牧野邦夫展に行ってきた

 一部で評判になっていたので気になっていた企画展。会期が23日で終わるというので、駆け込み的に行ってきた。そういえば17日から18日にかけての集中豪雨で足利はけっこう水害があったようだけど、市内を走っている限りはその影響とかは見受けられない。

 そして埼玉から1時間かけてやってきたのが足利市立美術館。

 

 そして開催されていたのがこの企画展。

 

 

 正直、牧野邦夫という画家はほとんど知らないに等しい。特にどこかの団体に所属することもなく、美術館にもほとんど収蔵されていないらしい。多くの作品は個人コレクターが所蔵していて、口コミ的に一部で評価されている画家らしい。

 

牧野邦夫 - Wikipedia

展覧会- 足利市立美術館

 

 ある意味忘れられた画家だった牧野邦夫が話題になり認知度をあげたきっかけは、2013年に練馬区立美術館で開かれた回顧展だったらしい。この企画展を監修したのが美術史家の山下裕二で、彼がずっと一押ししている画家だったということのようだ。

 そして牧野邦夫の画風はというと、写実、特にレンブラントへの傾倒が顕著で、ほとんどそれは400年の歳月を経た私淑といっていいほど。自画像がやたらめったらと多いレンブラントに倣ってか、牧野も徹底して自画像を量産している。それはもうなんていうのだろうか、ちょっと偏執じみた感じもしないでもない。もっともたいていの芸術家は偏執的であるという命題をある意味前提にしてということになるけど。

 そしてレンブラント的、あるいはデューラー的な写実表現とはまったく異なる幻想性、当初は芥川龍之介の作品などを主題にしたなかで、幻想表現として描かれていたが、じょじょに単なる幻想ではなくシュールレアリスム的なものに変容していく。

 そしてとにかくアトリビュートというか持物的なモチーフがやたらめったら出てくる。物語性、幻想性、シュールな夢魔的なものなどが、ときに猥雑なまでにごった煮的にキャンバスに散りばめられている。それでいて物語性が確保されていて破綻がない。表現力としての画力とともに構想力、そして画面の構成力がしっかりしている。本当に底知れない画力を思わせる。

 正直、こりゃ凄いわというのが実感。とはいえそのほとぼしる想像力はときに気持ち悪さと表裏一体でもある。とにかくモチーフとして幻想的な人の顔、特にそれは小鬼であったり、悪魔であったり、妖怪、幽霊の類であったりが、画面のあちこちに存在する。肖像画の洋服、背景、などなど。さらには画面のあちこちにこれでもか、これでもかと、それこそ空間恐怖と余白を果てしなく埋め尽くすオブセッションである。多分に牧野邦夫はかなり病んだ精神の持ち主だったのかもしれない。それは芸術家がたいていの場合病んだ精神の持ち主であるというテーゼが有効であることを前提にしてということになるが。

 ときにその埋め尽くされる醜悪なもののイメージは、どこかユーモラスでもあり、それはレンブラント以前、フランドル初期のヒエロニムス・ボスを想起するような感じもある。

 牧野邦夫は1925年(大正14)に生まれ1986年(昭和61)に61歳で亡くなった。この世代というのはほとんど自分の父親と重なる。私の父親は1923年(大正12)に生まれ1986年に亡くなっている。いわば牧野邦夫は父よりも2歳年下で父と同じ年に亡くなっている。そのことを思うと、父と同世代で、あの昭和の時代を生き、同じ空気を吸っていたなかで、こんなにも写実と幻想性の間を浮遊するような画家がいたのだと、ちょっと意外なものを感じたりもした。

 牧野は戦時中に東京美術学校に学び、井原宇三郎、安井曾太郎に師事し、1945年学徒出陣したが戦地に赴くこともなく終戦を迎えている。私の父親は開戦と同時に学校を辞めて志願兵となり台北や海南島に行き終戦間際に内地に戻って終戦を迎えている。

 牧野は戦後美術学校を卒業したが美術団体に所属することなく、姉たちが茅ヶ崎で開いていた洋裁学校の手伝いをしながら画業を続けた。1959年から1984年まで画廊などでの個展を断続的に続けた。彼の絵がどのくらい売れたのかは判らないが、近代美術館等の所蔵が少ないことから、公式的な評価からはかなり隔たったところで制作を続けていたのではないかと想像する。牧野は洋裁学校を続ける姉たちの援助を受けていたのか、あるいは牧野が洋裁学校の実施的な運営者だったのか、そのへんはよくわからない。ただし牧野の芸術活動は洋裁学校をベースしていたのはあながち間違いではなさそうだ。。

 牧野にとって転機となったのは53歳のときに30歳下のモデルであった女性と知り合い結婚したことだ。夫人は牧野邦夫のミューズとなり以後の作品にはほとんどなにかしらの形で彼女がキャンバスに登場するようになる。初老の画家と年の離れたモデルであり妻という関係。なんとなくバルテュスとその妻との関係みたいなものを想像しがちだが、まあそれはまた別の話だ。牧野の妻にしろ、バルテュスの妻も、夫が亡くなった後、作品の散逸を防ぎ、作品の価値を高めることに尽力されたのはまちがいないようだが。

 

《黒い布をつけた自画像》 1975年 個人蔵

 レンブラントへの傾倒と、強烈な自意識を感じさせる。この回顧展でも多数の自画像が展示されていたが、おそらくこれがベストかもしれない。

    でもよく見ると、衣服の所々に顔が描かれている。

 

