
もう半月以上も前になるけど、西洋美術館で開かれているオルセー美術館所蔵「印象派 室内をめぐる物語」展の感想を少しだけまとめる。
印象派のコレクションで有名なオルセー美術館所蔵品による印象派展というと、記憶をたどると確か2014年に国立新美術館で「オルセー美術館展 印象派の誕生 ―描くことの自由」という企画展が行われていた。
オルセー美術館展 印象派の誕生 ―描くことの自由― | 企画展 | 国立新美術館 THE NATIONAL ART CENTER, TOKYO
この企画展はオーソドックスな印象派の展覧会で風景画を中心に、室内画も多数あったし、印象派以前のアカデミズムやバルビゾン派の自然主義などの作品も多数展示されていた。そのうえでメインの画家としては、マネにスポットライトをあてていたような気がした。
ちょうど美術館巡りを始めたばかりの頃で、徳島の大塚国際美術館で観た複製画のオリジナルが多数日本に来たということで、二回続けて観に行ったような記憶がある。
そして今回の企画展はというと、テーマとしては印象派の画家たちによる室内画というのがメインになっていて、目玉となる作品はドガの《家族の肖像》だという。これは初来日だとか。

オルセー美術館蔵
婦人と子どもたちのおりなす三角形の構図は、印象派というよりもアカデミズムのそれっぽい。西洋美術館蔵で、今回出展されていたが、レオン・ボナとかカルロス・デュランの肖像画みたいな感じ。さらにいうと婦人や子どもの無表情、なんかオランダの人物群像画などを突き抜けて、どこか北方ルネサンス的みたいな雰囲気さえも感じる。右側の椅子に座った男性(父親?)の描き方とはまったく異なるような雰囲気。左の少女(姉?)、母親の生気のない雰囲気、中央の少女(妹?)は近代的というかイギリスの肖像画のようであり、さらに右側の父親は当時的には同時代的な描き方のように感じられる。なにか人物画の様式を一枚の絵の中で描き分けているような感じさえする。当然、統一感のないなんとも不思議な絵だ。
そもそもドガって印象派の画家なのかというと、そこにも微妙さがある。この人はデッサン、素描を重視し、印象派的な即興性、いわゆる光に映ろう風景とかそういうものとは無縁の人だったようだし。
図録の冒頭にある小論「印象派と室内」によれば、ドガは戸外制作をほとんど行わず、人口照明の効果を追求し、アトリエでの入念な仕事を重視したという。たぶんこの人は、屋外でのデッサンをもとにアトリエできっちり、重厚に仕上げていく人だったようだ。
そもそもドガは1834年生まれで、印象派の代表的な画家であるモネやルノワールとは6~7歳も年長である。逆に印象派の兄貴分みたいな存在で、印象派展には一度も出品しないマネより2歳下。明らかに年長組だったということになる。
もっとも印象派の実質的なリーダー格であるピサロは1832年生まれでマネよりもさらに2歳上。モネ、ルノワールよりも約10歳も年長であった。それでいて1959年生まれと、自分の息子のような年齢のスーラらから点描画法を学ぶとか、そういう新しいものを取り入れる若さみたいなものもあった。でも、これはピサロが新取の気性だったということではなく、どうしたら印象主義の筆触分割の効果をよりよく表現できるという試行錯誤の一つだったのかもしれない。
ピサロは同じ画家でイギリスで出版社を開いた息子に対して、モネやルノワールが高い評価を得て、絵が売れるのに対して、自分やシスレーがさっぱり評価されないことを愚痴るような手紙を書いている。モネやルノワールは天才的な色彩感覚をもとにキャンバス上で即興的に見事な色合いを表現できる。モネの筆触分割は、理論よりも感性によるものだ。でも、凡庸な画家ピサロはそれを理論で構築せざるを得ない。それが自分よりも30近い若いシスレーらの理論を取り入れざるを得なかったのかと思ったり。
まあこれは適当に思いつきかつ、今回の企画展とはあまり関係のない話だ。
今回の企画展「印象派ー室内をめぐる物語」は、図録によると「これまで見過ごされがちであった印象派による室内の表象」やさらに印象派の画家たちによる室内装飾などにスポットライトをあて、「印象派の多様性を浮かびあがらせる」ことにあるという。
それでは従来的な印象派のイメージはといえば、まずは風景画への革新的なアプローチ、「戸外で制作され、移ろいゆく光や大気の効果をとらえた作品」によるというものだ。その方法論としては絵具をまぜない、原色のままキャンバスに置いていく筆触分割が代表的な技法となる。でも印象派の画家がすべて同じ手法だったかといえば、もちろん違う。
