「21世紀少年」

21世紀少年 (上) (ビッグコミックス)[rakuten:book:12105713:image:small]
大人買いを続けていた「20世紀少年」はとっくのとおに読み終えていたのだけど、後日談的なこの2冊だけは買いそびれていた。会社の同僚も私と同様に大人買いをしていてこちらもすでに購入済みだというので借りてきて読了したのがかれこれ二週間近く前のことか。それで何がわかったのか、すっきりしたのかというと、どうにもやっぱり納得いかないというか、すとんと落ちないのである。
本作は延々7年にものぼるロング連載となった「20世紀少年」の実質的な最終巻である。「20世紀」がきわめて後味の悪いというか、納得できないというか、謎が謎のままというか、とにかくよくわからないままに未完のごとくに終了してしまったために、圧倒的多数の読者から寄せられたフラストレーションを解消するために描かれた後日談ともいえる。本作により謎の幾つかが解き明かされた面もある。ケンジがヴァーチャルリアリティの世界に入り込むことで幾つかの謎とケンジなりのこだわりやら少年時代への決着とか、ややもすればご都合主義的ではあるのだが解明されたりもする。そしてなによりもともだちの正体がどうやら「カツマタ君」らしいということも明らかになる。
でも、それでもどうにも煮え切らない。多くの読者が指摘しているように、様々に張り巡らされた複線の多くが回収されないままなのである。所詮マンガなのだからとここは大人らしく目くじらたてることなかれということなのかもしれないのだが、されどマンガなのである。作者である浦沢直樹長崎尚志、しょうしょう風呂敷広げすぎて収拾できなくなっちゃったのかなと、結局そんな印象を私は持ちました。とはいえそれでもこのマンガが素晴らしき大作であり、「20世紀」「21世紀」合わせて24冊、ぐいぐいと読者を引き込み、引っ張っていく第一級のエンターテイメント作品だとはつくづく思います。
それでもこの終わり方はないよなと、ぶつぶつ呟いたり、結局「カツマタ君」って、みたいな思いもないではないわけで。ネットをぐぐると様々な解釈があり、いろいろな意味で参考にさせてももらった。きわめてオーソドックかつ浦沢直樹を賛美する立場からこの作品を読み解いてくれたのはこちら。
マンガノココロ 「21世紀少年」最終回を読み終えて
なるほどなるほど、この作品の本質は「思い出せない友だち」「友だちの友だち」というある種都市伝説の主人公的存在にスポットをあて、そこから想像力を膨らませた作品なのかもしれない。浦沢自身が同窓会で思い出せない友だちがいたこと、それをモチーフにしたという言葉が引用されたりもしている。どのクラスにも一人くらいいたかもしれない、陰の薄い、存在感のない友だちの友だち。彼らは常に忘却される運命である。生きているのに死人扱いされたりもする。そこには子ども社会特有のいじめやその他もろもろも複合的からまっていたりもする。子どもたちからすれば、いじめ、あるいはいじめた相手というのはある種不都合な事実であり、年月とともに合理的に忘却するような心理メカも働くだろう。目立たないという存在が、友だちの友だちという関係性の中で、実体がどんどんと希薄化されてしまうのだろう。
そうした存在感のない友だちの友だちとケンジのように子ども社会にあっていつも遊びの中心にいるような存在。そうした光と影の関係性が未来世界にどんな形でグロテスクにねじれていくか、それが「20世紀少年」の主題なんだろう。う〜ん、そんな大袈裟なお話なんだろうか。
次に面白かったのはこのサイト。
http://www1.odn.ne.jp/cjt24200/yamada/log/74/index.html
この方も「21世紀少年」でいきなりメインキャストとして登場するカツマタ君に困惑し、各巻に沿いつつカツマタ君の存在を検証していく。でも結論的には「解き明かされなかった伏線を含め、読めば読むど、まったく分らなかったです。カツマタ君って誰?」ということになってしまうようです。このへんは私も率直に賛意というか同感、同感という感じを思いました。
しかしこのともだち=カツマタ君という「21世紀少年」の結論を大胆な推理解釈で解き明かしてくれたのがこの方です。
“ともだち”の正体がカツマタ君となる7つの理由@20世紀少年&21世紀少年に対する持論・推論【其の3】 - 己【おれ】
 こちらでは第一のともだち=フクベイ、その死後に現れるともだちは=カツマタ君として「21世紀少年」の流れに沿った形で、さらにカツマタ君とフクベイが双子であったのではという仮説を提唱されています。なるほどなるほど、そうだとするといろいろ納得できるところが多々あったりもするわけで、とても面白かったです。
そんなこんなで私も大胆かついい加減な解釈を一言二言で試みてみます。以前にも書きましたがこの作品のモチーフは絶対Tレックスの「Twenty Century Boys」にあったのだと思います。このロックの名曲にインスパイアされながら少年時代を回顧し、そこからSF的に様々な空想科学的題材を取り込んで想像力を広げた作品だというのが結論。さてそれではお話的にはというと、もう強引に言わせてもらえば、これは20世紀末期にあってかっての少年時代を回顧しそこからさらに未来をでっち上げていくという意味でいうなら、これは最初から最後までヴァーチャル・リアリティ・ゲームとしての作品なのではないかということです。
20世紀末期のどこかで、中年オヤジであるかってのケンジだか、フクベイだか、カツマタ君がヴァーチャル・リアリティの中で自己の少年時代を再現し、そこから紡ぎだしていく捩れたヴァーチャルとしての近未来世界というものです。だからいびつなロボットが出てきたり、現実と妙に似通った宗教が出てきたり、伏線が伏線のまま回収されなかったり、ある意味なんでもありなわけです。またヴァーチャルの中でさらにヴァーチャル・ゲームに入り込むなんていうのも、夢の中で夢を観る様なもので、ある種の複層性みたいなことでしょう。
ゲームがゲームであるためにゲーム主体の都合により良くも悪くもむりやり整合性が求められたりもする、まあそういうようなお話ということでしょう。そんな風に考えつつこの作品を思い返してみると、けっこうこのゲーム世界、それなりの叙事詩みたいな風にも思えてきたりもします。
まあなんというか、たかがマンガ、されどマンガです。そしていろいろ考えていくにつれ、もう誰がともだちでも、結局カツマタ君がだれでも、どうでもよくなっていくような気もします。最後に頭の中に残るのはやっぱりマーク・ボランのかっこいいギターで始まるあのイントロでした。