妻のみる夢

妻はときどき五体満足だった頃の夢をみる。左手、左足も自由に動く。だから好きなところへどこにでも歩いていける。ときには走ったり、跳んだりもする。そういう夢だ。でも目を覚ますと真っ暗な部屋でベッドに横たわっている自分がいる。左半身が麻痺してまったく動かない自分がいる。使える右手と右足をつかってもきちんと寝返りさえもうまくできない自分がいる。そんなとき少しだけ泣いてしまうと妻は言う。
それを聞いている私はというと、うまく反応ができないでいる。聞き流したり、ちゃかしたりするには重すぎる言葉だろう。でもなにか言ってあげてうまくフォローするということもできない。いったい何をいったらいいんだろう。妻の悲しみを癒すようなどんな言葉があるのだろう。
妻が一人で泣いているという話を以前だったら少しだけ話半分に聞いていたかもしれない。妻の脳梗塞巣は右側の三分の二、さらに前頭葉頭頂葉にも及んでいると聞いている。前頭葉をやられているせいか、喜怒哀楽が発症前に比べると著しく減退したように思える。そのことを入院している時に医師に聞いたこともある。医師は影響はあるでしょうが一概にはいえませんとのことだった。
前頭葉をやられると喜怒哀楽の感情が乏しくなる。羊のようなおとなしい人間になる。SF小説の影響もあるのだろうが、ロボトミーという言葉がすぐに思い浮かんでしまうのである。実際、妻が入院していた時、当時でいえばよくて車椅子、へたすればほとんど寝たきりということも想定された状態だった。左半身が麻痺していて不随の状態なのだ。妻の絶望の深さを思うと、なんともやりきれない思いだった。でも妻は発症してすぐの頃はそのことをあまり意にも介していないような様子だった。
「左手動くよ」
「じゃあ、動かしてみて」
「う〜ん、今日はちょっと調子が悪いの。明日はたぶん大丈夫」
注意障害の一つとして、病状認識ができないということ。たぶんそれがすべてだった。当時はそういう会話を何度も繰り返した。話していてけっこうつらい部分も多かったのを覚えている。
転院して国リハで本格的なリハビリを開始してずいぶんたってからのことだ。その頃には劇的に回復してきていて、当初は難しいと思われた杖での歩行も短い距離ならできるようになっていた。いつものように見舞いに行くと、妻は少し話をしてから急にちょっと散歩してくるねと4点杖をもって通路に出て行った。それから数分して戻ってくると妻はいきなり泣き出した。涙をポロポロと流して、こんな体になっちゃって私はどうしたらいいの。と私に訴えかけた。私はそのときもただおろおろしているだけだった。
後日、担当の看護師や主治医にそのことを伝えると回復してきたことの現われだという。それまで出来なかった病状認識ができるようになったからだと。リハビリを頑張って一日も早く日常生活に復帰できるように励ましていくようにとも言われた。
 たぶんそれが妻が発症してから初めて私にみせた涙だった。それ以後、私はたぶん妻の涙を一度か二度くらいしかみていないかもしれない。でも国リハで見せたようなぼろぼろ涙をこぼしてというようなものではなかった。妻に言わせると一人の時はよく泣いているのだと言う。ほんとうなのかどうかはわからない。
妻は体が自由に動いた頃の自分の夢を見ている。自由にどこへでも行ける。走ることもできる。時には飛び跳ねたり。大好きだったスキーもできる。そして目が覚めて、片麻痺になってしまった自分がいることに気がつく。そして一人で静かに泣いている。
私はその話を聞かされてもどうしていいのかとほうにくれるだけだ。何を言っても妻の悲しみにはきっと届きそうにはない。妻は永久に自由に動かすことができる左手と左足を失ってしまったのだから。それは同様に私にとっても、元気な、共に働き、共に家事をし、共に娘を育ててきた、ある意味我が生活の同志でもある伴侶を失ったということでもあった。そしてたぶん娘にとって元気な頼りになる母親を失ってしまったということなのだろう。
もう妻があの病気で倒れてから3年以上が経った。私は妻が元気だった頃の夢はみない。だからといって妻の病気を、体が不自由になった妻のことを、そういう現実のすべて受け入れているかというと、実はどこかでしっくりときていない。私でさえがそうなのである。小さな娘にとってはなおさらだろう。でも今の現実を一番受け入れられない、耐え難いと思っているのが妻本人なのである。
妻の出かけたがりは、たぶん病気のせいだとは思う。子どものようになってしまった部分も多々あるのだ。だから土日のたびにどこかへ連れて行ってと繰り返す。それは近所のスーパーへの買い物であったり、映画を観ることであったり、外食であったり。そして旅行であったりもする。一人でどこへでも移動する自由を失ってしまったのである。家族と一緒にどこかへ行きたいと思うのは素直な気持ちなのだろう。だからできるだけそれに付き合ってあげようと思っている自分もいる。でも毎週どこかへ連れていくのはやっぱり難しい。たまった家事を片付けることだって必要だし。それ以前に仕事、仕事で追われている。土日はのんびりしたいとか思う部分もある。妻の望み、小さな願望にこたえていくこと、それはある意味私の義務なのかもしれない。いやそんなだいそれたことではなく、頼りに思ってくれている相手にできるだけ親切にしたいと、そんなことなんだと思う。
妻はまた昔の夢を見ているのかもしれない。