和泉雅子
和泉雅子が亡くなった。77歳だったとか。
しかしその見出しが「冒険家で俳優」とあり、日本人女性初の北極点踏破とあることになぜか違和感を感じる。
彼女は日活の女優で清純派スターだった。1960年代、日活では吉永小百合に次ぐトップアイドルだった。吉永小百合、和泉雅子、松原智恵子は日活三人娘として売り出されていた。明るいお嬢さんタイプのキャラクターだった。



山内賢と何度か青春映画を共演した。二人でデュエットした『二人の銀座』は大ヒットし、累計100万枚以上の売上を記録したという。
Wikipediaの記述によれば、この曲を作曲したのはベンチャーズである。そうか時代はエレキ・ブームだった頃。「テケテケテケケテ」である。この動画で山内賢が十二絃ギターを抱えているのはご愛敬か。
もともとインストルメンタルナンバーとして作られ、そこに永六輔が詞をつけた。本来、岩谷時子が作詞をして、加山雄三が歌うという話もあったという。でも加山は当時的には珍しく、自分で曲を作ることができる。そして和泉雅子、山内賢のデュエット曲としてレコーディングされた。
エレキブームの火付け役ともいうべきベンチャーズが曲を提供し、そこに「上を向いて歩こう」で1963年にビルボードで全米1位をとった超売れっ子の作詞家永六輔が歌詞を担当する。そして日活の青春スター二人がエイトビートのエレキサウンドをバックに軽やかに歌う。エレキサウンドの最大級のヒットとなったという訳だ。
和泉雅子は当時、トップアイドルにして日活の看板女優の一人だった。しかし1970年前後、日活は業績が低迷し日活ロマンポルノへと活路を見出す。多くのスターがテレビへと活躍の場を移していった。
彼女もその一人だったが、1980年頃からドキュメンタリー番組への出演を契機に極北への冒険旅行にとりつかれるようになる。最初の北極点を目指した冒険旅行は頓挫したが、二度目に日本人女性として初めて北極点に達する。日活のスターだった頃とは大きく容貌は変わり、ふっくらとした逞しい姿になった。日焼けした顔には紫外線の影響かシミが目立つたくましい冒険家女性だ。
なにが彼女をそうさせたのか。まあそれは彼女の人生だ。死因は原発不明がんによるものと記事にはあった。原発不明がんとは、がんの転移はあるが最初にがんが発生した臓器(原発巣というらしい)が特定できない悪性腫瘍のことだという。
通常がんは、例えば胃や大腸などで見つかり、それが様々に転移して肺がんや肝臓がんとなったりする。でも原発不明がん、もともとどこで出来たかが判らないということだ。たぶん様々にがんが転移し、あちこちで悪性腫瘍が見つかる。それを局所的に治療してもまた他に転移していくみたいなことだろうか。やっかいかつ深刻な病気だ。
和泉雅子も闘病の末に亡くなられたのだろうか。
昭和の清純派女優としては、80代になるが吉永小百合、松原智恵子は健在だ。東宝のスターだった酒井和歌子も存命らしい。一方で星百里子は2018年に亡くなっている。そういえば和泉雅子の相手役を務めた山内賢もたしか2011年に亡くなっている。
このようにして昭和の銀幕スターも一人ずつ去っていく。冒険家ではなく清純派美人女優だった和泉雅子のご冥福を祈りたい。
コニー・フランシス
これも新聞の訃報欄に載っていた。コニー・フランシス、懐かしい名前である。50年代後半から60年代にヒット曲を連発した。日本でも彼女のヒット曲がたくさんカバーされた。『バケーション』は弘田三枝子、『可愛いベイビー』は中尾ミエなどなど。そして21世紀になってからも竹内まりやが『 ボーイ・ハント』をカバーしている。コニー・フランシスはある意味オールディーズの女性ボーカルの頂点にいた人だったかもしれない。
コニー・フランシスは1960年代の初期、ビルボードのナンバー1ヒットを3曲を出している。彼女より前に1位に輝いた女性歌手は、1957年8月に「Tammy」で3週1位になったデビー・レイノルズだけのようだ。『雨に歌えば』でジーン・ケリーと共演する、そしてレイア姫キャリー・フィッシャーのお母さんでもあるあのデビー・レイノルズだ。
コニー・フランシスのナンバー1ヒットはこんな感じだ。
「Everybodey's somebody's fool」 1960.6.27/2週
「 My Heart Has A Mind Of It's Own 」 1960.9.26/2週
「Don't Break The Heart That Loves You」 1962.3.31/1週
どれも素晴らしい曲ばかりだ。オールディーズというよりも少しカントリーフレイバーの効いたスタンダードナンバーという感じだろうか。
ビートルズ以前のポピュラー・ミュージックのキングがエルヴィス・プレスリーだとしたら、ディーバ(歌姫)はコニー・フランシスだったのかもしれない。
Wikipediaの記述によれば、70年代以降はレイプ被害者となったり、兄弟がマフィアに殺害されるなどの悲劇にみまわれる。そのことにより精神を病み、回復には長い時間がかかったという。
それでも87歳、大往生を遂げたのだとは思う。ビルボード・ヒットチャートの1位を三度、トップ100に入った曲は数知らずという実績があるのに、彼女は過小評価されてきているような思いもある。まだロックのない時代のディーバだったからかもしれないが、彼女はロックの殿堂入りもしていない。〇〇誌が選ぶベストシンガーといったランキングにも入ることはない。
彼女が歌ったポップソングは、ロックンロールを志向する人々からは唾棄されるようなお気楽ソングだったのかもしれない。ロックじゃない、芸術性も社会性もない、ただの量産されるポップソング、そういう範疇に放りこまれたのだろうか。
でも当時のティーンエイジャーはみんな彼女の歌を聴いていたはずなんだ。最初から黒人音楽、リズム&ブルースや南部のブルース聴いていた訳じゃない。もっとも彼女の歌に親しんだ50~60年代の若者は、とっくに亡くなっているか、80代から90代、もう忘却の彼方にいる。
今、ロックやポップソングのランキングを作るような人々には、コニー・フランシスは忘れられた骨董品の棚にアーカイブされている存在。たぶんエルヴィス、ビートルズ、ボブ・ディラン、アレサ・フランクリンは神格化されていても、コニー・フランシスは単なるヒット・シンガー、アイドル・シンガーとして軽んじられているんだろう。
1950年代後半から1960年代後半の10年間で、ビルボードヒットチャートの1位になった白人女性歌手はというと、コニー・フランシス以外ではペギー・マーチ、レスリー・ゴーア、ペトラ・クラークくらいしかいない。第一位になった曲を3曲もっているのはコニー・フランシスだけだ。彼女はまちがいなくあの時代のトップ・シンガーだったのだと思う。
彼女がもっとも活躍した時代、多分自分は4歳とか5歳くらいだろうか。横浜に住んでいたこともあり、なんとなく洋楽は身近にあったような気がする。父が商売で本牧の米軍キャンプに出入りしていたことなんかも影響しているだろうか。コニー・フランシスや彼女の曲をカバーした曲なんかが普通に流れていたので、自然に耳に入ってきたんだろうか。あとから知ったことだけど、その時代は我が家的には一番幸福だった頃のようだ。幸福なコニー・フランシス、オールディーズの流れる昭和時代か。
しばし彼女の曲を聴きながら、ご冥福を祈ろうと思う。