川越について
友人と川越で会った。
いつもは友人の住む街で会うことが多いのだが、今回は彼のリクエストで川越を散策することになった。
川越は埼玉でも最も有名な観光名所の一つかもしれない。おそらく秩父と川越が知名度、集客という点でも群を抜いているのかもしれない。もっとも埼玉は魅力度ランキング最下位の県なので、そこでの一位とか二位とかになにかの意味があるのかどうか。
自分にとっての川越というと、まあ隣町みたいな感覚ではある。小江戸とか蔵造りの街並みといってもあまりピンとくるものでもないのだが、それでも何度か妻と遊びに来ているし、喜多院、氷川神社、時の鐘といった名所ももちろん行ったことがある。土日などは、蔵造りの街並みの賑わいの凄さも知っている。
世紀が変わる前後だったか、あるいはもっと以前、バブル期だったか、作家の矢作俊彦が鎌倉に住んでいて、観光客の多さに辟易していることを、何度かエッセイにしていたような記憶がある。横浜生まれで、文士よろしく鎌倉に住んだこの男は、土日に大量に押し寄せる観光客を、埼玉や千葉からやってくるイモと称していた。
それでは鎌倉に住む人々はどうしているのか。土日は家に籠っているのか。矢作にいわせると、品の良い鎌倉の人々は土日になると埼玉の川越に観光に行っているらしいとのことだった。そういうものだ。
ということで当時の川越は、品の良い鎌倉や湘南、横浜の山の手の人々が訪れる地であったと。もっとも大ぼら吹きの矢作のことだから、この話は眉につばつけて拝聴するような、単なるギャグなんだろうとは思う。
今は川越よりもさらに北のディープ埼玉住まいであり、ある意味川越は近隣の都会の地ではある。でもかって横浜に住んでいる頃は、川越という地名を聞いてもまったく何もイメージできなかった。子どもの頃、祖母の幼馴染のおばさんが、川越に住んでいたらしく、我々はみなその人を「川越のおばさん」と呼んでいた。でも、川越がどこにあるかはまったく判らなかった。
横浜に住んでいた頃、川越というか埼玉はまったくイメージできない土地だった。東京の先というのが本当に判らなかった。今でいうと、栃木や群馬、茨城と同じようなイメージだった。なので川越のさらにその先に今住んでいるというのは、なんともやれやれというところでもある。
まあ今は、日本全国どこへ行っても、幹線道路沿いには同じようなファミレスがあり、同じようなスーパーやショッピングモールがある。どこに住んでも同じかもしれない。
友人は川越が初めてだというので、とりあえずオーソドックスな観光コースを巡った。たぶん普通の観光客は、バスなどを使うのだろうが、自分はたいてい歩く。友人も歩くのは苦手ではないというので、「今日は歩くよ」とだけ言ってブラブラと回ることにした。
まず本川越あたりから喜多院、東照宮などを巡る。それから川越城跡、市立美術館、小江戸蔵造りなどなど。
喜多院と仙波東照宮
本川越からサンロード商店街を突っ切って、しばらく住宅街を歩くと左手に鬱蒼と気木々に囲まれた一角がある。そのへんが喜多院と仙波東照宮の裏手になる。まず喜多院の境内に入ると、ほぼ地続きで東照宮に行けるのだが、なにか依然と勝手が違う。仮設の店舗みたいなものがあるのだが、それが閉まっている。中をのぞくと菊がところどころにある。あとで調べると菊まつりが開かれていて、それが前日の23日で終了したところなのだと。
その仮設の菊かざりのテント(?)の周りを回って、まずは仙波東照宮へ。ここは日光、久能山とともに日本三大東照宮の一つとされている。でも調べると新城にある風来山東照宮を三大東照宮の一つとする説も有力である。とりあえず日光、久能山は別格として、もう一つについてはあくまで自称なのかもしれない。まあどうでもいい話だ。
そういえば昔、関東の厄除け三大師(川崎、西新井、観福寺)に対して、佐野厄除け大師が中心になって、佐野、青柳、川越を関東三大師と言い始め、CMなどを積極的にうって強引に定着させたという話もある。まあ宗教もいろいろだ。


徳川家とつながりの深かった天海僧正が27代住職となり喜多院と改称し、徳川家の庇護のもとで大きく栄えた。1638年の川越大火で伽藍が消失したが、三代将軍徳川家光の命により、江戸城の一部が移築されたという。現在でも客殿・書院・庫裏などにあたる部分がそれで、家光の誕生の間、春日局の化粧の間などが閲覧できる。
客殿から観ることができる日本庭園が見事である。枯山水の回遊式庭園で遠州流とされている。これは客殿の部屋から庭を眺めることを意図して造られた庭園で、遠州流の始祖は茶人で作庭家としては作治奉行も務めた。喜多院の庭園は直接小堀遠州が作庭したものではないがその流れにあるようだ。
時期的にはちょうど紅葉が見事で、多分訪れるには一番いい頃あいだった。






