いつだったかBSで録画してあった小津安二郎の『東京暮色』を観た。
小市民の小さな不幸の積み重ねと終盤の大きな悲劇。それらを淡々と受け入れていく主人公たち。小津映画によくある人々の小さな心の行き違いからくる小さな葛藤。人の死でさえもカタルシスにはならない。すべてを運命として受け入れていく。
基本的にはホームドラマ的である。ファミリー・アフェアといってもいいいか。小さな葛藤、心の綾からまることもなく、そして解けない。こういう映画は現代においてはかなり難しいかもしれない。ホームドラマにあっても男女は簡単に寝るし、同じく簡単に死ぬ。それによってドラマは動的に展開されている。
人々が欲しているのはスペクタクルであり、カタルシスである。小津映画のような静的で物語の起伏もない映画は今日では難しいと思う。
以下、思ったことをいくつか。
有馬稲子は本当にキレイである。鼻筋が通っていて凛としている。ややバタ臭い感がある原節子とは対照的だ。ただこの映画の役柄でもあるアプレ的不良娘にはちょっと見えない。アバズレ感が皆無なのである。笑わない演技で一生懸命演じているのだが、ちょいとばかり役柄が重荷だったかもしれない。
小津安二郎の静的な世界は、どことなく70年代以降アメリカで話題になったミニマリズムを連想させる。様々な装飾的要素をはぎ取っていく省略的表現手法。純化に近い単純性のなかに通底する心理的なあや。どことなくレイモンド・カーヴァーの短編の幾つかを想起させる。
時代的な相違をあえて無視したうえで、もしも小津安二郎がカーヴァーの作品を映画化したらどんな風に仕上げただろう。まあ適当な考えだが、楽しき想像である。
ミニマリズムと研ぎ澄まされた様式美。それを軽妙に包み込む戦前の山手情緒。そんな風に小津安二郎を理解してみたのが今回の『東京暮色』である。