《雑草と小鳥》 1986年 個人蔵

 キャプションに牧野邦夫の裸婦の最高傑作とあった。実際そのとおりだと思うし、インパクトも大きい。足元の雑草の花にはなぜか人の顔が。どことなくオディロン・ルドン的なものを感じさせる。牧野は具象の画家でありつつ、幻想的な象徴主義の画家でもあった。

《人》 1983年 個人蔵

 上部が天国、下部が地獄なのだそうな。それはそのままミケランジェロの《最後の審判》的でもあり、ボスの三連画《快楽の園》にも通じるものがあるような、ないような。

 

《引っ越し》 1982年 個人蔵

 牧野はかなりの引越し魔であったようで、1977年に渋谷に引っ越し、同じ年に中野に引っ越している。1978年に千穂と知り合ってからも、1981年に青山、1983年に京都、そして1985年に井の頭に。さらに1986年、ガンで亡くなる二か月前に世田谷区下馬に引っ越している。この絵には何かに憑かれるかのようにして移動を続ける画家自身と、それについていくやや不安気な若い妻千穂が描かれている。千穂はまたどこかボッチチェリのフローラのようでもある。

 

《海と戦さ(平家物語より)》 1975年 個人蔵

 

《インパール(高木俊朗作品より)》 1980年 個人蔵 

 この3万人の死者(多くが餓死者)を出したインパール作戦の惨劇を主題にした作品。下部の死体には一面にウジ虫が這っている。おそらく藤田の《アッツ島玉砕》や《サイパン島同胞臣節を全うす》を凌駕する画家の想像力が画面を圧倒し尽している。グロテスクといえばグロテスク、しかしここには例えば藤田が戦争記録画の中に西欧の歴史画的な要素、劇的なスペクタクルを取り入れたのは異なるベクトルがあるようにも思う。画面を覆いつくす醜悪さ、正視しがたいおぞましさ、画家の想像力はこれが戦争だと訴えかけているのかもしれない。いや画家はなにも訴求していないのかもしれない。

 

 牧野邦夫、ちょっと忘れがたい画家になったかもしれない。ただ国公立の美術館での所蔵がほとんどないだけに、次に出会う機会があるのかどうか。聞くところによると練馬区立美術館、茅ヶ崎市美術館には寄託作品があるようだが、それも常設されているのかどうか判らない。

江戸東京博物館に行く

 午前中、お茶の水の健保で定期健診。朝、8時40分受付開始でほぼ定刻に行くが順番は一番最後の14番目。みなさん朝早いようで、去年、一昨年ともに一番最後の10番目。

 検査項目は、胸部レントゲン、採血、腹部エコー、心電図、聴力検査、視力検査・眼底検査など。胃のバリウムは4月に胃カメラ呑んでいるのでパス。最後に医師の問診で終了。小さく数値の上下はあるものの、特に問題はなさそう。10時半過ぎに健診終了後に診療所の眼科に通院。前回受けた視野検査の結果を聞き、緑内障とドライアイの点眼薬を処方してもらい、11時少し前に終了。

 その後、11時半くらいに友人と合流。まずは近くのレモンで早めの昼食。ここはいつも混んでいて、11時半でも席は一つ空いていただけ。カウンターは空いていたけど、それもすぐに埋まった。とりあえずパスタとコーヒーで落ち着く。カウンターに一人でいた綺麗風お姐さんは、パスタと白ワインできめてた。こっちも昼酒したかったが、とりあえずパスした。

  自分が食したのは人気の明太子とイカのスパゲッティ。イカはボイルしてるのかと思ったらイカ刺が添えられていた。まあ美味しかったけど。

 

 

 その後、どこかへ行くか相談。自分的には上野の藝大美術館あたりが候補だったのだが、友人が江戸東京博物館に行きたいというので、そちらへ。ここは両国の駅前、国技館の隣にある。

 両国って来るのはいつ以来だろう。田舎から出てきた親戚とプロレスだか総合格闘技だかを観に行ったことがある。あとは筑摩書房が移転したということで遊びに行ったことがあったが、なにかいずれも前世紀の話のようだ。ということでとにかく久方ぶりのことになる。

 

東京都江戸東京博物館 - Wikipedia

 

 江戸東京博物館は、かなり大きな施設で、江戸から明治、大正、昭和の美術、工芸品の蒐集、保存、展示だけでなく、大型の建物模型などもある大型体験型ミュージアムになっている。いろいろ話は聞いていたけど行くのは初めて。もともと1993年にオープンしているので、おそらく鈴木俊一が都知事の頃。2022年に施設老朽化により4年かけてリニューアルされ、今年の3月に再オープンしたばかりとか。そうか去年の大河ドラマ蔦重の時には閉まっていたのか。テレビとの相乗効果が期待できたのにね。

 今回の企画展はリニューアル記念特別展「洋館 明治の夢と挑戦」。これは23日で閉幕となるので、結果的にはギリギリセーフということでした。

 

江戸東京博物館リニューアル記念特別展「洋館 明治の夢と挑戦」|江戸東京博物館

 

 

 明治の近代化の中で、盛んに造られた洋風建築、さらにそれを模して明治の大工たちが工夫した疑洋風建築。また明治政府に要請されて来日したお雇い外国人たちによって設計された洋風建築物などなどが、図面や建築家によって描かれた側面からの細密な平面図、また再現された模型などが展示されている。

 特に明治の大工たちが、見様見真似で洋風っぽい建築を行った作例などはけっこう楽しかった。洋風建築の白壁を漆喰のなまこ壁でそれっぽくするとか、まあ創意工夫といってしまえばそうなんだけど。

