「ゴッホ展」を観に行ってきた件(12月19日)

 もう一週間近く前になるのか。

 行こうか行くまいか、なんとなく逡巡していた東京都美術館ゴッホ展、閉幕間際の19日に行ってきた。チケット代2300円のところ学割で1300円。これって65歳以上1600円よりお得。たぶん学籍は卒業、中退にかかわらず来年の3月までなので、精一杯利用させてもらわないと。

ゴッホ展 公式ウェブサイト

 この企画展、大阪で夏に開催され、東京では21日に閉幕。次は1月から愛知へと巡回する予定だとか。

 ゴッホは日本では一番人気が高い。なので閉幕間際ということでウィークデイだけどけっこう混んでいた。チケットも日時指定予約になっていたし。

 本当にゴッホは人気がある。なんかこうゴッホかモネやっていれば、とりあえず集客できるのではないかと、そんな気もしないでもない。でもなんていうかこうゴッホは食傷気味というか。厚塗りのマチエールと歪んだ線、直情的な雰囲気ながら意外と色相環、補色関係を意識した筆触など、なんとなく判る。さらにいえばその後の表現主義などに多大な影響を与えたことなど美術史的にも重要な画家だとは思うのだけれど。

 オランダ時代の暗い色調、パリに出て印象派の洗礼を受けた明るい画風、さらに精神を病みながら、原色を使った激しい色調と歪んだ線。なにかパターン化されているような気もする。たぶんパリに行ってからのゴッホの作品に通底するのは浮世絵の影響かもしれないとも思ったりもする。日本かぶれのナビとかナビ派を揶揄するけれど、それはゴッホも同じかもしれない。なぜゴッホなそういう指摘から逃れていたかといえば、たぶん彼が生前ほとんど無名、売れていなかったからかもしれないと思ったりもする。

 今回の企画展ではファン・ゴッホ美術館所蔵のゴッホ作品が30点以上、その他に同美術館所蔵のマネ、ゴーギャン、ラトゥール、ピサロシニャックなどの作品も出展されている。それらはなかなかに見ごたえあるにはある。そういえばゴッホがその厚塗りの影響を受けたモンティセリも1点出ていた。

 しかしゴッホはなぜかくも厚塗りの作品を残したのか、画業はわずか10年足らずで2000点もの多作の人だったというが、それほどの作品を描くことができたのか。適当に思うのは、弟テオの支援が帰するところが大きかったのではないか。テオがパリの画廊に勤めていたこと、店を任される支店長的なポストにもついていたことなどから、兄ファン・ゴッホの経済面をサポートしていたことは有名である。ちなみに同じ画廊には一時期ファン・ゴッホも勤めていたが、たぶん使えない人だったらしく、自ら辞めたか辞めさせられたか。

 ゴッホが生前まったく絵が売れないのに、同時代の画家に比べて潤沢に絵具や画材を使えたのも多分テオが支援してくれたから。売れない画家は一度描いたキャンバスの上にさらに別の絵を描くなんてことはざらにあって、ピカソの青の時代にはそういう作品が多数あったりする。あとでレントゲンとかで分析されたりとかもしている。でもゴッホにはそんな作品例あまりきかない。

 売れない貧乏な画家なのに潤沢に絵具を使える、画材が使える、多作の秘密は出来のいい弟のおかげということだったのかもしれない。まあ適当に思っているだけだけど。

 今回の企画展「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」は、ファン・ゴッホ家のコレクションに焦点を当てた展覧会となっている。なのでテオにけっこうスポットライトが当たっているのかと思ったのだが、そういうことはなかった。テオはファン・ゴッホの死んだすぐ後、たしか半年くらいして病死してしまう。テオもまた精神病院で亡くなっているので、心も病んでいたのだろうか。

 今回の企画展の「家族がつないだ」は、テオの妻ヨー(ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲル)と息子のフィンセント・ウィレムに中心に紡がれている。ファン・ゴッホと夫のテオを相次いで失くしたヨーは、膨大なファン・ゴッホの作品を相続した。ヨーはゴッホの作品を散逸させることなく、作品を世に出すことに奔走する。そして死後10年を経過した1900年頃からじょじょにゴッホの作品は売れるようになる。ヨーの尽力で1905年にゴッホの回顧展がアムステルダムで開かれる。ゴッホ作品のコレクターとして有名なヘレーネ・クレラー=ミュラーゴッホの作品を始めて購入するのは1908年だとか聞いたことがある。

