上原美術館に訪れるのは何回目になるのだろう。
試しに記録をめくってみると、どうも今回で7回目になるようだ。
2021年 7月、11月
2022年 4月、11月
2023年 3月、 6月
2021年に最初に訪れてから、年に2度ずつ来ていたのが、2023年以降途切れている。それ以降も伊豆には何度も来ているのだが、やっぱり下田は遠いからっていうことだろうか。
最初に訪れた時にはびっくりした。山に囲まれたなにもないところである。最寄り駅は伊豆急の稲梓駅だがここは無人駅。お隣の蓮台寺駅周辺の方は蓮台寺温泉があるから少しは栄えているけれど、どちらの駅からもけっこうな距離がある。タクシーとなるとおそらく下田駅からとなり、多分3000円以上かかる。完全に車がないと来れないところだ。
なぜこんななにもないところに美術館があるのか。これについては何度も書いたことだけど、この美術館は大正製薬の元会長であった上原正吉、小枝夫妻が私財を投じて建てられたことに所以する。そもそもの始まりは、永平寺の第76世貫首、秦慧玉禅師から約130体もの仏像を引き取って安置する施設を作って欲しいという相談を受けたことによるという。夫妻はそれに応えて、小枝夫人の生まれ故郷である稲梓の地に上原仏教美術館を開設した。
上原正吉というと、我々のような古い世代からすると、大正製薬の社長・会長というだけでなく、昭和の30年代から40年代にかけて、毎年発表される高額納税者の1位を続けられた人で、自民党の参議院議員でもあった人だ。
大企業のトップであり、大金持ちの代表選手みたいなイメージの人だったか。でも正吉氏自身は埼玉県の杉戸町の出身。甥っ子には参議院議長や埼玉県知事を歴任した土田義彦もいる。そういうことを調べると、何もこんなアクセスしにくい場所に美術館作らなくても、埼玉県に作ってくれればよかったのにと思うのは、まあ埼玉県民の小さなつぶやきである。わざわざ奥さんの生地である伊豆の田舎に美術館を作るとは、それだけ奥さんを大事にされていたということなのでしょう。
そして正吉、小枝夫妻の養子で、のちに後を継いで大正製薬の社長・会長を務めた上原昭二氏は、フランス近代絵画や日本の洋画のコレクターで、彼の集めた名画をもとに上原仏教美術館の隣に上原近代美術館が建てられた。この二館は2017年に併合して上原美術館となり、それぞれ仏教館、近代館となっている。
今回おおよそ2年半ぶりに訪れたが、相変わらず本当に周囲は山に囲まれ何もないところである。それでいて居心地の良い、美しい美術館である。


今回開かれていたのは近代館が「印象派をたのしむ 上原コレクションのちいさなまなざし」、仏教館が「伊豆のみほとけ」という二つの企画展で、10月4日から来年1月12日までとなっている。

油彩・カンヴァス

屋外制作、筆触分割、そういう技法面での印象派の代表選手は、アルフレッド・シスレーかもしれない。比較的裕福なイギリス人家庭に生まれながら、生前は絵の評価も低く、妻子を抱えながら貧しい生活の中で画業を続けた人でもある。それでいてその作品はピサロの作品とともに、そのすべてがこれぞ印象派とでもいうべき美しい風景画ばかりである。
モネやルノワールが印象派の技法を軽く超えてしまうような、天才的な色彩感覚、表現により、即興的に筆触分割、あるいは色彩のハーモニーを作り出すのに対して、シスレー常に時間、天候によって移ろう光の効果を、かたくなに同じ手法で描き続けた人なのではないかと思ったりもする。

シスレーとともに大いなる凡庸な印象派の代表選手であるカミーユ・ピサロ。当時、55歳のピサロはスーラら若い理論家たちの点描表現を取り入れ、新たな色彩の効果を試行錯誤していた。この作品は第8回印象派展で、スーラやシニャックと同じ展示室に飾られたという。

キャプションによればこの絵が描かれた頃、パトロンであったエルネスト・オシュデの破綻いより、モネは困窮した生活を送っていたという。病弱な妻カミーユは次男ミシェルを生んだ後に体調を崩す。モネは友人んい引っ越し費用を借りて、パリから50キロ離れたヴェトゥイユに移り住む。おそらく同時期にオシュデの家族もモネの家に来て、奇妙な共同生活が始まる。そしてこの年の9月に妻カミーユは32歳で亡くなる。
この絵は花が咲き乱れる春の風景のようだが、モネの生活や心理は暗鬱たる状況だった。それでもこうした美しい絵を描いてしまうところがモネの真骨頂といえるかもしれない。
残念ながらモネの絵と並ぶと、ピサロやシスレーの絵はなんとなく魅力が半減するような、色褪せたような感じがしてしまう。