 あとちょっと思ったのは、来日したお雇い外国人たちが意外と若い。たとえば鹿鳴館、上野博物館、ニコライ堂などを設計したジョサイア・コンドルは来日したときにまだ25歳という若さだった。彼が教え、日本の建築家の先駆けとなった 辰野金吾や片山東熊とは実は2歳くらいしか歳が違わない。ずいぶんと若造が同じくらいの学生を教えていたという訳だ。

 さらにいえばとても本国では大きな仕事を請け負うことができない学校を出たばかりの建築家の卵が、地の果ての東アジアの小国に招聘されて、自由に大きな建築に携わったということだ。もちろん金もかけ放題だ。これはもう若き建築家にとっては夢のようなことだっただろう。

 考えてみて欲しい、東大や早稲田の建築を出たばかりの若者が、都庁や迎賓館の設計などできるものか。そういえば同じお雇い外国人で、明治の美術行政に大きくかかわったアーネスト・フェノロサも1878年に来日したときはまだ25歳だった。そして彼の指導を受けた岡倉天心は1863年生まれでフェノロサの10歳下だった。教える方も教わる方も、あの時君は若かったと。

 お雇い外国人というと、なにか自国で食い詰めたオールドな知識人、もしくは知識人もどきが来日したような感じもしないでもないが、実際は大学出たての理想と野心満々の若者たちが東洋の地で思い切り、能力を発揮してみようみたいなことだったのかもしれない。

 とはいえお雇い外国人とその弟子たちによって建てられた建物は、工期も短い、とにかく欧米化を急がせる明治政府の意向もあり、相当に安普請であったのだろうか。たいていが明治期の後半には立て直されたり、取り壊されたり。それに拍車をかけたのが1923年の関東大震災で、ほとんどが灰燼に帰してしまったようだ。

 西欧に築数百年という遺跡、遺構のような建築物が多数現存し、今も実用されているのは、結局欧米に地震が少ないからということもいえるのかもしれない。紙と木で造られた安普請の建物は、地震大国でスクラップ・アンド・ビルドが可能とする、東アジアの辺境国の文明の知恵だったりとか、まあ適当に考えてみる。

 どこかのキャプションで読んだのか、なんとなくそう自分が思っただけかもしれないが、当時の明治政府の役人や政治家は西洋建築の完璧なコピーを求めていたのに対して、お雇い外国人建築家やその弟子たちは、どこかで日本風の装いを残した洋風建築を意図したみたいな、そういうギャップもあったとかなんとか。

 明治初期にあってはなんとなくありがちな感じもする。とにかく明治政府にとっては急速な欧米化による不平等条約改正は急務でもあったので、なにからなにまで欧米化することが必要だったのだろう。おそらくその流れが変わったのは日清、日露戦争による勝利とともに欧米の猿真似ではない国粋的なナショナリズムの勃興だったのでないか。もっともそれがどのくらい建築の意匠に影響を与えたのかはわからないが。

 とりあえず展示物やパネル類は楽しい。

 

 

 これは小林清親の《海運橋(第一銀行雪中)》だったか。観ているときにはちょっと思い出せず、え~と川瀬巴水じゃなくて、吉田博でもなくて、確かそのへんと友人には適当に話した。

 これでしたね。

 

 《海運橋(第一銀行雪中)》 小林清親 1876年(明治9年頃)

 

 

 明治期の錦絵(赤絵)も多数展示されていた。たしか三代目歌川広重とかそのへん。あと小林清親の弟子だったか井上安治の作品の多数展示されていた。この人は小林清親が描かなくなった光線画を継承した人だったけど、24歳の若さで亡くなっている。清親の後に光線画を担ったが、その後は錦絵的な作風に変化したとも。

 光線画は清親、安治の二人で終わり、そこから断絶した形で新版画が生まれ、風景画は川瀬巴水、吉田博らに新しい形で継承されていく。たぶんよりモダンなイラストライクな形で。それを思うと浮世絵版画の明治期の系譜として光線画をもっと知りたいとも思ったりもする。光線画というと小林清親ばかりにフォーカスされがちだが、井上安治の作品に絞った企画展なども面白いかもしれない。

 そういえば杉浦日向子のマンガに『YASUJI東京』というのがあるそうだが未読だ。杉浦日向子が亡くなったのは2005年だったか。もう20年以上になるのか。自分より2歳下だから生きていれば68歳。江戸文化の権威的存在になっていたかもしれない。今は田中優子一人勝ちみたいな感じもしないでもないか。没後20年でとくに回顧展的なものはなかったのがちょっと悲しいところだ。といってまだまだ忘れられた漫画家とはいえないとは思うのだが。

 井上安治の墓所は父親の出身地である川越にあるという。ここはひとつ川越市立美術館あたりで回顧展でもやらないものか。

 

《海運橋》(東京真画名所図解) 井上安治 明治前期

 

《駿河町夜景》(版画東京百景) 井上安治 明治前期

 

 実はこの江戸東京博物館は企画展もさることながら常設展が凄い。6階、5階が展示コーナーになっているのだが、それぞれが天井が高く全体としては4フロア分くらいある。

展示|江戸東京博物館

 

 正直、この展示コーナーだけで一日費やすことできそうな感じがする。建物や江戸の街並みの模型がおそらく原寸の1/20とか1/30で再現されている。イメージ的にはかなり規模の大きい屋内展示施設での、江戸・東京に特化した東武ワールドスクェアみたいな感じだった。

 

 

 

 

 

 

 

 
 

朝顔売り

蕎麦屋の屋台、これを担ぐのはかなりの重労働

版木なども

 そして昭和の時代ではひばりが丘団地の原寸風景とか。このへんは団地住まいの経験があるので、なんとなく郷愁を誘う。

 

 

