たましん美術館「阪本牙城展」を観る(8月5日)

 友人と立川のたましん美術館「生誕130年 阪本牙城 タンク・タンクロー展」に行って来た。

生誕130年 阪本牙城 タンク・タンクロー展(たましん美術館/立川)

 

 「阪本牙城って誰よ」

 まあ普通の反応だと思う。そして一瞬考える、たしか「タンク・タンクロー」かとなる。

 

阪本牙城 - Wikipedia

タンクタンクロー - Wikipedia

 

 自分は1956年(昭和31)生まれだ。「もはや戦後ではない」と経済白書に書かれた年である。なので戦前のマンガは基本的には知らない。とはいえ「のらくろ」とこの「タンク・タンクロー」はなんとなく覚えている。貸し本屋を知っている世代だが、上製の単行本のマンガでこの手の戦前のマンガをいくつか読んだ記憶がある。あれは家にあったものか、そのへんは記憶があいまいだ。

 「のらくろ」は明らかに軍国マンガ、兵隊を擬人化した犬が演じるものだったが、「タンク・タンクロー」はどちらかというとナンセンスなロボットマンガだった。今回の美術館の解説などによると、「鉄腕アトム」などに先駆けたロボットマンガということらしいが、なんとなくナンセンスマンガという印象が強い。どちらかというと杉浦茂のナンセンスものと同じ括りだったような印象がある。

 ちなみに阪本牙城は1895年生まれ、杉浦茂は1908年生まれで13歳も阪本が年長である。1895年生まれというと明治28年日清戦争が終わった年である。自分の祖母は1898年(明治31)生まれなので、そうやって考えていくと祖母と同世代の人ということになる訳だ。

 どうでもいいことだが、自分が生まれた1956年、祖母は58歳である。そうか祖母はまだ60前だったのかと、なんとなく感慨めいたものを思ったりもする。そして自分は来年70になるが、たぶん孫をみることはなさそうな予感がある。

 話は脱線した。阪本牙城である。

 展覧会の最初に阪本の生い立ちの解説がある。

阪本雅城のおいたち
代表作『タンク・タンクロー』

阪本牙城(本名・坂本雅城)は、一八九五(明治28)年、東京府西多摩郡五日市町(現・あきる野市)に生まれます。兄弟には後に写真家となる坂本洋次郎、日本画家の田中下枝がいました。
五日市尋常高等小学校(現・五日市小学校)5年の頃には校章をデザインするなど、早くも才能をあらわし、一九一二(明治45)年東京府立第二中学校(現・東京都立立川高校)を卒業。中学校入学時にはすでに画家になることを決意していたといいます。
中学卒業後は羽村の高等小学校などに勤務し、洋画家の藤島武二(一八六七~一九四三)が指導した川端絵画研究所で5年間学びます。画家として独立するも生計がたたず一九一五(大正4)年、画家の岡本一平(一八八六~一九四八)のすすめで「東京漫画会(のち日本漫画会)」へ参加したことをきっかけに、漫画家の道を歩みはじめます。中外商業新聞社(現・日本経済新聞社)、大阪夕刊新聞社(現・産経新聞社)などで漫画記者として活動し、新聞に子ども漫画を描き、出版社に持ち込んだ「タンクロー」の案が絶賛され、一九三四(昭和9)年1月から『幼年倶楽部』にて連載開始。「豪傑」タンクローが、ワルモノを丸い胴体からとりだす翼や刀と怪力で痛快にやっつけます。
そのユーモア溢れる戦いの様子が人気をよび、4月号では豪華な読み切り漫画の別冊付録が付くなど、タンクローはまたたく間に大人気となりました。翌年には豪華な単行本が刊行され、牙城は一曜人気作家の仲間入りを果たします。

(解説キャプションより)

 そうか阪本は川端画学校の洋画部門で藤島武二に師事したのか。ちなみ川端画学校は川端玉章が開いたもので美術学校で、多くの画家を輩出した。

川端画学校 - Wikipedia

 阪本は岡本一平の勧めで漫画家の道を歩む。「タンク・タンクロー」がヒットしたあとは、1939年に満州に渡り、満州国政府開拓総局の広報担当嘱託兼開拓義勇隊訓練本部嘱託となり各地を慰問した。いわば大日本帝国の中国侵略の先駆として文化政策の一旦を担ったということだ。

 そして敗戦後の1946年に苦難の末にようやく帰国したが、その後はマンガよりも水墨画の道を歩むようになったという。

阪本雅城「画と禅」戦後の水墨画
一九四二(昭和17)年47歳の時、牙城は満洲から一時帰国をして初めての水墨画による個展「満洲風物阪本牙城個人展覧会」を銀座で開きます。その後、北朝鮮終戦を迎え、帰国できずに急城郡にとどまり1年後の一九四六(昭和26)年に帰国します。
多くの苦難を、道元禅師の仏教思想書についての注釈書、橋田邦彦著『正法眼蔵釈意』を心の支えに乗り越えますが、その過酷な体験からか、戦前からはじめた「禅」の思想にさらにのめりこんでいきます。
中野の自宅を「如是庵(にょぜあん)」と名付け、禅の修行と水墨画に没頭しました。
故郷である五日市の徳雲院加藤耕山(一八七六~
ー九七ー)をたずね、一九四九(昭和24)年からは臨済宗天竜寺派高歩院・大森曹玄(一九〇四~一九九四)に師事し、「鉄舟会」に入会。水墨画を描き、一九五二(昭和27)年58歳から書道月刊誌『水茎(みずくき)』に「南画講座」を17年間連載するほどでした。一九五九(昭和34)年には『基本ペン習字読本」を刊行するなど、書家としての才能も発揮していきます。
禅の心と、いのちを慈しむ思いに満ちた作品を数多く生みだし、日本橋高島屋などで16回の個展を開催しました。
レンブラントロダンに影響を受け、中国の画僧・牧谿(もつけい)や梁階(りょうかい)の作品を手本に深めた水墨の世界。身近な自然や、絵、富士をはじめ山岳、石、植物などに詩を添え、豊かな心をあらわしました。雅城の水墨作品は、現在確認できるだけでも800点以上が残されています。

(解説キャプションより)

 

 彼の戦時中の絵は水彩画だが、やはりどこかマンガ風である。

 

 

 そして彼の山水画はというと、これはなんていうのだろうか今一つ凡庸な印象がある。それなりの技術はあるのだが、画才を感じないといったら言い過ぎだろうか。

 

 

 

 

 この絵などどこか川端龍子をマンガにしたような感じである。どうしてもマンガになってしまうような。

 そんななかで阪本牙城が好んで取り上げた画題が「鯰」だという。「鯰」だけで数百点描いているという。これはなんとなく味わいみたいなものを感じさせる。

 

 阪本牙城は現在のあきる野市の生まれだという。そして五日市小学校から東京府立第二中学校(現東京都立立川高等学校)に入学している。ある意味郷土の画家ということで、たましん美術館で回顧展が開かれたということだ。ちなみに府立二中が立川高校で、府立一中は日比谷高校なのだと。府立旧制中学が都立の名門高校になったということなんだろう。

 ある意味忘れられたマンガ家であり、山水画家ではある。それを郷土の画家として取り上げるのもまた地方美術館の役割かもしれないなと思う。そうやって我々は歴史に埋もれた画家の作品に巡り合うことができる。

 なかなか面白い企画展だったとは思う。阪本牙城、多分こういう画家は国立近代美術館や国立博物館ではお目にかかることはないのだろうとは思う。戦前のヒット漫画家が戦後は水墨画を描いていたということを知るのも楽しいことだ。