MOA美術館「名品展」 (2月11日)

 箱根・伊豆旅行二日目。

 MOA美術館に行くことにした。改めてMOAってなんだったっけと思ったり。あれは

Mokichi Okada Association」の略、つまり世界救世教の教祖岡田茂吉由来だったか。そして世界救世教大本教から派生したいわゆる手かざし、真光のメインストリームだっただろうか。そこから派生して崇高真光とか世界真光教団とか、いろいろ分派があるとか聞いたっけ。

 けっこうあちこちに巨大な宗教施設があったりするし、立派な美術館があったりする。その代表格がこのMOA美術館であり、それに匹敵するのが岐阜のひかりミュージアムだったり。まあ結論的にいうと宗教は儲かるのねと。

 

 MOA美術館は立派な施設とともに、貴重な収蔵品の数々がある。たしか国宝3点、重要文化財67点、重要美術品47点をもっているとか、ネットで検索すると出ていた。凄い量である。今回の企画展「名品展」はその中から国宝3点、重文25点が出品されている。そして春先必ず出品される尾形光琳の《紅白梅図屏風》も観ることができる。

 

《洋人奏楽図屏風》

《洋人奏楽図屏風》 桃山時代 16世紀 紙本着色 重文

 美術史の教科書で何度かお目にかかっているが、オリジナルは初めて目にした。南蛮美術、初期洋風画とよばれる。イエズス会のセミナリオ(教育機関)での絵画教育で学んだ日本人絵師によるもので、宣教師によってもたらされた西洋銅版画や船載されていた西洋画の図葉などをもとに描かれたものとされている。日本の伝統的顔料をもとに、定着財として胡麻油や荏油を使って油絵の効果を出している。

 陰影による立体描写や透視遠近図法などの西洋技法の習得のあとがうかがえるが、一部パースの狂いもある。そして描かれた動物も、作者にとって未知なものだったためか、その縮尺もおそろしく微妙だったりもする。

 こうした初期洋風画の画家たちは、禁教令によって殉教したり、国外追放となったりで、活動期間も短く無名のまま歴史のかたすみに葬られたようで、記録はほとんど残っていないようだ。

 クローズアップしてみるとまさに西洋画そのものであり、作者の技術の高さ、西洋画の受容の確かさがよくわかる。

 

 

 

《故事⼈物図屏⾵》

 《故事人物図屏風》 長谷川等伯 桃山時代 17世紀

本屏風は、向かって右隻に、殷の紂王(ちゅうおう)を討とうとする周の武王を諫め、聞き入れられず首陽山に隠れ餓死した伯夷、叔斉(はくい、しゅくせい)を描き、左隻に、漁夫と問答する屈原を確かな筆致で描いている。(解説キャプションより)

 

 落款がちょっと面白いというか「自雪舟五代長谷川法眼等伯筆」とある。雪舟から五代目にあたると等伯は自称していることで有名。法眼はたしか絵師などに与えられる称号だったかと。

《楼閣山水図屏風》

《楼閣山水図屏風》 海北友松 17世紀初期桃山時代 重文

 恥ずかしい話だがずっと「かいほく」と読んでいたが「かいほう」だった。あ~恥ずかしい。海北友松はもともと浅井家家臣の家に育ったが、浅井家滅亡後は仏門に入り、還俗して絵師を生業としたという。減筆体という省略の多い画風で知られ、そういう意味ではこの《楼閣山水図屏風》は代表作の一つでもある。

 正直にいうとこの手の絵はなんとなくみんな雪舟のように見えてしまう。特にクローズアップしてみると、雪舟といわれれば素直にうなずいていそう。ある意味、中国山水画を受容して展開した雪舟様式とでもいうのだろうか、まあそうなんだろうなと、まあ当たり前のことに納得してみる。

 

 

紅白梅図屏風

紅白梅図屏風》 尾形光琳 18世紀 江戸時代 国宝

 

《機織図屏風》

《機織図屏風》 17世紀江戸時代 紙本金地着色

 作者は不詳。江戸時代の初めの頃、いわゆる近世初期風俗画とされるジャンルの作品。すやり霞を使って機織り工房の背景を省略。そのうえで人物を大きくクローズアップしたり、やけに小さくしてみたり、草花を加え装飾的なあしらいをありと自由自在な表現だったり。しかもその花は厚みがありどこか琳派的な意匠も感じさせたり。