 いやはや。1時過ぎに入館して、観終わって出たのが6時過ぎ。金曜日なので夜間開館もしているようだったが、もうこっちはへとへとになった。おまけに帰りのエレベーターがちょっと未来チックでけっこうワクワクさせてくれる。

 

 

 

 という訳でけっこう満足しました。その後は両国の安い飲み屋に入って、ダラダラと本日の反省会をしました。たぶん2時間くらいだったけど、二人で4千円しなかったのは相当に安い。なんか生ビールが一杯199円とか、レモンサワーが88円とかそんなんだった。いったいどんな酒が入っていたのだろう。

西洋美術館へ行く① 「版画家レンブラント」(8月1日)

 西洋美術家へ行く。5月以来だろうか。

 二日前にも上野の美術館に来ているのだが、東美の「百花繚乱」、上野の森の「大ゴッホ展」の混雑にちょっとばかり閉口してる部分もあり、たぶん西洋美術館ならさほど混んでいないかなと思ったり。しかも週末の夜間開館ならばかなり期待できるのではないかと。

 家を出たのは4時15分過ぎ。そう、西洋美術館は金、土、日は夜間も開館していて夜8時まで。上野駅に着いたのがだいたい6時ぐらいだったので、ジャスト2時間鑑賞可能。

 最初は常設展だけと思ったのだけれど、いざ門をくぐって屋外展示のロダンの間を後追って切符売場にたどりつくと、やっぱり企画展示もいいかなと。

 

 

 展示室に入ると空いているという印象。いやこれは全然人がいないというのではない。鑑賞者はそこそこいる、ウィークデイの常設展なんかよりも多分人は多い。でもなんていうか人がバラけていて、ほどよい隙間がある。じっくり観ている方の後ろをすり抜けてその次の作品を観て、それからまた戻るとか、そういうのが自在にできる。これが美術館の理想的な鑑賞だよなと、二日前の東美と上野の森の喧騒、長蛇の列を経験しているだけに、西洋美術館の夜間開館はもうなんていうか、天国の美術館にいるような感じになった。

 今は国立美術館は独立行政法人なので、たいていの美術館が週末の夜間開館を実施している。なので西洋美術館や近代美術館では至福の時間を味わうことができる。まあ今回のように正味2時間というのはちょっとギリっぽいので、できれば5時前後に入るといいのかなと思ったりもした。

 「版画家レンブラント 挑戦、継承、インパクト」

版画家レンブラント 挑戦、継承、インパクト|国立西洋美術館

 今回の企画展は、オランダ、アムステルダムのレンブラント・ハウス美術館の所蔵するレンブラントのエッチング作品や資料約と西洋美術館所蔵の20点余、さらに国内外の美術館、大学図書館、個人所蔵品などで作品、資料約130点で構成され、それが同時代および続く時代に与えた影響を見ていく企画。

挨拶抜粋

このたび「版画家レンブラント 挑戦、継承、インパクト」展を開催する運びとなりました。
レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン(1606-1669年)は、集団肖像画く夜警〉)をはじめ数々の傑作を残した17世紀オランダの代表的画家であると同時に、版画史上最大の巨匠とも評されます。
版画家としてレンブラントが取り組んだエッチング技法は、17世紀初頭当時、歴史的な転換期を迎えており、伝統にとらわれない新しい表現が兆しつつありました。彼はそれを自身の造形言語の基盤として深化させ、みずからも同技法の可能性を拓いていきます。
尽きせぬ探究心から生み出された300点の作品は、エッチングのあり方を変容させ、以降の展開を導くものとなりました。その影響は17、18世紀のヨーロッパ各国へ広く波及し、さらに19世紀には、自由な精神を重視する芸術家たちに高く評価されます。20世紀美術の双璧をなすマティスとピカソも、過去の巨匠にオマージュを捧げました。

 

 まずは基礎知識についてのおさらい。今回の企画展では、エッチングについての解説パネルがあり、基本知識をおさえることができる。以下引用します。

 

エッチングとは

エッチングは、木版画やエングレーヴィングとともに、17世紀ヨーロッパで広く普及した版画技法である。
原版に銅板を用いる銅版画の一種であり、腐蝕によって銅板にイメージを刻む手法を用いるため、腐蝕版画とも呼ばれる。

【制作プロセス】

  1.  銅板を耐酸性の物質(グラウンド)でコーティングする。
  2.  グラウンドの被膜の上から、針状の先端を持つ道具(ニードル)で引っ掻くように描画する。すると、描画した箇所の被膜がはがれ、金属の表面が露出する。
  3.  2の状態の銅板を酸性の液体に浸すと、露出した面の金属が腐蝕され、描画した線に沿って溝が生じる。このとき、腐蝕時間が長ければ長いほど線は太くなる。また、部分により腐蝕時間を変えて、画面上で線の強弱をつけることも可能である。
  4.  完成した原版の溝にインクを詰める。余分なインクは拭き取る。
        5. 原版に紙を乗せてプレス機にかける。圧力で紙が溝に食い込み、中のインクを引き出し、イメージが転写される。

【エッチングの線描表現】
エッチングの最大の特徴は、ペン素描のように自由な線描表現である。これは、17世紀ヨーロッパで普及していた版画技法において、決して一般的な特徴ではなかった。エッチングと同じ銅版画技法であるエングレーヴィングでは、硬い銅板に直接ビュランと呼ばれる盤でイメージを刻んで原版を作るため、線描はシャープで直線優位、ともすれば機械的ですらある。
これに対してエッチングでは、銅板に描画する際の制約が小さく、ゆえに自在な線描表現が可能である。レンブラントは、その可能性を追究するとともに、力強いエングレーヴィングの線や、ドライポイント(専用のニードルで銅板に直接描画する技法)を用いることで生まれるインクのにじみの効果も組み合わせ、エッチングの線描表現をより豊かなものとした。

