反原発デモに参加してみた

20日の金曜日、仕事を無理やり4時に終わらせて、反原発デモに行ってきた。6時から8時まで、首相官邸と国会前ということで、とりあえず国会前に行ってみた。整然としたデモというか集会というか。歩道にきちんと列を作って整然と並び、小さな声で「再稼動反対」のシュプレッヒコールをあげる。ただそれだけのために数万人の人々が集まっている。
毎週金曜日のこの抗議集会(?)、あるいはデモのようなものは、じょじょに人数を増やしてきている。最初数千程度だったものが万単位で次第に数を増してきている。それもデモというと当たり前となっている組織的な動員がほとんどない、一般市民の自発的な集まりである。
以前から友人たちからも、面白そうだし一度行ってみるかと誘われたこともあるにはあったのだが、なんとなく気が引ける部分もあり躊躇しつつみたいな感じだった。なによりもディープ埼玉からは都内はえらく遠いのも今一つ踏み切れないところでもあった。でも思い直してみた。
それはひょっとするとこの反原発の集会は、大化けする可能性があるんじゃないかと。
70年代後半以降、大衆運動はほとんど低迷化あるいは絶滅してしまったようにも思う。個人的には中教審等による教育改革(改悪)の成果なのだろうとも思ってはいる。日本人は徹底的に政治性を失ってしまったようにも思えた。それは団塊の世代を中心とした徹底した日常性への埋没とかによる部分も大きかっただろう。さらにいえば元々、日本人は歴史的にも政治行動を集団に担っていくだけの主体性に徹底して乏しい。早い話、先進国にあってはたぶん最も民主主義から遠い国民性を持った国とでもいうのか。
誰かに言われてしょもなく政治に参加するみたいな主体性のなさが特色だったはずの日本人たちが、震災と原発事故を経験して少しずつだが変わろうとしている。原子力ムラを中心としたこの国のエスタブリッシュメントたちの欺瞞性にいい加減気づきはじめたんじゃないかと、なんとなく毎週金曜日に官邸、国会前に集まる静かなデモを見聞きするうちに思えてきた。
で、とにかく一度行ってみるべきだろうという思いたったわけだ。それでどうだったか。ずいぶんとのんびりとしたデモ=抗議集会である。整然としているし、大人しく列に並んで小さな声で「再稼動反対」と口にするだけである。昔の血が騒ぐ身としてなんとも欲求不満な部分がないでもない。でもこの静かな、スタティスティックな佇まいこそが、きわめて今日的だし、そして効果的な原発に対する一般市民の立ち位置、意見の表出としては理想的なのかもしれないとも思った。
毎週来る義務もないし、なんのしがらみもない。ただし福島の原発事故以来、原発は一度なにかあれば取り返しのつかない被害を引き起こすということがはっきりわかっている。それをやれ電力不足だの、経済が停滞するだのと理屈をつけてなんとかその権益を維持しようとしている。それが政治家、官僚、経済人たちによって欺瞞的に行われている。それになんとかノーを言わなくてはという一人一人の思いが、あの場に集まってきているとそう感じた。
この運動はあるいは霧散するかもしれない。ある種の一過性のものかもしれない。でもなんとなく違うと、そんな気がしてならない。もはや3.11以前と以後では世界は実は一変してしまっているのではないか。それに気づかないように見ざる、言わざる、聞かざるを決め込んでいるのが今の体制派、政治家、官僚、経済人、マスコミたちであるのではないか。
ひょっとすると、この運動は、アラブの民主化に繋がったような大きな潮流の中に収斂されるものになるのではないか。世界史的な意味での大きなうねり、変化、それに連なるようなものになっていくのではないか、なんとなくそんな気がしてならない。じょじょに、じょじょに「再稼動反対」の小さな声をあげる人々の数は増えていくかもしれない。そして小さな声がこれまたじょじょに大きな声に変わっていくかもしれない。
とりあえず興味本位である。次の集会は29日の日曜日ということなので、参加、見物、まあなんでもいい。日比谷から国会のあたりに私も足を向けたいと思っている。
首都圏反原発連合
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7.29チラシhttp://coalitionagainstnukes.jp/file/2012_07_29_front.pdf:TITLE
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