立川談志の訃報を聞いて、なぜか志ん朝を思う

今さらながらだが、談志が死んだ。
http://mainichi.jp/select/person/news/20111123k0000e040032000c.html
新聞各紙が大きく取り上げていたし、1面に訃報記事を載せたところもあったのではないか。テレビでもニュースショーが長い時間を割いて特集的に報じていた。落語界の巨星、大名跡の死去とそんな扱いだ。六代目円楽よりも圧倒的に大きく報じられている。いやそれ以上に、それこそ円生や小さんの死んだときよりも多い感じさえする。
しかし思うのだが、談志ってそんな凄い落語家だったかということ。取引先の落語好きの人ともそんなことを少しだけ話した。その方も談志の芸風をあまり好きでないという。まあそういうのを差し引いたとしても、今回の報じられかたはなんとなく度が過ぎるような気もする。「落語界の鬼才」「天才」だのと、ほとんど名人扱いである。でも談志の芸というと、確かに理屈に優れていた部分はある。若い時分に『現代落語論』なる本を出したこともある。理論家だったんだろう。そのへんが保守的な落語界にあって新進気鋭の才ある若手みたいな持ち上げられかたをしたんだろう。
談志の落語は確かに面白いことは面白いけど、なんかドタバタしている、ガサツな感じがする、ようは粋じゃないと、まあそんな感じだろうか。彼の噺の中に出てくる女性はみんな長屋の婆、おばさんみたいなのばっかりだった。小股の切れ上がったいい女みたいなものは、たぶんまったく演じきれなかった。例えばだけど、円生とかの噺に出てくる女は、色、艶にあふれていたような記憶がある。
そしてなによりも談志には、もって生まれたような「ふら」面白みに欠けていた。談志がずっとライバル視していた志ん朝のような、色っぽさがまったくなかった。それがたぶん談志自身にもわかっていたのだろう、志ん朝への直接的な批判、悪口はけっこう露骨だった。落語界を分裂させた三遊協会分裂についてだって、発端は志ん朝の香盤を下げることが目的だったとさえいわれている。まあ正直な人間だったのかもしれない。
40代の中堅落語家だったこの頃には、志ん朝、円楽、談志、円鏡(だったか柳朝だったか)あたりで、落語四天王と呼ばれていた。入門は談志のほうが早かったが真打になったのは志ん朝のほうが早い。談志にとって志ん朝は気になる相手だったんだろう。
将来は円朝を継ぐとさえいわれた志ん朝が63歳で亡くなった。勢いのある落語から、少しずつ落ち着いた雰囲気が漂いだした頃、本当にこれからという時だった。それから何年かすると、なんとなく六代目円楽と談志が大看板のような存在になった。その頃には私なんぞは、忙しさもあってか、落語に興味がなくなってしまったけれど、返す返すも志ん朝の早世が残念でならない。彼の「居残り佐平次」や「愛宕山」、父親譲りの「火炎太鼓」などが忘れられない。
志ん朝の独特の「ふら」、粋で艶っぽい噺が、年齢とともにどんな風に枯れてくるか楽しみだったのになどと思う。談志の死で思ったのはそんなことだった。
http://www.youtube.com/watch?v=XjzuElWwPgM
http://www.youtube.com/watch?v=Lrnpj28IGfI
http://www.youtube.com/watch?v=wkFovku99fs