【エッチングの歴史】
エッチングは、1500年頃、ドイツのアウクスブルクで誕生した。もっとも、その後約1世紀は、主としてエングレーヴィングの代替技法として扱われた。硬い銅板をビュランで彫る困難で時間のかかるプロセスを腐蝕作用によって行うエッチングは、いわばエングレーヴィングの簡易版とされ、制作にあたっては、同技法の規則正しく直線優位な線描の再現が目指された。一部では、エッチング特有の表現を追究する動きも生まれたが、それが大きな流れになることはなかった。
17世紀オランダでは、こうした状況に変化が生じる。きっかけとなったのは、版画家としての訓練を受けた経験のない画家たちがエッチング制作に参入したことであった。彼らは伝統にこだわらず、エッチングならではの表現を自由に探求する。1625年頃エッチング制作に着手したレンブラントは、そうした潮流に倣い、やがて自らが牽引者となってエッチング技法の可能性を拓いていった。その多様な試みは、国境、世紀を超えて、多くの作家たちに重要な感化をもたらすこととなる。

西洋美術館「版画家レンブラント 挑戦、継承、インパクト」より

 パネルの下にはモニターで解説動画もある。これはYouTubeでも閲覧できるようになっている。

 

 

 とにかく細かい作業の連続。これはなんていうのだろう、クラフトワーク(工芸)の範疇といっていいのか。ある意味職人芸。多分、この制作工程は実際には、彫る人、腐食させる人、刷る人と分業制で行われていたのかもしれない。浮世絵版画がそうであるように、まず下絵職人がいてオリジナル作品から下絵を作り、これに彫師がいて、ひょっとして腐食師とかもいて、さらには摺師があのプレス機を使って一枚、一枚摺り上げていく。おそらくそうした工房があり、それぞれに徒弟的な職人がいたのだろう。

 レンブラントは画家としてでだけでなく、エッチングに早くから目をつけ、自ら絵師として下絵制作を行うようになった。そしてエッチングの様々な表現技法を試行錯誤していったのだろう。

 なぜエッチングに目をつけたのか。たぶん適当に想像するのだが、金になったからだろう。画家は一点ものの注文作を描いて生計を立てている。当時の画家はほぼ全員そうである。大口の注文を受けて、数をこなすことで評判が評判を呼び、さらなる注文が次々と舞い込む。レンブラントは比較的早くから評判を呼んでいたから、おそらく工房を構えて、次々と注文を受けいったに違いない。

 画家の工房はおそらくルネサンス期あたりから成立し始めたのだろう。売れっ子の画家のもとには弟子として若い画家志望の子どもたちが集まり、丁稚奉公のようにして様々な制作作業を分業していったのだろう。

 おそらく大先生は素描だけして、色付け、彩色は弟子にやらせる。大きな工房であれば、彩色も下塗りから仕上げまで分業されていて、最後に大先生がちょっと手を加えてみたいな。まあ適当に想像しているだけなので、本当かどうかは判らない。そういうことに詳しい書籍があったら、読んでみたい。ここまで書いていて、これって日本のマンガの売れっ子作家のプロダクションと同じだなと思った。

 中世、近世、近代、画家が一枚一枚、それこそ素描、下絵から実作の制作まで一枚、一枚描いていったのかどうか。近代の画家、たとえばバルビゾンや印象派の画家たち以降は、ほぼ全行程を一人で描いていったかもしれない。でも中世、近世は分業体制で行っていたのではないかと、そんなことを思う。そうでなければ例えばリューベンスやベラスケスみたいに、大画面の作品を多数描けるのかどうか。

 中世、近世を通じて、画家たちの注文主は、教会や王侯貴族たちだった。しかし宗教改革を経て、教会権威が低下し、また王侯貴族の権力、地位も低下していく。それに呼応するように新興的な商人や官僚たちが相対的に地位権力をつけ、ブルジョワジーが勃興していく。おそらく近世から近代にかけてはそうした社会情勢の変化が生じていた。

 当時のオランダはプロテスタント社会だったので、偶像崇拝が禁止されていた。そのため教会による画家への注文がなかったはずだ。おそらく絵の注文は新興ブルジョワが担っていた。でも彼らが大画面の巨大絵画の注文などはしなかったはずで、自宅に飾ることができる小品が中心になった。

 それまで教会や王侯貴族が潤沢な資金で注文していたようなものに変わって、小型の作品を次々を描き続けなくては、画家の生活は豊かになっていかない。そうなるともっと割りのいい、効率のよい販売方法を考えなくてはならない。そこで目をつけたのが、小口木版画に変わる銅版画だったわけだ。そこでも日々技法、技術が刷新され、エングレービング、エッチング、ドライポイントなどの技法、手法が生み出される。

 それを15世紀オランダで主導したのがレンブラントであり、今回の展覧会での版画家レンブラントというテーマの背景にあるものかなと、まあこれも適当な思い込みとあてずっぽうとではある。

 それでもレンブラントのエッチング作品は割安だったのかというと、そうでもないようだ。それはやはりレンブラントが超売れっ子画家だったからでもある。今回の企画展でのレンブラントのエッチング作品のハイライトともされるのが《百グルデン版画》(1648年)である。これは『マタイによる副申書』19章の諸場面を一枚の絵の中に描いた異時同図的作品だ。