印象派の画家たちは、無審査の印象派展を8度にわたって開き、まとまりのあるグループを形成したが、それぞれの独自性は保持されていた。印象派展に参加しても、ドガはまったく異なるアプローチだったのは前述のとおりだ。
ルノワールは1890年前後には印象派の技法とは異なるアプローチや古典主義に回帰しているし、モネは白内障の悪化とともに抽象主義の萌芽ともいうべき作品群を描いている。
たぶん印象主義の様式(そういうものがあるとすれば)を保持し続けたのは、ピサロとシスレーだったかもしれない。そして彼らの絵は同時代的にはあまり評価されなかった。
図録の冒頭の一文、「印象派と室内」(袴田紘代、アンヌ・ロビンス)は、印象派による室内画へのアプローチとして、まず社会史や文化的背景について論考を行う。
19世紀後半のフランスにおいて、家族や個人が暮らすプライベートな空間としての「家庭」がいかにして生まれたのか。それはまず第二帝政期末期の県知事オスマンによるパリ大改造を端緒としている。オスマンによるパリの改造により、それまで労働者階級に暮らしていた衛生環境の悪い狭い路地は切り開かれ、大通りが街を貫通した。
20年足らずの間に新街路約200kmが建設され、古い家屋約2万戸が取り壊されて、新たに3万4千戸が建設されたという。こうした都市化、近代化の中で、住民たちは疲弊し、疎外されていく。その中で余暇や休息を求める場所として、公共空間での外部の軋轢から避難する場所としてのプライベートな空間として「家庭」という領域が生まれた。
そうした背景の中で、家庭という私的空間がどのように表象されていったかをトレースするということらしい。
さらにこの小論の中では、たとえば女流画家たち——モリゾやカサットら——は男性画家のように戸外で自由に制作できなかったため、室内と戸外の「あわい」に配された、バルコニーやテラス、窓辺といった舞台設定での制作が行われたという。いわれてみればモリゾの作品には、そういう作品が多いし、カサットには室内での母子を主題とした作品が多数ある。それらは男性よりも制限された存在であった女流画家という、ある主のジェンダー的な分析がほどこされていて、これもちょっと興味深いところがあった。
このへんで印象派=印象主義についてちょっとだけおさらいする。手持ちの用語辞典によればこんな感じである。
印象主義(Impressionnisme)
1870年頃に始まる、パリの画家グループ。1874年に共同出資会社を設立して無審査の展覧会を開催した際の、クロード・モネの出品作《印象日の出》を揶揄した批評家ルイ・ルロワの造語に基づく名称。
主題としては市民階級のレジャーといった日常生活や風景を採り上げた。 技法の上では必ずしも共通のものではないが、色彩理論に基づいて絵具の混色をなるべく避け、画面にタッチを残す方法が典型的なものとみなされる。
再現性の否定、色彩とマティエールの独立など、その後の近代美術に大きな影響を与えることになる。主な画家にオーギュスト・ルノワール、エドガー・ドガ、カミーユ・ピサロ、アルフレッド・シスレー、ベルト・モリゾ、メアリー・カサットなどがおり、ポール・セザンヌを始めとするポスト印象主義の画家たちもここから出発した。『岩波西洋美術用語辞典』
アカデミズムのサロンで落選を続けた若い画家グループが共同出資会社を設立して、無審査で展覧会を開催する。もちろん絵を売るためである。とはいえ、彼らのいはゆる印象派展の入場者は数千人レベル、それに対してサロンには数十万人が訪れる。そういう時代だったようだ。そういう点でいえば、モネに代表されるような移ろう光や大気の流れの表現、シスレーやピサロによる筆触分割による風景画がすべてではなく、共同出資会社に集った画家たちの総称が印象派ということになるのだろう。
故にデッサンを重視したドガも印象派の一人とされる。印象派の兄貴分とされるが、一度も印象派展に参加しなかったマネですら、大きくはそのグループの一人とされる。今回も多数作品が出展されていて、印象派の画家と親しくその周辺にいたが、画風的には写実主義、象徴主義的でもある花卉画のファンタン=ラ・トゥールも印象派の一人としてカウントされることが多い。
要は印象派とその周辺の画家、同時代の画家による室内画作品というのが、今回の企画展といえるのかもしれない。そうまるっと印象派的に括られるが、筆触分割された風景画、いわゆる印象派の代表的技法による作品はほとんどない、そういう展覧会ということだ。
そのうえでオルセー所蔵品ということでいえば、多くの作品が以前に来日している。それこそ11年前の国立新美術館のオルセー展で見た作品も多い。若くして普仏戦争で亡くなったバージルの作品などもその時に観ている。

