
一部で話題になっていた東京国立近代美術館(以下東近美)で開催されている「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」展を観てきた。一部の話題、SNSでも観た方の感想などを何度も見ていた。数少ない友人たちからも、「行ったか」、「行ったぞ」、「凄いぞ」といった感想も聞いていた。とにかく「凄いらしい」。そして開催は10月26日までである。とにかく行かねばということで。
一方で、この展覧会はこのタイトルだけではいったいどんな展覧会なのかが、はっきりとしない。しかもそのメインとしてあげられているのだが、なぜか松本竣介の《並木道》なのだ。

「記憶をひらく 記憶をつむぐ」というタイトルでこの松本竣介である。いったいどんな企画展なのかが判らない。意味不明という突っ込みをかませたいような企画展なのである。
どうも「戦争」を主題とした展覧会らしい。しかも東近美で所蔵している戦争画(作戦記録画)をメインにしたものなのだ。
この企画展にはカタログ、チラシといった資料がない。その理由はのちほど書くが、報道関係向けの媒体資料すらない。小さなミニ企画展であるなら、それはそれでいいかもしれない。しかし所蔵コレクションを中心としながら、展示作品、資料はかなり多い、そして個々の作品の解説キャプションやパネル化した文字情報もかなり膨大である。とにかく情報量がめちゃくちゃ多い企画展なのである。それでいて図録が作られない。なのでパネル化された文字をそっくり引用してみたい。
ごあいさつ
「昭和100年」、「戦後80年」という節目の年となる2025年、美術を手がかりとして、1930年代から1970年代の時代と文化を振り返る展覧会を開催します。
当館のコレクションを中心に、他機関所蔵の作品・資料を加えて、絵画や写真や映画といった視覚的な表現が果たした「記録」という役割と、それらを事後に振り返りながら再構成されていく「記憶」の働きに注目しながら、過去を現在と未来につなげていく継承の方法を、美術館という記憶装置において考察するものです。
東京国立近代美術館は、戦時下の1930年代から1940年代の美術については、購入や寄贈によって収集した作品のほか、いわゆる「戦争記録画」を153点収蔵しています。これらは戦意昂揚と戦争の記録を目的に制作され、戦後アメリカに接収された後、1970年に「無期限貸与」という形で「返還」されたものです。本展では戦時中の作品に、戦争体験を想起させる戦後美術を加えて、美術が戦争をどのように伝えてきたかを検証します。
戦中にプロパガンダとして機能した戦争記録画の展示においては、戦時体制下で美術が担った社会的な役割を歴史的事実に基づいて見つめ直していきます。このような時の経験を時代や地域を超えて共有し、未来の平和に資する想像力を引き出すことを試みます。
戦後80年となる今年、戦争体験を持たない世代が、どのように過去に向き合うことができるかが問われています。それは他でもない、現在を生きる私たちの実践にかかっているといえるでしょう。これまで蓄積されてきた過去の記録に触れながら、それらをもとに新たな記憶を紡ぎだしていくこと。私たちは、美術館がこのような記憶を編む協働の場になることができると考えています。
なお、本展に展示される作品や資料の中には、今日の社会通念や人権意識に照らして不適切な表現を含むものがありますが、時の時代背景を伝える歴史資料としての意義を重視し、改変や削除などは施さずに紹介しています。
最後になりますが、本展開催にあたり、貴重な作品・資料をご出くださいました美術館、博物館、所蔵家の皆さま、ならびにご協力いただきました関係各位に深く感謝申し上げます。
おわりに
本展覧会では、当館が保管する戦争記録画を、どのように次世代に継承すべきかがひとつのテーマとなりました。最大の課題は、すでに終戦から80年が経過し、戦争体験者がますます少なくなる中で、戦時下の文化が置かれていた社会的・政治的な文脈が共有されにくくなっていることです。本展が明らかにしたように、美術を含む視覚的な表現は、決して他のメディアから自立していたわけではなく、同時代に流通していた言説に密接にかかわるものでした。