 この作品が《100グルデン版画》と呼ばれたのは、当時の版画としては破格の100グルデンの高値で取引されたことに由来している。

 試しに、AIに1600年代の100グルデンを現在の円に換算するとどのくらいか聞いてみた。

1600年代の100グルデンを現在の円に単純換算することはできません。当時の銀含有量(1グルデン=銀約3.4〜5.6匁)や、江戸時代の元禄期(100グルデン=元禄小判約5両)との比較、現代の購買力に直すと数万円から数十万円程度の価値に相当すると推測されます。

貨幣量・当時レートによる換算
  • 銀の重さ: 1600年代後半の記録では、オランダの1グルデンは銀約3.4匁〜5.6匁に相当しました。100グルデンであれば銀340〜560匁となります。
  • 江戸時代との対比: 元禄年間(1695年〜)の相場では、元禄小判1両が約20グルデン(100グルデン=約5両)に相当していました。当時の小判1両の価値(現代換算で数万円〜10万円前後)を基準にすると、5両分は約25万〜50万円程度の計算になります。

現代の購買力による目安

    • 歴史的な物価や日雇い賃金(当時1日の賃金が銀2.3匁前後)から逆算すると、100グルデンは当時の一般的な労働者の数ヶ月分の収入に匹敵する額でした。  

     ということで大量頒布可能なエッチング作品がアバウトに約25万~50万程度になるということで、これは画家にとっても工房にとってもいい稼ぎになったことだろうと思う。となると真筆の油彩画でそこそこ大型の作品をレンブラトに注文すれば、おそらく数百万以上はしただろうなということになる。まあこのへんは詳しい学者さんの領域になるので、あくまで適当なあてずっぽうです。

     そしてその100グルデン版画がこちら。

    《百グルデン版画》 レンブラント 1648年頃 西洋美術館

     

     レンブラントは油彩作品でも自画像がやたら多いのだけど、エッチングでも初期作品には自画像が多い。モデルを雇う金がなかった訳でもないだろうし、やっぱり相当のナルシストだったのだろうか。

     

    《自画像、口を開けた顔》 レンブラント 1630年 
    レンブラント・ハウス美術館

     

    《柔らかい帽子をかぶり模様つきの外套をまとう自画像》 レンブラント 1634年
     西洋美術館

     

     そして奥さんのサスキア大好きなレンブランド。

    《サスキアの頭部習作5点および年嵩の女性の頭部習作》 
    レンブラント 1636年 レンブラント・ハウス美術館

     

    《十字架降架》 レンブラント 1633年 
    レンブラント・ハウス美術館

     

    《司教の墓のある都市の眺望》 カナレット 西洋美術館

     

    《戦争の惨禍》79:真理は死んだ ゴヤ 1910-20年頃 西洋美術館

     

    《あばら家》 シャルル=エミール・ジャック 1843年 
    レンブラント・ハウス美術館

     

    《農場の中》 シャルル=エミール・ジャック 1845年
     横浜美術館(小島豊氏寄贈)

     

    《ヤン・シックスの肖像》 レンブラント 1647年頃 
    西洋美術館

     

    《版画を彫るアンリ・マティス》 マティス 1900-03年
     西洋美術館

     

    「大英博物館 日本美術コレクション百花繚乱」展に行く(7月30日)

     東京都美術館で開かれている「大英博物館 日本美術コレクション百花繚乱」を観てきた。

     最初はちょっと上野の森のゴッホにも興味があったのだが、こちらは相変わらず滅茶混みの様子。ならば始まったばかりの東美のこちらにと思った。

     東美の方は切符売場も入り口もさほど混んでいる印象はなかった。でも入ってみるとけっこう混んでいる。浮世絵など小品が中心なんだけど、みんな列をなしていて、キャプションや音声ガイドの指定のある場所でじっくり立ち止まって観ている。なので列はまったく進まない。要するに混んでいるということだ。

     いつもなら車いすの妻は列に並んで観る、自分は列を離れて空いている場所を見つけて観るみたいなことをするのだけど、今回は出来れば短時間で観る。目標として滞在時間1時間半とアバウトに決めていたので、ずっと車いすを押して鑑賞したのだが、列に並んでゆっくりと進みながら観るというのは、たいへんにストレスだったりもする。

     浮世絵版画は別に大英博物館所蔵ではなくても、国内の美術館で所蔵しているものも多い。だいたいにおいてトーハクにいけば観ることはできるし、それ以外でもMOAや富士美などでも定期的に所蔵品展やったりしている。なのに春信、歌麿、春章、北斎、広重などをじっくり観るのは、なんていうか微妙。とにかく並ぶ、進まないストレスがマックスで、どんどんとマイナスイメージになっていったりもした。

     

     今回の企画展は、世界最大級の規模を誇る大英博物館の約4万点にも及ぶ日本コレクションの中から、江戸時代の屏風、掛け軸、絵巻の絵画作品、歌麿、写楽、北斎、広重など代表的な浮世絵師の版画を中心に紹介するというもの。さらに初の里帰りとして、収集され海を渡って以来初めて日本に帰ってきた名品も数点展示される。

     大英博物館というとロゼッタストーンやモヤイ像、双頭の蛇など、大英帝国の海外進出によって収奪された各国の名品が多数収蔵されている。修学旅行でパリ、ロンドンへ行った子どもも、ルーヴルと同じくらい、あるいはそれ以上にインパクトがあったとか言ってたミュージアムだ。

     そういう点でいえば日本の美術品も戦前に買い叩かれて海を渡ったのだろうなと推測したりもする。一方でもし海を渡らなければ、そうした美術品は行方不明になったり、ずさんな国内の管理で破損してしまったりとかもあったかもしれない。世界でも権威のある博物館に収蔵されたことで、きちんと保存管理されているとポジティブに考えたほうがいいのかもしれない。

     