 要するにヨーはゴッホの多数の作品を二束三文で処分することなく、保存しじょじょに世に問うていったわけだ。そして20世紀の中頃までにはゴッホの作品は高値で取引されるようになる。そこからはヨーの息子フィンセント・ウィレムの出番のようで、彼はコレクションを散逸させないためにフィンセント・ファン・ゴッホ財団を設立し、美術館の開館に尽力する。その結果が世界でも有数のコレクションを誇るファン・ゴッホ美術館ということになる。

 当然、財団設立や美術館開館のためには大きな資金が必要になる。ウィレムは少しずつゴッホの作品を市場に出す。ロンドンのテートが所有する《ひまわり》などもその過程で売りさばいた作品のようだ。

 今回の企画展は、ファン・ゴッホ美術館のコレクションの展示とともに、ヨーとフィンセント・ウィレムの活動、作品の貸し出し、売り出し、手紙などの資料の整理と出版などにもスポットを当てている。

 たぶんヨーにとって義兄ファン・ゴッホはやっかい人物だったのかもしれないと、ふと思ったりもする。夫は兄のために多大なサポートを行い、兄の後を追うようにして亡くなってしまう。ちっとも作品が売れないやっかい兄。本来なら相続した作品を二束三文で処分——それは廃棄といっていいかもしれない——してもいいくらいだ。でもそうはしなかったところにある種の先見の明があったのかもしれない。結果としてその作品は天文学的な市場価値となったのだから。ある意味ファン・ゴッホの作品を総取りしたかのようなヨーだが、そこに価値を見出したところに意義があるのかもしれない。

 ファン・ゴッホはテオ以外にもオランダに兄弟もいた。もともと裕福な家の生まれだったという。でもファン・ゴッホの作品の恩恵はというと、ヨーとその息子だけが受け継いだ形である。たぶん表には出ないけど、いろんなことがあったのではないかと適当に思ったりもする。

 ファン・ゴッホにはテオ以外にも兄コルネリス、姉アンナ、妹のリザベスとウィルヘルミナがいたという。それぞれに家族がいただろう。ファン・ゴッホが亡くなったときには売れない絵描きであるファン・ゴッホの絵など誰も望まなかったのだろう。だからこそ兄と仲が良く、その生活のすべてをサポートしたテオとその妻が作品のすべてを相続したのだろう。全然売れないのだから。

 でもじょじょにその作品が売れ出してからは、たぶんいろんなことが変わってきたかもしれない。もちろんそのへんのことは今回の企画展ではまったく触れられていない。展覧会はあくまで美しい作品とそれにまつわる美談によって成立しているのだろうから。

 とりあえずファン・ゴッホとテオの死後、作品を相続したヨーは作品を散逸させることなく、また兄弟のあいだの膨大な手紙を整理して出版させる。我々が『ゴッホの手紙』を今読むことができるのは、まちがいなくヨーのおかげかもしれない。

 

 以下、気にいった作品をいくつか。

グラジオラスとエゾギクを生けた花瓶》 ファン・ゴッホ 1886年 油彩/カンヴァス ファン・ゴッホ美術館 

 

《木底の革靴》 ファン・ゴッホ 1889年 油彩/カンヴァス ファン・ゴッホ美術館

 

《種まく人》 ファン・ゴッホ 1888年 油彩/カンヴァス ファン・ゴッホ美術館

 ゴッホによるミレーへのオマージュ《種まく人》は、いろいろなバージョンがあるようだけど、この絵の構図は明らかに浮世絵を意識している。画面構成も斜めに大きな木は近像型構図風だし、なんとなく前景の木と種まく人、中景の青は畑?、そして背景の空と大きな太陽はどこか北斎の三ツ割の法を意識しているような気もする。

 

 

《浜辺の漁船、サント=マリー=ド=ラ=メールにて》 ファン・ゴッホ 1888年 
油彩/カンヴァス ファン・ゴッホ美術館

 浜辺に引き上げられた三隻のヨット、そして四隻のヨットという流れていくような構図、これも一見して浮世絵的な風景といっていいような。

 

《モンマルトルの菜園》 ファン・ゴッホ 1887年 油彩/カンヴァス
 ファン・ゴッホ美術館

 

《フェリシテ号の浮桟橋、アニエール》 ポール・シニャック 1886年 油彩/カンヴァス ファン・ゴッホ美術館

 シニャック1863年生まれなので、この頃は23歳くらい。この頃パリでゴッホと出会い、10歳年長のゴッホとも仲良くし、一緒に絵を描いたりしていたという。アルルの黄色い家での共同生活にも誘われたが断ったという話もあったとか。こういう絵を観ると早熟な才能を感じたりもする。