タリーと私の秘密の時間

タリーと私の秘密の時間(字幕版)

タリーと私の秘密の時間(字幕版)

  • 発売日: 2019/04/03
  • メディア: Prime Video
 

  アマゾンプライムで観た。基本、シャーリーズ・セロンは贔屓にしている女優さんなので、主演映画は気になる。この映画では役作りのために 18キロも太ったのだとか。ディオールのCMなどで美しい姿を見せる完璧ボディの人が、実際ぶくぶくに太った姿でスクリーン上に現れる。この人はアカデミー主演女優賞をとった『モンスター』の時にも実在の殺人者を演じた時に14キロも太ってみせた前歴がある。

 役のために太ってみせるというと、デ・ニーロの『レイジング・ブル』を思い出すし、逆に『ダラス・バイヤーズ・クラブ』でマシュー・マコノヒーは18キロ近く痩せてみせた。こういうのをプロ根性として称賛する向きもあるにはあるにし、実際、シャーリーズ・セロンにしろデ・ニーロにしろプロ根性の塊みたいな役者ではある。でも、正直いうとそういうのはちょっと興醒めと思ってしまう部分もないでもない。

 役のための肉体改造とメークアップの間にどのくらいの差があるんだろうとか、そんなことを思ってしまったりもする。映画の中で痩せたり太ったりをするなら、ある種の必然性はあるだろうけど、ただ太った人を演じる、痩せた人を演じるのであれば、そういう役者を用意すればいいのではないかと思ったりもする。演技と肉体改造はなんか別のような気がしてはならない。さらにいえば役者としてのシャーリーズ・セロンも嫌いじゃないけど、基本的には美しくて凛々しくカッコいい彼女が好きなのである。

 まあいいか。映画はというと、これは育児映画というか、育児に疲れた母親を描いた映画である。このへんは女性には共感を与えるのだろうし、この映画もそこそこヒットしたのは明らかに育児に悩む女性たちに支持されたのだとは思う。自分自身、共稼ぎでかなり育児には参加したというかやってきたという自負はあるから、けっこう共感できる部分もないではないけど、やっぱりワンオペ育児している疲弊した女性の心理の全部に共鳴はできない。まあ男性性だからこれは致し方ない。

 そのうえでこの映画はというと、ある種の社会的訴えかけとは別の意味合いがあり、さらにいえば幾分かはミステリアスなテーストもある。このへんからはストレートにネタバレになってしまう。

 二人の子どもがいて、三人目を出産予定の中年の女性マーロは疲弊している。夫は優しいが家事、育児にはほとんど参加しない。仕事はするし優しい夫であり、子どもともよく遊ぶが、基本家事、育児は妻まかせ。寝室ではヘッドホンしてゲームばかりしている。

 三人目を生んだマーロは上二人の世話、生まれたばかりの赤ちゃんの世話で疲弊していく。彼女の兄はビジネスの成功者で経済的に余裕がある。彼は妹のために夜だけのベビー・シッターを雇ってくれると申し出る。最初は他人に子どもをまかせるのに躊躇っていたマーロだが、育児の疲れが溜まりその申し出を受けることにする。

 そしてやってきたベビー・シッターは今風の若い女性タリー。彼女は初日からへそ出しTシャツで、いきなりタメ口をきいてくる。でも仕事はきちんとしていて、マーロが眠っているうちに家事もきちんとしてくれる。でも目が覚めるといつも帰った後。

 次第にマーロはタリーを信頼し、打ち解けていろいろな話をする。そのへんからなんとなく雰囲気が変わってくる。タリーがベビー・シッターを辞めるという話を持ち出した夜、二人は車でニューヨークに出かけ一緒にはしごして酒を飲む。明け方近く車で帰る途中、マーロは居眠り運転から事故を起こして救急搬送される。しかしタリーの姿はなく、マーロは集中治療室で治療を受ける。駆けつけた夫に対して医師は、マーロが過度の不眠症で心の病を負っていることを告げる。そしてマーロの旧姓がタリーであることが夫の口から告げられる。

 そう、タリーはマーロが作り上げた幻想、イマジナリー・フレンドだった訳だ。しかも彼女は奔放な若い頃のマーロの姿でもあったのだ。タリーは毎夜、マーロが眠っている間に部屋やキッチンを完璧に片付けピカピカにし、子どものためにカップケーキまで作ってくれている。それも全部マーロがやっていたのだ。

 良き妻、良き母であろうと自分を追い詰めていき身心の病んだマーロは、空想のベビーシッターを作り上げ、自分でも気がつかないうちに毎晩寝ずに家事や育児をこなしていく。そうしうてようやく良き妻、良き母としての理想像に自分を近づけていき心の均衡を得ようとしていたのだ。

 様々な伏線はあるようだが、この結末はあまり予想できなかった。ただしいったんそういう結末を受け入れてしまうと、確かにこの映画には様々な伏線が廻らされているようだ。三人目の子どもができてから、喫茶店でボーッとしている彼女はいきなり見知らぬ女性から声をかけられる。彼女はマーロが若い頃にルームシェアをしていた友人だ。彼女とはあまりよくない別れ方をしたようで、再会はなんとなくぎこちなく、暇な時に電話をしてと言い合いながら別れる。

 この友人もひょっとしたら幻想の産物かもしれない。あるいは実際にあったことかもしれなくて、それを契機にマーロは若い頃の自分、友人とルームシェアをして奔放に人生を送っていた頃のタリーが実体化させるようになる。多分、あそこが幻想世界への境界に足を踏み込んだところだったかと、そんな気がしてくる。

 まあいいか、正直にいうとこういうこじらせ型の映画はあまり好きではない。まして単調な育児や家事の映画である。なので映画として楽しめたかどうかというと、それほどでもないと思う。多分、もう一度観ることはないかもしれない。とはいえ、育児や家事に悩む女性たちにとってはこの映画は切実であり、訴求力があるとは思う。シャーリーズ・セロンはこうしたこじらせ系の主人公を演じる作品が割と多い。

 アクション映画で颯爽とした姿をみせる彼女とは別の側面。しかも圧倒的な演技力と演技のためには肉体改造も辞さない役者魂。シャーリーズ・セロンはハリウッドを代表する女優であることは間違いないとは思う。