本展は、「戦争を知らない」世代が、実体験者と異なる視点で過去に向き合うことを積極的に考える機会でもありました。美術や文学などの芸術が虚構を交えて構成する戦争表象を、ジャンル間の比較や大衆文化との関係も含めて俯瞰できる視座を持つこと、さらに、時代や地域を超えた戦争経験との比較考察ができる視点を持つことは、戦争の記憶の継承にとって大きな可能性となるのではないでしょうか。
この展覧会で見てきたように、芸術は過去に、人々を戦争へと駆り立てる役割を果たしました。人々の心を動かす芸術の力の両義性を理解したうえで、未来の平和に向けた想像力に繋げていくために、今後も館が収蔵する戦争記録画をはじめとする作品は貴重な記録として存在し続けるのです。
東近美が戦争記録画を所蔵していることはもちろん知っている。常設コーナーでも一室をさいて、常時5~10点程度展示している。それらがアメリカに接収され、70年代に無期限貸与という形で返還したことも何かで読んだことがある。しかしその総点数が153点になることや、これまでにまとめて展示されるような大規模な展覧会が開かれたことがないこと、その全貌についてはいまだ公開されたことがないことなどを始めて知った。
そして本展覧会がまちがいなく、戦後80年という節目の年に企画展であることは明らかだ。それでいて「戦争」の文字も「戦争画」、「戦争記録画」という出品作品のジャンルも明示されない展覧会になっているのはなぜなのか。
そのへんについては「TOKYO ART BEAT」のこの記事が詳しい。
そうなのである。記事にあるように、この展覧会は「ひっそり」開催されているのである。その理由について記事では、東近美に質問状を送り、その回答が記事の中心となっている。
質問内容はまずチラシやポスター、カタログ、告知リリースがなく、内覧会も開催されないのが「ひっそり」感の原因だが、なぜそうなったのか。そして展覧会タイトルに「戦争」の文字がないのは、展示内容と乖離しているのではないかということ。さらに作戦記録画は戦後長くタブー視されているが、今もそうなのかどうかということだ。
これに対して東近美の回答は、チラシやカタログが作られなかったのは「ひとえに予算の都合」なのだという。そして当初はメディアとの共催を準備したが、本展を「センセーショナルなものにすることは美術館の本意ではない」として、自主展に切り替えたのだという。
さらに借用作品の輸送費捻出や、すべての解説をバリンガル(日英)にするため「チラシとカタログに予算を割くことを断念した」という。
展覧会のタイトルに関しては、戦争記録画を客観的に分析し、これを次世代に継承していく場とすること第一に企画したこと、また「戦争画展」と銘打つことで、保管する153点すべての作戦記録画を一括公開されるような誤解を受けたくないという思いがあった。
戦争記録画のタブー視については、もしそれがあるとしたらこの企画展が実現していない。しかし一方で戦争に関係した諸外国に対しての配慮が必要であることも事実という認識があるという。
これに対して記事の筆者は、7つの国立館が所属する独立行政法人国立美術館への国の運営交付金が年々減少傾向にあり、各館の財政的厳しさが指摘されているという前提のうえで、展示作品の写真、解説、関連資料、論考を掲載する展覧会カタログが作成されなかったのは、後世に記録を残せない憂慮される事態としていた。
本記事では返還後の作戦記録画の様々な展示経緯を紹介している。それについても引用していく。
作戦記録画の展示経緯
- 敗戦後、GHQに接収された153点の作戦記録画は、東京都美術館に保管されたが、展示スペースを圧迫したため保管場所の問題が浮上。
- 1951年に米軍の戦利品として米国に送られ、米軍施設に保管された。
- 1961年以降、朝日新聞や一部政治家を中心に変換要求の動きが相次ぎ、日米政府間交渉の結果、法的権利は米軍に残し日本側に自由な扱いを許す「無期限貸与」の名目で1970年に変換された。