川越城
かっての川越城址のあとで、現存するのは本丸御殿の一部であり、いわゆる城郭ではなく、大きな武家屋敷みたいな感じである。さらに二の丸跡は博物館と美術館のあるあたり、三の丸跡は川越高校がある。友人にいわせると、各地の城の址には学校が建っているところが多いのだとか。いわれてみれば、大学なども城址の中にキャンパスがあるところもある。
友人は博学で歴史とかにも造詣が深い。けっこう話をしていても教えられることも多く、けっこう有難い。川越城址のあたりの町名は「郭町(くるわまち)」というのだが、自分は「くるわ」というと何か遊郭を連想するみたいな話をしたのだが、友人に言わせると城郭があった一帯の町ということで、「郭町」としたのだろうと。友人に言わせると、そのあたりには高い建物もないので景観が保たれている。おそらく史跡があるため、開発にも規制があるのだろうとも。話を聞いていると目から鱗みたいな話が、馬鹿話の間にちょいちょい挟み込まれていて、自分にとっては有益。まあそれだけ自分は無学だということなんだけど。

川越城本丸内部からの庭の眺め。喜多院のようにきちんと作庭されていないが、部屋からの眺めはなんとなく良い雰囲気。部屋からの延長上に外部に広がる空間みたいなものは、やはり意図されているのだろう。この手の日本間をローアングルから撮るのを、適当に小津撮りとは、今思いついた。

川越市立美術館
川越にはヤオコー美術館、山崎美術館などがある。ヤオコー美術館は三栖右嗣の作品のみが展示されている。山崎美術館は老舗和菓子の亀屋が蔵造り街並みの店舗の裏に併設していて、橋下雅邦の作品だけを展示している。なんでも川越藩の御用絵師でもあった橋本雅邦を川越の旦那衆たちが、スポンサーとなって画業を支えていた時期があるのだそうな。その名残りで川越の旧家には雅邦の作品が多く残っているのだとか。
そんななか、川越市立美術館川越城址二の丸跡にある美術館で博物館と隣り合わせになっている。これまでも何度か企画展、常設展に訪れている。川越出身の画家の作品を多く収蔵しており、特に洋画家相原求一朗についてはその作品を記念室として常設展示している。
今回は企画展として勝田蕉琴の回顧展が開かれていた。

勝田蕉琴については初めて名前を知る人で、福島県出身で橋本雅邦に師事したあと東京美術学校に学び、卒業後岡倉天心の勧めでインドに渡り、現地で日本画を教えたのだとか。さらにインド滞在中には詩聖タゴールとも親交を深めた。帰国後は主に文展、帝展を中心に活躍し、画壇の重鎮として知られたという。
といっても、今ではもう忘れられた画家の一人なのかもしれない。でも展示された作品群はどれも素晴らしく、画力抜群という感じがする。こうした画家が忘れられてしまうのはなぜなんだろうかと、少しだけ思ったりもする。
おそらく日本美術史において、日本画というジャンルがある特定の画家やグループ、さらには東京美術学校の教授たちなどを中心に語られることが多いせいなのかもしれない。


展示品のなかに蕉琴と親交のあった若き日のタゴールの写真もあった。彫の深いイケメンではないかと思ったりもした。

小江戸・蔵造りの街並み
美術館の後は小江戸・蔵造りの街並みをぶらぶらと歩いた。菓子屋横丁、蔵造りの街並みから大正浪漫通り、熊野神社などを散策。

最後に土産物屋が集まった川越市産業観光館小江戸蔵里でワンコインで三杯日本酒を試飲できるスペースで軽く喉を潤わせ、最後はサンロード商店街の安い居酒屋で飲んだ。ジイさん二人のこういうグダグダ、ダラダラ観光もたまにはいいかもしれない。友人曰く、「川越はいいところだし、面白かったけど、次はもういいかな」だそうな。まあそれは同感だ。それでも次回は奥さんを連れて来たいとも。まあそういうところだな。春は桜の季節だと今回は行かなかったが、氷川神社裏の新河岸川沿いの桜並木が美しいし、たしか喜多院も桜が良かったか。
ということで川越周遊は無事終了。だいたい10キロちょっと歩いたようでした。
