スポーツ・グラフィック・ナンバー1000号

 朝日夕刊の7面社会欄にそんな記事があった。

「スポーツの秘話刻みナンバー1000号」

 文芸春秋が発行する日本初のスポーツ総合誌「スポーツ・グラフィック・ナンバー」(隔週発行)が26日、創刊から千号を迎えた。勝ち負けの先にある人間ドラマに迫る文章と決定的な瞬間をとらえた写真を軸にした作りで、多くの読者の心をつかんできた。

 

 懐かしい雑誌である。今はほとんど手にとることもないが、かってはかかさず買っていた雑誌でもある。そう昔はスポーツジャーナリズム的なものが好きだった。スポーツノンフィクションも沢木耕太郎の『敗れざる者たち』とかが好きだったし、ノーマン・メイラーキンシャサの軌跡を取材した『ファイト』なんかも好きだった。もともとニュー・ジャーナリズムの作品が好きでそこからスポーツジャーナリズムに入ったのかもしれない。

 この雑誌が創刊された時、ちょうど自分は新卒で大学内の書店に勤めたばかりだった。当初、文庫、新書、文芸書、雑誌などを担当させられた。もともと専門書を売るのがメインな本屋だったから一般書や雑誌は新人がやることになっていた。ちょうどその時にナンバーが創刊されたのだ。

 「スポーツ・グラフィック・ナンバー」という誌名とともに、ちょっとオシャレなスポーツ雑誌が出た。スポーツ誌といえば野球雑誌やプロレス雑誌、あとは車系などがメインで同じようなレイアウト、同じような写真、同じような情報が羅列されたスポーツをやっている者だけが読者というような雑誌ばかりだった。そこにレイアウトに凝り、スポーツ競技の一瞬を切り抜いたような美しい写真、さらに一流のライターによる文章がのる、まったく新しいコンセプトの雑誌が出た。

 たしかそれはアメリカで出ていた『 Sports Illustrated』と提携しているというのが売りだったと記憶している。そして『 Sports Illustrated』特約の写真が使われていた。オシャレなオシャレな雑誌だった。しかし、この新聞記事の中にもあるようにこのオシャレなスポーツ雑誌の売れ行きは芳しくなかった。起死回生のヒットとなったのは、10号の長嶋茂雄特集だ。これは記事にもあるとおりに売れ行きがよく完売となった。

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 記憶ではこの号が出る前後からアメリカナイズされた紙面構成を脱し、日本の土壌にあった記事内容に変わってきていたようにも思う。『Sports Illustrated』との提携も解消したのはだいぶ後かもしれないが、その影響が薄れた頃から売れ行きは良くなったように思う。

 そして長嶋茂雄である。彼は間違いなく昭和のヒーローだった。天皇美空ひばり石原裕次郎らとともに昭和の大スターだ。自分はずっと長嶋ファンだった。彼の引退とともに野球への興味が薄れ、江川が入団した年に完全なアンチジャイアンツとなった。でも、長嶋だけは別だった。つかこうへいが描いた長嶋茂雄、病気の子の枕元で長嶋がすぶりをすれば病気は治る。彼とキャッチボールができたら夢見心地になる。彼はフィールド・オブ・ドリームスを体現するような存在だった。

 だから、丸ごと1冊長嶋賛歌となったこの号は当然購入しずっと持っていたように思う。長嶋茂雄によって『スポーツ・グラフィック・ナンバー』の売れ行きが回復したとういのは、ある種の神話だとさえ思える。

 しかし懐かしい時代であり、自分の書店人1年生の悪戦苦闘していた頃の記憶とがダブル。1980年の創刊誌と覚えているのはこの『スポーツ・グラフィック・ナンバー』、『写楽』、『ビッグコミック・スピリッツ』、『25ans』、『ブルータス』『とらばーゆ』などなど。とりわけ覚えているのは『写楽』、『ビッグコミック・スピリッツ』あたりか。

 『写楽』はたしか篠山紀信をメインにしていた。『ビッグコミック・スピリッツ』は「めぞん一刻」や「ちゃんどらー」なんかが連載されていたようにも覚えている。『写楽』のジョン・レノン特集が出た何か月して、ジョンが撃たれた時に自分がまず最初にしたのは、取次に電話して『写楽』のバックナンバーをかき集めることだった。取次の雑誌担当が、「今頃なんですか」と言ってきたので、「ジョンが撃たれたんだよ」と答えたのを覚えている。その後、自己嫌悪に陥って帰りに新宿まで1人で歩き、その夜は飲んだくれたんだった。

 1980年、今から40年も前のことになる。それはそのまま自分が社会人としての第一歩を踏み出した時でもある。自分はそれからずっと本や雑誌を扱う仕事を続けてこれた。もともと本屋が好きで、本棚をずっと眺めて時間を過ごす子どもだった。そういう人間がなんだかんだいって本や雑誌の周囲で仕事をしてこれたのだから、まあまあ満更でもない人生だったのかもしれない。