ミロ展に行く(5月8日)

 

 気になっていた東京都美術館(以下東美)のミロ展に行って来た。

 そういえば東美は去年も同時期にデ・キリコの回顧展をやっていたけど、春はなんとなくこういう尖がった抽象芸術系みたいなことになっているのかどうか。まあたまたま偶然的に2年続いたのだろうか。

 さてと正直なところミロは苦手というか、理解不能な部分がある。どこから入っていいのかどうか。

ときにミロとカンディンスキーの区別がつかないことがある。

 これは2016年にTwitterにつぶやいたこと。これですね。正直ミロとカンディンスキーを交互に見せられたら、どっちがどっちと正解答えられる自信がない。

 

 

 

 前者がミロの《明けの明星》、後者がカンディンスキーコンポジションⅧ》。まあ判る人には一目瞭然なんでしょう。実際こうやって並べてみれば、ミロは子どもの絵のようなデフォルメされた抽象的な人や鳥、怪獣なのが散見。カンディンスキーはというと円やら三角などの形象が多分ある種の構成ルールに従って配置されている。

 よく指摘されるんだろうけど、ミロは詩的でありカンディンスキーは構成的あるいは音楽的といわれる。さらにいえばカンディンスキーの音楽は、音の調べというよりも作曲、ある種の譜面のような雰囲気を漂わせているような。

 とはいえこういうのは説明されれば、なんとなく「ふ~ん」となるけど、正直凡人の自分には、もしくはニワカ鑑賞家にはわかりません。この流れでいえば難波田龍起も瑛九もちょっと理解不能かもしれない。よく画面を観ていると、ファンタジーのような心が躍るような気がしませんかとか言われることもある。以前、東近美で作品解説のガイドさんのお話しでも、瑛九についてそんな解説されていたような記憶がある。まあそうなんだけど、なんでもかんでもファンタジーでかたづけていいのかどうか。

 このへんはいつものごとく「考えるな、感じろ」ということにしておくべきか。これはヨーダの名言だったか、ブルース・リーだったか。

 ただしシュルリアリズムの重要概念である自動筆記(オートマティズム)的にいえば、なんとなく無意識的に描いているのはミロっぽくて、カンディンスキーは完全に確信犯的にああいう抽象画、きちんと配置しているような感じもする。作為的というか、多分狙ってやっているというか。

 でも、今回のミロ展を観て思ったことはというと、ミロもあの自由奔放な抽象表現を明らかに狙ってやっていること、さらにあの画面構成のために細密な具象的デッサンをたくさん描いているらしいことなどが判ってくる。こういうところが時代とともに作風を変えていく画家の軌跡が辿れる回顧展のよいところなんだろうと思ったりもする。

 

 試しにミロと同時代のそれっぽい芸術家の生没年をざっととりあげてみると、こんな感じである。ミロは19世紀の一番最後の方に生まれたけれど、まあギリギリ抽象芸術家の第一世代にいるような。そしてこの前東近美で観たヒル・アウフ・クリントの先駆性ってかなり突出しているような気もしたりする。まあ適当にピックアップしただけだけど。

画家名 生年 没年
ヒルマ・アフ・クリント 1862 1944
カンディンスキー 1866 1944
マティス 1869 1954
ピエト・モンドリアン 1872 1944
マレーヴィッチ 1879 1935
ピカソ 1881 1973
ブラック 1882 1963
マルセル・デュシャン 1887 1968
デ・キリコ 1888 1978
ミロ 1893 1983
ダリ 1904 1989
パウル・クレー 1879 1940

 

 さてと本題に入るけど、今回のミロ展は思いのほか良かったというか、けっこう見どころ多かったというのが率直の感想。ミロの作品については正直理解が追いついていかないけれど、特にごく初期の20代の作品を観ると時代の思潮というか、ミロも普通にキュビスムフォーヴィスムを受容していたことが判る。そして初期の風景画には、当時のたいての画家がそうであったようにセザンヌ的な構成をトレースしていたことが判るような気もした。

 そしてキュビスムフォーヴィスムから、じょじょに画面構成が立体性を失い平面的な雰囲気になる。三次元構成から二次元構成、つまりは絵画様式としての遠近的なマジックを消し去る。これって近代絵画から現代絵画への流れへの思潮と多分シンクロしているのだろう。その中で二次元的な面と色彩にいく者、記号化、抽象化に向かう者などに分かれていく。ミロは当然後者のほうなんだろう。