    《飛鳥山の花見》 鳥居清長 1887年頃

     以前、放送大学の日本美術の講義で遠近法についての章だったか、歌麿の《江ノ島岩屋の釣り遊び》がとりあげられ、遠近法が未消化であること、あたかも巨人族の美人画のようだと講師が語っていた。この《飛鳥山の花見》もさながら、巨人族の美女による花見のような趣がある。すらりとした八頭身美人を名所に配した鳥居清長も、やはり遠近法が未消化であり、中景、後景との関係においては巨人的であり、それに対して禿は小人のような印象もある。

     この絵を観て思ったのが、江戸時代の道路は当然舗装されていないし、この飛鳥山の地面も一面の緑ではないはず。そこで着物をひきずって歩くとなると、女性たちの着物の裾はさぞや泥だらけだっただろうし、草履や下駄に素足であれば足も泥だらけだったのだろう。当時の人々は毎日風呂に入るわけでもなく、頭などはひと月に数回洗うだけだったはず。着物もそう簡単に洗うこともできないだろう。

     それを思うと煌びやかに描かれた美人画も、リアルズム的にはずいぶんと違うものだったのだろうな。当時は体臭も普通だろうし、着物ももっと薄汚れていたのだろう。現代の清潔社会の物差しでは考えてはいけないのだろうと、おおよそ美術鑑賞とは程遠いことを考えていたりして。

     

    《文読む遊女》 喜多川歌麿 1804年~1806年頃

     初の里帰り品の一つ。歌麿の肉筆は世界でも50点ほどしかなく、そのなかでももっとも大ぶりの作品で2011年に発見された作品。この発見とは、大英博物館所蔵の膨大な日本コレクションの中で、この作品が調査のうえで2011年に歌麿の真筆と特定されたということを意味している。

     

    《虎の子渡し図屏風》 円山応挙 1781-1782年頃

     虎の子渡しとは、中国の故事によるもの。虎が三匹の子を産むと、一匹が彪(ひょう)という虎の変種で気性が荒く他の子を食べる性質をもつ。そのため母親は川を渡るときにまず彪を対岸に渡してから戻る。そして他の一匹を渡してから、今度は対岸の彪を連れて戻り、次に残る一匹を渡す。そして最後にふたたび戻って彪を渡した。

     ここから転じて、大事な金銭や子どもを大切にすること、生活のやりくりに非常に苦労することのたとえとして「虎の子」や「虎の子渡し」という言葉が使われることになったのだとか。「虎の子」とはよく聞くが、その由来がこういう故事からきているとは、初めて知った。長生きはするものだ。

     この応挙の屏風絵も初めて里帰りした作品だ。

    東京国立近代美術館へ行く(7月16日)

     久々、東京国立近代美術館(東近美)に行ってきた。前回が下村観山展で3月だったからずいぶんと空いた感じがする。勤めていた頃は都内で会議や打ち合わせがあって早めに終わるとちょっと寄ったりとかしていて、年間4~5回は行っていたのだが。今は週に一度都内で聴講生しているのだけど、終わるのが6時近くなのでその後に行くのは難しい。授業の前に午前中とかに行けばいいのだけど、ちょっとね。年のせいにする訳でもないが、だんだんといろんなことが億劫になる。そういうものだ。

     

    杉本博司 絶滅写真

     企画展は写真家杉本博司の回顧展。でも写真はまったく分からないし、知識もないので杉本博司がどういう人なのかも実はわからない。

     

    杉本博司 - Wikipedia

     

     1948年生まれの78歳、団塊の世代だな。「1970年渡米、1974年よりニューヨーク在住、東京およびニューヨークを活動の拠点としている」、そして当時MoMAが行っていた写真家による作品持込みで、キュレーターに評価され作品が買い上げられるとか、けっこう凄い経歴の持ち主。

     そして今回の企画展の「絶滅写真」。これまでの動かない模型を写した「ジオラマ」シリーズ、一本の映画を白い光へと還元する「劇場」、ひたすら水平線を写した「海景」、焦点を意図的にぼかした「建築」、衣服をマネキンに着せ、あたかも身体の延長上の皮膚として捉える「スタイルアライズド・スカルプチャー」、蝋人形を生きている人物のようにリアリティを込めて写した「肖像」などなど。

     杉本博司の作品は、綿密に構成・配置された対象を銀塩フィルムに写したコンセプチュアル・アートである。そして今回テーマ化された「絶滅写真」とは、すでに写真がデジタルに置き換わる状況にあって、銀塩写真という技術の終焉に自らの作家活動の終幕を重ねたもののようだ。

     今回、ほとんど事前情報をもたないままに観た感想を、いつもの思いつき的に羅列していくとすれば、まず杉本博司によるコンセプチュアル・アートとしての作品は、写真の特性である静的な画像ということを強烈に意識している。おそらくその対極にある動的な映像作品に対峙するスティール写真というものだ。そしてその静的な特性から選ばれた被写体もまた静的な対象、死んだもの、固定化されたものということになる。

     「ジオラマ」シリーズがおそらくニューヨークの自然史博物館に展示された模型にインスパイアされたものではないかと思うのだが、当然あれは剥製やら模型の人間やらが静止して、ありし日の姿として絶滅=死を展示してある。それをあたかも生きているものを静止画像として記録したかのように写し出したのが「ジオラマ」シリーズ。いわば杉本博司は最初から死=絶滅をコンセプトにした写真作品を写してきたのか。

     彼が撮った劇場は、人々で賑わう娯楽的空間ではない。すでにそこでは演じるもの、映し出す映像がない、死滅した劇場空間である。しかもそこには劇場を構成すべき演者も観客も不在。絶滅した劇場空間。