おそらく上原美術館のモネ作品の中でも目玉的作品といえるかもしれない。これはモネがノルウェーを旅行中に描いた作品だ。わずか標高380mのコルサース山をの景色を気に入ったモネはさながら連作するように、異なる時間や天気の中で10数点描いたという。
キャプションの中でこの小さな山を、北斎の描いた富士山を思わせると家族宛ての手紙に綴ったという。
日本的な由縁ということでいえば、この絵は長くモネが手元に置いていたが、渡欧していた黒木三次夫妻がたびたびモネの家を訪れた際に、妻の黒木竹子がこの絵を気に入り譲って欲しいと願ったという。和服を来た竹子夫人は、日本びいきのモネのお気に入りで、孫娘のように可愛がっていて、竹子が望むならと譲ることになったという。アマン=ジャンが描いた黒木竹子の肖像画は、たしか西洋美術館にあったと記憶している。

ルノワールがまだ華やかな色彩表現を見せる以前の印象派的作品とでもいったらいいだろうか。この頃、ルノワールはマネとともに二人で屋外制作を続けていた。上原昭二はこの絵を1980年代に入手したのだが、ほぼ同じ構図でこの橋を描いたモネの作品があり、それが2008年に世界的オークションに出品されていて、上原は入手を検討していたという。しかしその作品は最終的に43億円と、当時の最高額で落札され、上原は入手を断念したのだという。
その逸話はコレクターである以前に堅実な経営者であった上原の性格を想起させる。でも伊豆下田の山奥の美術館に、モネとルノワールが同時期に同じ題材、同じ構図で描いた印象派を代表する作品が展示されている。そんな夢のような話をちょっとだけ想像するのも楽しい。

これは初めて観る作品だ。上原美術館、ルソーも持っていたのかと、そんなちょっとした驚きもあった。この作品は長く藤田嗣治が愛蔵していて、藤田没後に藤田の夫人が「この作品を大切にする人に譲りたい」という遺志を残していて、上原昭二が引き継いだという。

セーヌ川沿いの町アニエールの川に浮かべた洗濯船を描いたシニャックは、当時まだ18歳。画家自身の作品記録では第1号の番号が付されている初期作品である。
シニャックは当時印象派、特にモネの作品に傾倒し、印象派的な作品を描いていた。数年後にはスーラと出会い、色彩理論を駆使した点描画を描くようになるのだが、それ以前の印象派的作品。美しい色彩感覚にあふれたこの絵が、シニャックの非凡な才能を感じさせもする。
今回の企画展での展示はなかったが、上原美術館には同じアニエールの洗濯船を描いたファン・ゴッホの作品も所蔵している。ゴッホは1853年生まれでシニャックよりも10歳年長だが、この二人は仲が良かったようで、アニエールの地で一緒に屋外制作もしているという。
一説によればゴッホはアルルの黄色い家での共同生活にシニャックも誘ったようだが、シニャックは断ったという。それでも耳切りの事件の後、シニャックはゴッホを見舞っているという。

マルケは上原昭二のお気に入りの画家の一人だったという。マルケは20代の頃からポン・ヌフの近くにあるアパートを借りてその風景を描いた。50代の頃に、ポン・ヌフの近くを歩いているときに建築中の建物を目にして、六階の一室をすぐに買ったという。しかし第二次世界大戦がはじまると、マルケはパリを離れ、妻の故郷であるアルジェで過ごした。
戦争が終わると真っ先にポン・ヌフ近くの部屋に戻り、ポン・ヌフとセーヌ河の景色を眺めて暮らした。1947年、体調を崩したマルケは最後の力を振り絞ってこの絵を描いた。おそらく絶筆の一つとされているという。

牛島憲之というと府中市美術館に多数の作品があるのを思い出す。静的な雰囲気の良い、親しみやすい絵が多い。上原美術館で牛島の作品を観るというのもちょっとした驚きかもしれない。この絵は牛島が85歳の時のもので、伊豆下田の風景を描いたものだ。
上原昭二はもともと牛島の絵には興味がなかったが、送られてきた案内状の表紙にあったこの絵に目が留まった。それは上原の母と妻の故郷である下田の風景だった。上原は87歳にして初めて牛島憲之が82歳の時に描いたこの絵を入手した。
上原昭二は1927年生まれの97歳、存命だ。



仏教館
上原美術館仏教館は、前述したように永平寺が譲られた約130体の仏像を中心にコレクションしている。しかしそれ以外にも伊豆の各地の寺社に収蔵された仏像を調査し、これをコレクションに加えたり、また寄託されて所蔵している。伊豆は源頼朝が幽閉されていたことや、頼朝を支援した豪族たちも多く、平安時代末期から鎌倉時代にかけて制作された仏像を行くたびに観ることができる。
ある意味、仏像に親しみ、学習するならここみたいな部分もある。本当は半日くらいここで過ごしてみたいと、そんなことを思ったりもしばしばだ。一方で、旅先での限られた時間という制約の中での鑑賞で、いつもなんとなく心残りに思ったりもすることもある。
蓮台寺温泉あたりで安く泊まれて、一泊二日の上原美術館鑑賞ツアーみたいなものがあったらどうかなどと、ちょっとだけ思ったりもする。
もっとも人生の第四コーナーにさしかかった自分は、あと何度この美術館に足を運ぶことができるだろうかと、そんな淋しい思いを抱いたりもしている。