ルノワールの代表作の一つ。本展のチラシや図録もドガの《家族の肖像》とこのルノワールの作品の二通りがあった。本作についてはかって高階秀爾の名著『続名画を見る眼』の中で詳しい作品解説があった。それこそ作品鑑賞の見本のような文章とともにモノクロの図像が掲載されていた。いつかオリジナルを観てみたいものだとは思ったものだ。そして実作を観たのは2016年、やはり国立新美術館で開かれたルノワールの回顧展だったか。あの回顧展は、《ピアノを弾く少女たち》、《ムーランギャレット》、《都会のダンス》、《田舎のダンス》といった代表作が勢ぞろいしていた。
さらにこの《ピアノを弾く少女たち》にはいくつかのヴァージョンがあり、たしか横浜美術館で開かれたオランジュリー美術館所蔵展でその一つを観ている。でも完成度の高さという点では、やはりオルセー所蔵の本作のほうが上だと思ったりもする。
高階秀爾の解説では、色彩のハーモニーと画面から音楽が聴こえて来そうな音楽的諧調の思わせる画面と語られていた。自分はというと音楽的諧調よりもルノワールの色彩感覚とその天才的な色彩表現にただただ感服するだけだ。印象派の画家の中で、ルノワールとモネはその色彩感覚において際立った表現力があるとは常々思っている。しかもこの二人は、それを色相環に基づく補色を計算して配置するような理屈ではなく、おそらく天才的な感性なままに表現している。そんな気がする。
ピサロがなぜモネやルノワールが評価され、自分やシスレーが評価されない(売れない)と嘆いた理由がまさしくそれだと思う。ピサロやシスレーの絵もまた美しいが、どこか凡庸である。それに対してモネ、ルノワールは天才的色彩感覚を持っていて、ある種即興的にキャンバス上で表現してみせてくれると。まあいつもの適当な思いつきではあるのだが。
《ピアノを弾く少女たち》を部分的にクローズアップしてみると、その色彩のハーモニーが際立ちを確認できる。なにかこう続々とした感じがする。



北九州市立美術館蔵
ピアノを弾くマネ夫人とその後ろでソファにもたれ、くつろいでいるマネ。ただマネ夫人の半身とピアノの部分が無残に切り落とされてキャンバスがむき出しになっている。この絵の経緯については、図録にこのような解説が載っている。
当初ドガはこの絵画をマネ夫妻に贈り、返礼としてマネから小さな静物画を受け取った。だが、シュザンヌ(マネ夫人)の顔の描写が気に入らなかったマネは、カンヴァスの一部を切り取ってしまう。切断された作品を目にしたドガはひどく傷つき、これを持ち帰ってマネから送られた静物画を送り返したのだった。
マネとドガは2歳違いで、共に上流階級の出身で仲がひじょうに良かったという。この絵の切断という事件のあとで二人の仲が壊れたかというと、そうでもなくて、ドガはその後もマネの絵をコレクションし続けたという。芸術家同士の関係は複雑だ。
マネ夫人シュザンヌはピアノの名手だったようで、マネ自身も彼女がピアノを弾く姿を描いている。

オルセー美術館蔵

オルセー美術館蔵
このデュブール家とは、ラトゥールの妻であるヴィクトリア・デュブールの家族である。左から妹のシャルロット、母親、母親の肩に手を置いているのがヴィクトリア、そして彼女の父親という順である。ラトゥールは美しい花卉画で有名だが、こうした集団肖像画も得意としていた。

油彩/カンヴァス オルセー美術館蔵
そしてこちらが妻ヴィクトリアの肖像画。ヴィクトリアはモデルになるだけでなく、自らも絵を描いていて、特にラトゥールの花卉画に似せた絵を多数描いている。西洋美術館の常設展示でも、二人の作品が同じ部屋で展示してあったのを何度も観ている。

オルセー美術館蔵
ゴーディベール夫人はルアーブル時代のモネの支援者だという。この作品も11年前のオルセー展にも来ていた。モネがまだ19歳だったカミーユを描いた《緑色のドレス》(ブレーメン美術館蔵)と同系統の女性のドレス姿の全身像を描いた作品。モネはアカデミズム的テイストのオーソドックスな作品も描くことができる人だったと、改めて思ったりもする。

印象派美術館(ジヴェルニー)
装飾性の高い作品である。右下の空白部分は、画家が作品の出来が気に入らずに切り取った・・・・・・、ではなく、画家の死による未完の作品ということらしい。上流階級の出身で、自ら絵を描きながら、印象派グループの画家たちの作品を買い上げて支援し続けた人でもある。そして1894年に45歳の若さで急逝した。死後、その印象派コレクションは本人の遺言により国家に遺贈され、遺言執行人にはルノワールが指名されたという。
ただしアカデミズムの画家たちからは、印象派作品の国家への遺贈に反対するものも多く、コレクションの一部が遺贈されリュクサンブール美術館に所蔵されたという。