 若い時のミロの画風を観ていると、なにかそういう流れがなんとなくわかるような気がした。そのへんが面白かったというか。とはいえだからといってあの抽象画が理解できるかどうかは別問題ではあるけれど。

 ちなみに今回の企画展でのミロの表記は「ジュアン・ミロ」になっている。一般的には「ジョアン・ミロ」だったり「ホアン・ミロ」だったりする。たぶんスペイン語的には「ホアン」なんだろう。でもミロはカタルーニャ地方出身、そうあのバルセロナFCのあるのカタルーニャだ。そしてカタルーニャ語的には「ジョアン」もしくは「ジュアン」が正しいらしい。そういうことでの「ジュアン」のようだ。しかし画家名の表記って難しいね、習った表記と違うみたいなことがけっこう多いので。

 

 《モンロッチの風景》 1914年 油彩/キャンバス  ジュアン・ミロ財団(寄託)

 

《スペインの踊子》 1921年 油彩・キャンバス パリ国立ピカソ美術館

 《モンロッチの風景》はミロ21歳のときのもの。セザンヌ的な雰囲気と色調はフォーヴィスム風。そして《スペインの踊子》は28歳の頃。キュビスム的かな。このへんの作品を観ると普通にミロは画力があると思う。

 この前後に描かれたこの作品はどちらかというと、平面的な構成美を模索しているような気もしないでもない。

 

《《ヤシの木のある家》 1918年  油彩・キャンバス 国立ソフィア王妃芸術センター

 実は今回の企画展で一番気に入ったのはこの作品かもしれない。一見してちょっと岡鹿之助っぽいとか適当に思ったりもしたり。ちなみに友人に何枚かポストカードをあげたのだが、その友人もこの作品が一番気に入ったみたい。まあ一般受けする作品だとは思う。

 この作品と同系統のもので、若き頃のヘミングウェイが気に入って、借金をして頭金を集めて購入したという有名なエピソードがあるのが以下の作品。これは今回の企画展にはきていないけれど。

 

《農園》 1921-22年 油彩・キャンバス ナショナル・ギャラリー(ワシントン)

農園 (絵画) - Wikipedia 

 そのほか気になった作品をいくつか。

 

《オランダの室内Ⅰ》 1928年 油彩・キャンバス ニューヨーク近代美術館

 ミロがオランダを訪問したおりに、オランダ風俗画の写実主義に興味を覚え、何枚からのポストカードを購入し、それをもとに描いた連作の一つなのだとか。この絵のもとになったのはヘンドリック・ソルフの《リュートを弾く人》。

 

リュートを弾く人》 ヘンドリック・ソルフ 1661年 アムステルダム国立美術館

 ソルフの作品はもちろん今回は来ていない。しかしミロが具象的な風俗画をいかに記号化、抽象化していったかがなんとなく判るような気がする。犬や猫がああいう風に抽象化されるのかとか。

 単なる思いつきだけど、認知心理、あるいは視覚表象が脳内で図像化されるときに、目によって認知されインプットされた対象が、脳内でミロ風に図像化されるなんてことはあるのだろうか。脳の神経系統に何らかの障害を受けた場合に、あんな風に認知されるとか。もしくは障害ではなくても、人間の脳に何らかの電気的ショックを与えることで、立体構成や対象をミロ風の二次元表象として認知するような。認知のスィッチを変えることで、あんな風に現実を脳内で実際に視覚化していたら。たぶん常人的にはどこか変になってしまうかもしれない。でもそういう人間だけが集まった社会が構成されていたら。ちょっとこのへんはしょうもないSFかもしれないけど。

 

《《バルサ FCバルセロナ75周年》 1974年 リトグラフ ジュアン・ミロ財団

 FCバルセロナの75周年のポスター。カタルーニャ出身だけにたぶんミロはバルセロナを愛していたんだろうな。1975年当時のバルセロナにいたスタープレイヤーというと、たぶんクライフやニースケンスがだっただろうか。ミロもクライフのプレーに熱狂したのだろうか。

 

《逃避する少女》  1967年 ミロ美術館

 

 展示風景

 

 《月明かりで飛ぶ鳥》 1967年 ナーマド・コレクション

 

《太陽の前の人物》1968年 ジュアン・ミロ財団