう。欲望に基づく犯罪に彼が引きずりこまれないのはなぜか、という点についてはまだ研究の余地があるが、おそらく優しさに基づく独特なモラルが、かろうじて彼を陽光のもとにつなぎ止める糸になっているのだろうと想像する。

経歴 —— 1933年1月30日、東京都に生まれ、育つ。早稲田大学五年中退、日本経済新聞から内外タイムスへ、十年間の事件記者生活を送る。その間、常に報道の現状に対する疑問を持ち続け、1965年、雑誌『話の特集』を創刊。以来、ジャーナリストとして独特な歩みを続けるかたわら、TV、ステージ、映画など、様々なメディアのプロデューサーとして活動。現在、話の特集社々長兼編集長、革新自由連合代表のひとり。著者に『状況のなかへ』(大和書房)『青空が見えたこともあった』(三一書房

だいたいこんなところだが、この先、彼がどうなるか、まだまだ謎で楽しみだ。

『バラの花など唇に』 P172-173

 多分、中山千夏矢崎泰久の関係性が一番良好だった時の評価であり、少し盛り過ぎなのかもしれない。とはいえ矢崎泰久の追悼文を書くとしたら中山千夏しかいないのではと思ったりもする。伊豆に隠遁する彼女は今どんな思いでいるのだろうか。

 

 とはいえ矢崎泰久についていえば、毀誉褒貶様々あるとは思うし、出版社経営者、雑誌編集発行人、様々なプロデューサー業などあるが、どれ一つとっても失敗に次ぐ失敗を繰り返した。もともと彼が雑誌を発行できたのも実をいえば父親の力が大きいはずだ。

 父親の矢崎寧之は、文藝春秋社の創業者菊池寛の秘書を務め戦後出版社日本社を創業した。『話の特集』も当初は日本社から発売された。新聞記者上がりの若者が雑誌を創刊したいといって、そう簡単に取次が受け入れてくれるだろうか、ただの素人では無理だ。でも菊池寛と関係がある日本社社長の子息とあれば話が違ってくる。『話の特集』が創刊できたのもそうしたコネクションがあったからだ。

 しかし結局、『話の特集』は売れず日本社の経営は傾いた。独立して話の特集社を設立して再刊したが、1995年に休刊(廃刊)となり、話の特集社も営業を停止した。後には億単位の借金が残った。その後も執筆や講演などの活動を続けていたが、2008年には個人的にも破産宣告を受けている。

 雑誌『話の特集』は才能ある新々気鋭の執筆陣やアーティストが集い、彼らによってユニークなコンテンツを創り上げていった。それはそのまま矢崎泰久の財産でもあった。雑誌が休刊した後も彼が執筆等の活動を続けられたのは、有力な著者との関係性にあった。特に永六輔イラストレータ和田誠との関係の強さが彼を長くマスコミでの活動を持続させた。彼らとの対談集などの企画が長く続いた。しかし盟友であった二人も先に逝った。

 彼の訃報とそれにまつわる報道の中で、子息がマスコミ関係者であるということも知った。元『週刊アスキー』副編集長という肩書があるという。彼にも家庭があり、妻や子がいたのだ。以前、何度か結婚、離婚を繰り返したみたいな話をどこかで聞いたことがあったが、どうだったのだろう。

 彼の訃報以来、ネットで晩年の彼の生活や彼の仕事などについて、あるいは多分20年近く前の自身による仕事への振り返りなどの記事を目にした。そのリンクも下に貼っておく。

 自分は多分、雑誌『話の特集』を愛読し、その記事、連載など諸々から大きな影響を受けた一人だ。大げさにいえば、人格形成の何分の一かは『話の特集』によっているかもしれない。それを思うと彼の死にはそれなりの感慨を抱く部分もある。破天荒な生き方をしてきたが、ジャーナリストとしての気骨ある人物だったのだとは思う。ご冥福を祈りたい。

矢崎泰久 - Wikipedia (閲覧:2023年1月6日)

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