- 返還された作戦記録画は、東京国立近代美術館に一括収蔵され、状態の悪い作品は修復され、1977年に153点のうち代表的な50点の公開が計画されたが、開幕直前に中止された。その理由は、戦争賛美と誤解される懸念やアジア諸国に対する配慮と説明された。結果として1977年7月に4点が常設展に展示され、その後は一度に数点ずつ展示されてきている。
戦争記録画展示の消極的な公開姿勢
上述されたように近隣アジア諸国への配慮とともに、存命者も多かった画家への配慮もあったこと。戦争の賞揚や記録に寄与した戦争画は、戦後「負の遺産」に転じており、手掛けた画家の人生に大きな影響を与えていた。
特に責任糾弾の矢面に立った藤田嗣治は日本を去り、フランスに帰化したことはつとに有名。画家によっては、自作の画集への掲載や展示を拒み、口をつぐんだ作家も多く、戦争画はタブー視されていった。
戦後70年の2015年に戦争画14点を含む藤田嗣治の全所蔵作品の特別展示が実現した。公開拡大の理由は、戦争画に対する関心の高まりや、関係者の大半が亡くなっていたことなどにあるという。
こうした経緯をまとめながら、記事は今回の企画展の消極性をいつまで経っても作品自体の全貌が見えないことと、なぜ公開に慎重なのかという問いで終わらせている。
これに対して本企画展はどう応えているのか。章立ては以下のようになっている。
1.絵画は何を伝えたか
2.アジアへの/からのまなざし
2-1 朝鮮・満州観光のまなざし
2-2 満州の田園風景の虚実
2-3 五族協和のスローガン
2-4 満州・中国観光と戦争
2-5 行軍の情景
2-6 空爆の視点
2-7 「思想戦」と美術
2-8 大東亜共栄圏の夢
3.戦場のスペクタクル
4.神話の生成
4-1 紀元二千六百年、建国の神話
4-2 12月8日という記念碑
4-3 玉砕の神話
4-4 「肉弾」・特攻の原型
5.日常の中の戦争
5-1 女流美術家公隊
5-2 総力戦と国民の生活
5-3 前線と銃後の境がなくなるとき
5-4 空襲のイメージ 地上の視点から
6.身体の記憶
7.よみがえる過去との対話
8.記録をひらく
そのうえでとにかく情報量が多い。公開された戦争記録画は東近美で所蔵する153点のうち24点にとどまるが、関連作品、他館からの借用作品、資料などを含めて280点にものぼる。作品の解説キャプション、章立ての解説キャプションなど文字情報も多く、解説を読み、それを受容するだけでもかなりの労力が必要だ。これで図録、カタログが作られないというのは、やはり問題だ。これは単なる予算の問題なのだろうか。
協賛等による予算の捻出という点でいえば、もちかけた企業に断られたということもあるのだろうか。戦中にこうした作戦記録画の展覧会聖戦美術展を開催した朝日新聞は、戦争記録画の米国からの返還にも声をあげていたという。今回、この企画展の協賛を打診されても断っただろうか。朝日以外でも、読売や産経は戦争記録画に批判的な内容であればおそらく二の足を踏むかもしれない。でも毎日や東京新聞あたりなら、別の対応もあったかもしれない。今年は戦後80年の節目の年である。
いったい何があったのだろう。
想像するのは、この国の現在の状況、急速に右傾化する政治、社会情勢だ。かってなら太平洋戦争を批判的検証するというのは、ある種共通認識としてあったはずだ。そして戦争記録画を賛美するようなことに関しては、近隣アジア諸国への配慮以前、軍国主義への批判的視座として、これを戒めるような思想的共通認識もあった。
しかし今の政治・社会情勢は違う。第二次安倍政権以降熟成された右傾化傾向は、移民問題などとともに外国人、特に中国や韓国への排斥、差別となって顕在化している。そしてあからさまに戦前の価値感を賞揚する言説がまかり通るようになっている。今、戦前の軍国主義を批判するのは自虐史観の誹りを受ける始末である。
そして今回の参院選でも極右政党が議席を大幅に伸ばしている。戦後80年の節目に戦争記録画への批判的視座からの展覧会をうつことは、戦争賛美とは真逆の形でセンセーショナルに受け取られ、批判を受けることもありえる。それこそ竹橋の東近美前に街宣車と旭日旗がはためくようなことさえ、可能性はあるかもしれない。