 

 

 

湯女図

《湯女図》 17世紀初期 江戸時代 紙本着色

 寛政年間に流行した湯屋で、客の垢を流したり、酒食の相手をした湯女が戸外を歩いている姿を描いている。浮世絵美人画のごく初期の作例ということになるのだろうか。湯女とはまあ有体にいえば娼婦、遊女だったのだろうし、湯屋は男性たちの遊興の場だったのだとは思う。

 しかしこの7頭身から8頭身ありそうな細長いスタイルの描き方って、いったいどのへんから出てきたものだろうか。当時の日本人はおそらく男性でも150cm台、女性は140cm台あたりだと推定されている。なので、あくまでこの絵の女性たちはスタイリッシュな理想形として描かれたものなんだろう。

 ひょっとしてだがスリムで身長の高い美人たちが希少な存在として実在していた可能性はどうなんだろうか。そんなことをちょっとだけ思ったりもする。

 この絵は掛け軸絵なのだが、裂地の部分に装飾的に意匠が施されている。描き表装の一種なのだろうが、これは後世になって掛け軸絵として表装しなおされたときのものなのか、もともとのものなのか。近くにいた男性スタッフに聞いてみたが、「学芸員ではないのでわかりません」とのことだった。

 

 しかし拡大してみてみるとこうした風俗画は面白さがなんとなく倍増するような気がする。

 

 

中国画

《寒江独釣図》

《寒絵独釣図》 伝馬麟 中国元代 14世紀 絹本墨画淡彩 31.4×51.2cm 重文
《高士観月図》

《高士観月図》 伝馬遠 中国南宋時代 13世紀 絹本墨画淡彩 57.3×26.5cm 重文

 美術史のテキストなどによれば、この馬遠と夏珪は南宋期の院体山水画を完成させた画家とされている。景物を画面の片方に寄せて余白を多くとる、明確な対角線構図が特色で、余白の効果は詩的な雰囲気を醸し出すという。

 馬遠と夏珪の流派は馬夏派と称され、西洋人にも中国山水画芸術の神髄とされ、日本においても多大な影響を及ぼしている。『中国美術史』の著者マイケル・サリバンは、この馬夏派の山水画は詩情がなければマンネリズム紙一重と断じている。ちょっと長いが引用してみる。

その表現に用いられる個々の要素に新しいものは何もない。たておば、その際立った明暗のコントラストは范寛の山水画に見られたし、蟹爪のような樹木は李成の手法にあり、天を衝く岩山は許道寧であり、斧襞の皴法は李唐であり、広大な眺望は董源、といった具合に、すでに使われて来たものばかりである。しかしながら馬遠・夏珪の芸術においては、これらの要素すべてが総合的に現れてくる。しかもそれらを統合する筆力はまさに最高潮に達しており、かりにそこに詩情が融け込んでいなかったならば、マンネリズム紙一重に接しているといわなければらない。そいうした深い情感を除けば、様式そのものは装飾と変わりなく、皮相だけで簡単に模倣されてしまう——日本の狩野派の画家が懸命に把握しようとしたのはそうした外観的特質である。

『中国芸術史』 マイケル・サリバン 新潮社 1973年

 おそらくサリバンは馬遠、夏珪の芸術の本質をその詩情表現としている。そして様式化された画風としての馬夏様式を皮相なものとして批判しており、さらには中国画を模した日本の狩野派をも外観的に模したとして断じているようだ。それについてはいろいろな意見がありそうだが、中国絵画の神髄を画風的な技術面ではなく、より内面的な気韻生動など精神性に重きをおく部分から読み解いているのかもしれない。

 

《蓮に鶺鴒・葦に翡翠図》

《蓮に鶺鴒・葦に翡翠図》 伝牧谿 中国南宋時代 12~13世紀 紙本墨画
 各79.3×30.8cm

 牧谿は、禅僧でありながら余技にとどまらない画業をおさめた画家として伝えられている。牧谿の作品は真筆とされるものや伝承作品を含め、ほとんどが日本にあるようだ。牧谿 - Wikipedia