子どもの卒業式

水曜日も会議だったし、昨日は役員会で都内まで。その後は飲み会でいつものように午前様。老骨にじわりじわりと疲労が、てなこともないではないがそれはそれである。
本日は子どもの卒業式。義務教育の終了なのでもあり、少しは感慨深いものもあるかなとも思ったのだが、最近の受験の顛末もあり、ここ1〜2年の反抗期のもろもろのこともありで、正直あまり感動的な思いというか、しんみりしたような面持ちはなれないのである。
まあ受験についていえば、こればっかりはいたし方ないとは思う。親が親である、鳶が鷹生むようなこともなく、所詮鳶の子は鳶なのである。ただ一つ思うのは、同じような偏差値の学校が三択であって、なぜに学費の安いところだけ落とすかという疑問というか、なんつうか。
とはいえ親の期待を見事に裏切るところも実はまさしく親似なのかもしれないなとも思わないわけでもない。よーく胸に手あてて振り返ってみれば、自分自身も相当に親の期待裏切り続けてきたわけだし。親父はかれこれ25年以上前に死んでいるんだけど、けっこう苦労かけたし、思い切り脛齧りしたし、もっと早くに身を固めて孫の顔とか見せてやれば良かったと思うこともないではない。
まあいい自分の話ではない、子どものことだ。今日は給与だのなんだのと締めもあるし、出来れば仕事を休みたくない。あまり感慨深くもない中学の卒業なので、パスしてもいいかなとも思ったのだが、例によって妻の行きたい、行きたいという声に致し方なく。しかし車椅子の妻を連れてとなると、様々に段取りしなくてはならない部分もありで、いくら慣れたこととはいえ、若干気が重い部分もある。
駐車スペースの確保とかもろもろあるので、とにかく早目に動こうと、開場と同時くらいに入るようにした。そう開演(ちょっと表現としては違うか)30分前みたいな時間帯である。すると在校生による送る歌のリハーサルみたいなものまでやっている。それからしばらくしてから卒業生の入場、式典の始まり始まりということになる。
式自体はもう別にどうでもいいよという感じ。本当になんの感慨もなく、こみ上げるようなものもない。日の丸、君が代にもなんの抵抗もないし、といっても歌わないけど。大阪の市長さんとか教育委員会の誰かさんとかあたりからは口元のチェックとか受けそうだけど、別にいいよ君が代は。あれ歌ってある種の一体感とか感じるのは、サッカーの代表戦くらいのものでしょうとも。
そして卒業証書授与。卒業生一人づつに証書が渡される。まあこれが式のメインなんだけど、5組あるからこれが長くて長くてね。一人一人の生徒さんが校長さんの前にお辞儀して証書を受け取る。その間にもそれぞれのお子さんの成長のいろいろなシーンとかがそれぞれの親御さんの中で走馬灯しているのかななどとも思わないわけでもない。15歳の長いようで短い彼らの成長の過程がこの長々とした式典の間に漂っているんだということだ。それを思うと自分の子がどうのというのではなくて、なんとなくみんなとりあえずこうやって15歳の春を迎えることができたのは僥倖ってやつですよと思う。
たとえ受験に失敗しようがね。いじめとかでいろいろしんどい目にあっていたとしてもね。一生懸命部活やって、でもあんまり良い結果がでなかったとしてもね。あるいはけっこう充実した中学生活、いわゆるリア充していい思い出沢山作ったりとかね。
都心からだいぶ離れた、ある意味牧歌的な町でのあっつう間の三年間だったわけだけど、多少なんかあったとしてもどうにかやり過ごして卒業までこぎつけたわけなんだから、とりあえず良しとしよう。親的にいえば、まだ親業のゴールなどはまったく見えない端緒、端緒みたいな感じではあるが、15年間とにかく育ってくれたし、カッコつきになるかもしれないけれど育てましたという一つの確認、誰もほめてはくれないかもしれないけど、ある種の達成感みたいな部分もあるにはあるのだということ。
なんとなくそんなことを思っていたら、あっという間に子どもの順番になってしまった。証書をもらう子どもを見ても、別になんということもなく他の子どもと同様に、まあ普通に良かったねというような思いを感じた。