さらに極右勢力からすれば戦争への否定的な見解は、すべて自虐史観とうつるだろう。すでに政府与党にもかなりの勢力が極右に親和的になりつつある。今回、初めて女性の総裁が誕生したのはその証左でもある。
かといって戦争記録画を、そこに描かれたテーマを称賛するような展示内容となれば、当然のごとく逆の側からの批判にもさらされるだろう。
本企画展の「ひっそり感」はひょっとしたら、今の日本の社会状況・政治状況への忖度にあるのかもしれない。戦後80年の節目として、所蔵する戦争記録画をメインに展覧会を企画した。でもそのことによって思わぬリアクションが生まれるかもしれない。戦争を事実や作品に基づいて検証することを企図したが、大きなセンセーションを巻き起こす可能性もある。さらいいえば今の右傾化した与党政権の中では、厳しい予算状況がさらに酷いものになるかもしれない。「左傾化した国立美術館」などいらないといった声が出てくる可能性もあるやいなや。
結局のところ思いついたのは、とりあえず始めちゃったけれど、目立たぬように「ひっそりと」というところあたりか。まあ穿ちすぎとは思うけれど。
図録がないことにより、家に帰ってから企画展の内容を反芻することもできない。図録をもとにさらに資料や文献にあたってみることもなかなか難しい。それでいて展覧会自体は物凄い情報量である。まあそれだけ関係者の並々ならぬ努力、この企画展の準備の労苦が偲ばれる部分もあるのだが。でも、この「ひっそり感」、「消化不良感」は。
願わくばどこかの出版社が、今回の企画展の資料等を受け継いで図録カタログの出版化に乗り出してはくれないかと思ったりもする。まさかそれをも美術館が拒否するとも思えないのだが。
個々の展示作品についての感想はまた別の機会にする。できれば26日までの間に最低一度はまた観に行きたいと思ったりもする。もう一度情報を咀嚼したいという欲求にかられる。まあそれだけ魅力的な展覧会でもある訳だ。

自分にとって戦争記録画といえばこれだった。何年も前に友人から藤田の戦争画が凄いといわれ観に行き、ある種の感銘を受けた作品でもある。それまでのあの乳白の下地に面相筆の細い線で仕上げた繊細な人物像など、藤田のイメージが一新される思いだった。
しかし何度か見ていくうちに、彼の戦争画は戦争の悲惨さ、理不尽さ、そういうリアリズムとは別の形象ではないかと、そんな思いを感じるようになった。どこかその戦闘のカオス、人物群像を描くところには、あたかも「どうだ凄いだろう。これがスペクタクルだぜ」と言わしめるような、そんな作家の高ぶりが感じられるような気がしてきた。
しかも戦争の悲惨さよりもどこか、戦う兵士たちを軍神として昇華させるような意識付けがうかがえるような。この絵の背景について、章立てのキャプションにはこんな解説がある。
4-3 玉砕の神話
1943年5月、アリューシャン列島のアッツ島で、日本陸軍守備隊がアメリカ軍との戦闘により全滅しました。同年4月の、海軍連合艦隊司令長官・山本五十六のブーゲンビル島での戦死の知らせと続けて報道されたこともあり、日本国民に大きな衝撃を与えました。部隊の全滅は「玉砕」という言葉により美化され、歌や文学や絵本などさまざまなメディアに取り上げられて、「仇討ち」の国民感情を醸成しました。
藤田嗣治の作品<アッツ島玉砕>もその文脈の中で生み出されたのです。
そうなのである。悲惨な部隊の全滅という事実を「玉砕」という美辞麗句に変え、作戦指導や補給の不備により死傷者が数千名にも及んだ軍事的敗北を、天皇のために殉じた神兵として賛美するものになったのである。さらに藤田はこの絵が公開された展覧会で自ら募金を募るなどもしていたという。
1943年5月29日、アリューシャン列島のアッツ島で、アメリカ軍の攻撃により日本の守備隊が全滅した出来事が、敵味方の入り乱れる死闘図として描かれています。全滅は「玉砕」という言い方で美化され、国に殉じる行為が軍人の鑑であると報じられたため、藤田の絵は陰惨な図柄であるにもかかわらず、観衆に熱狂的に受け入れられました。同年9月の国民走力決戦美術展に展示された際には、作品の前に賽銭箱がおかれ、脇には藤田自身が直立し、観客が賽銭を入れると藤田がお辞儀をしたというエピソードもあります(野見山暁治『四百字のデッサン』河出書房新社 1978年)。ここで作品は単なる記録を超え、追悼と「仇討ち」の気分を醸成するための機能を果たしました。その気分の醸成には、報道や文学、絵本、歌などのメディア・ミックスがあったことも見逃せません。(解説キャプションより)
パリで成功をおさめた時の藤田は、おかっぱ頭に丸眼鏡で、パーティの席上で奇抜な衣装で踊ったりしたという。どうしたら受けるかを考えての行動はお得意だったのだろう。セルフ・プロデュースに長けた画家は、戦時下にあっては愛国画家を装ったのだろう。しかし絵の横に直立不動で、観客が賽銭のたびにお辞儀をするとは。まるで何かのパロディ、機械仕掛けの人形ではあるまいか。
戦後、藤田が戦犯リストに名を連ね、画家として戦争協力者の矢面に立ったのは、こういう「悪目立ち」が理由の一つにあったのかもしれない。一方で、藤田はGHQの嘱託となって戦争記録画収集や美術界の戦争協力者リスト作成にも協力もしたという。本人は戦争中は一兵卒と同じように戦争体制に参加しただけと弁解したとも伝えられている。
そもそも戦争記録画を画家たちは、どのようなモチベーションで描いていたのだろうか。素直に当時の情勢の中で戦争に協力する。それは一国民として当然のことであったのかもしれない。一方で思うのは、彼らは職業画家だったということだ。
画家は報酬が得られれば、どんなテーマでも描くことができる。それがプロフェッショナルだ。しかも物資の供給が乏しい戦時下にである。軍がスポンサーとなって、戦意高揚を目的とした絵の注文が来る。しかも潤沢に画材を使うことができ、大画面の作品も自由に描くことができる。しかも戦闘シーンなど、観るものの度肝を抜くようなスペクタクルも描くことができる。
フランスやイタリアに留学経験のある画家であれば、各地の美術館で荘厳かつ大画面の宗教画、戦争画、歴史画を何度も目にしていただろう。ああいう大画面の作品を描くことができるのは、相当なスポンサーがあってのことだ。国王、教会、メディチ家のような権力者、豪商などなど。
戦時下、軍部というある意味もっとも権勢をふるった権力者がスポンサーとなり、潤沢な画材と十分な報酬を与えられた画家たちは、みなプロの画家としてのモチベーションを高めたことだろう。観る者を驚かせるような戦争画、歴史画をいっちょう描いてやろうではないかと。
戦争記録画の本質は、実はそんなところにあるのではないか。それは以前から藤田嗣治の戦争記録画、アッツ島やサイパン島の悲劇などの大画面の絵を観てずっと感じていたことだ。戦争の本質なり、その悲惨さを描きだす、そんなことをこの絵は伝えていない。凄い絵、凄い歴史画、凄い戦争画を描いてやろうではないかという画家という製作者の気負い、そんなものが感じ取れるのだ。
今回の企画展、あえて「戦争画展」と呼びたいが、会期末を迎えて残り日数も少ないが、もう一度は観に行きたいとは思っている。ただし、今回の感想に限っていえば、10日と少し前に観た原爆の図丸木美術館の《原爆図》のインパクトのほうが強い。原爆の悲惨さを描いたあの作品群には、二人の画家の描かなくていられないという芸術的な内発衝動が感じられる。そして戦争の悲劇を芸術作品として昇華させる意匠、表現がこもっている。しかも彼らは誰かの注文で《原爆図》描いた訳でもないのだ。
東近美の企画展にも一点丸木夫妻の《原爆の図》が出展されている。原爆の図第3部《水》の再制作版で広島現代美術館収蔵品だ(後期展示)。この再制作版は初期三部作《幽霊》、《火》、《水》の三点でいずれも広島現代美術館所蔵品だという。いずれも1974年に作者自身によって彩色など大幅な加筆がなされており、オリジナルよりはクリアな感じだが、その分インパクトはやや減じているようにも思えた。


丸木美術館はリニューアルのため9月29日から1年半以上の休館に入ると聞いている。できればオリジナル版を借り受けて、東近美の戦争記録画と合わせた大規模な戦争画展の開催を期待したいところだ。来年の夏あたりにどうだろうかと思うのだ。