     すでに故人となった歴史上の人物、あるいは実在する人物をまるで生きてそこにいるかのように作り上げたマダム・タッソーの蝋人形。その中からすでに死んだ有名人たちをまるで生きているかのような肖像写真にしたてた「肖像」もまた絶滅写真の表象であるかもしれない。すでに実在しない人物をあたかも生あるもののごとくにポートレートにする。それも絶滅写真のアプローチ。

     そのようにして静止画像という写真の特性はすべて死、絶滅と直結したスタティックなものかもしれない。そんなことを思いながら杉本博司の作品群も観ていた。

     

     

     
     

     

     

     

     

     キャプションに添えられた杉本博司のコメントというか歌というか。これが微妙にツボをついてくる、笑える。確かにモンドリアン風だ。

    モンドリアンを想う

    モダニズムの十字架まとうドレスかな

    罪をせおいて磔刑に処さん

     

     

     

     

     

     

     

     

    常設展示

     4階ハイライトのトップには北野常富。やっぱり企画展が写真なので? 考えすぎだろうな。

     

     

     

     

     

     そして小倉遊亀の《浴女その一》《浴女その二》が並列展示されている。ハイライトでこの二点の同時は以前観たことがあっただろうか。小倉遊亀というか、女性画家が描く入浴や裸婦をモチーフにした作品には、男性画家が描くような煽情性、覗き見るような視線がないとは、この絵のキャプションにあった。それはちょっと違うような気がする。女流画家であっても、求めに応じて、あるいは売れるとなれば、煽情的な作品はいくらでも描けるし、かえって女性の妖艶さについては熟知しているかもしれない。この絵にある種そうしたセクシャルなものが感じられないのは、単に小倉遊亀の個性と彼女にそういう気がないからに過ぎないのかもしれない。

     この絵は多くの方が指摘するように、上方と水平からの二つの視点が不自然さを感じさせないように融合されている。空間の歪みはそのまま浴槽内のタイルが湯の中で歪むのと呼応していて、かえって自然さを感じたりもする。

     

    《餓鬼》 古沢岩美 1952年 油彩・キャンバス 作者寄贈

     この絵が戦中に描かれた戦争記録画と同じフロアに展示されていることは重要かもしれない。戦争賛美の果てに敗北した戦争、そこでは痛ましい傷痍軍人の姿と、背景には日本軍が犯した様々な戦争犯罪が散りばめられている。キャプションによれば、当時の批評家から「動機は理解できる。しかし出来上がったものは醜悪きわまるものだ」と酷評されたという。

     でも戦争のリアルな醜悪さはおそらくこの絵の遥か上をいくのではないか。古沢岩美は日本のダリと称されたシュールリアリズムの画家だったようだ。この絵もシュールといえばシュールだが、その具象性はどこかロマン主義的だ。鮮やかでややもすればギトギトした色彩は、自分には色鮮やかに修復されたドラクロワの記録画の色彩と似たものを感じたりもする。

     

    《昭和二十一年筑豊之図》 タイガー立石 1965年 油彩・キャンバス

     新収蔵作品。タイガー立石は筑豊に生まれ育ったという。絵自体はイラスト的に図案化された戦争、空襲、飛び交う菊の御紋など、戦争と旧体制への批判が込められている。なのだが、この絵画の下に垂れ下がった赤い布はなにをイメージしているのだろう。普通に戦禍のもとで流れ出た市民の血ということなんだろうか。

     

     

    《Midnight Circus》 漆原英子 1953-54年 油彩・キャンバス

     これも新収蔵作品。というか漆原英子という画家のことはまったく知らない。1929年生まれで2002年に亡くなっている。1950年代からこうした超現実的な作品を描いていたようだが、たとえば今年の2月に東近美で開催された50年代の女流芸術家による前衛芸術作品を集めた「アンチ・アクション」でのこの作家はとりあげられていない。

     せっかく新収蔵作品なのだし、できれば作品のキャプションには画家の略歴なども欲しいところだ。以前、東近美の図書室で見つけ、古本屋で入手した神奈川県立近代美術館の学芸員によって編まれた『近代日本美術家列伝』という本をけっこう重宝している。といってもこの本は日本の近代美術のジェンダーバイアスをそのまま映したように、女性画家はほとんど取り上げられていない。

     できればこういう画家事典、列伝的なもので、近代、あるいは現代の女流美術館のものをどこぞで出版してくれないかと、そんなことを思ったりもする。

     この《MIdnight Circus》は切子的なある種キュビスムとシュールリアリズム要素がてんこ盛りされているような作品だ。

     

    《夏山三題》 結城素明 1918年 絹本着色

     これは三階の日本画コーナーにあった。やはり新収蔵作品で、画家が木曽を旅行した際のスケッチを元にした風景だという。右から「雲の嶺」「谿(たに)の邑(むら)」「白き磧(かわら)」。

     よくよく見ると、細かく人や馬が添景として描かれている。それがなんとなく味わい深く思える。

     

     

     

     

     結城素明は川端玉章の天真社で学んだが、同窓に平福百穂がおり二人は意気投合し、終生親友として交友したという。それもあってか同じフロアには平福百穂の《堅田の利休》も展示してあった。

     

     

     日本画コーナーのガラスケースでは菱田春草の《四季山水》が展示してあった。これは1909年から春草が亡くなる前年の1910年にかけて描かれた全長9.5メートルの長大な絵巻物である。眼病で療養していた時期に、支援者だった秋元酒汀への感謝を込めて描いた作品だ。

     秋元酒汀は千葉流山の味醂醸造家で、眼病に苦しんでいた春草のため生活支援として毎月25円を送金し、春草の代表作である《落葉》、《黒猫》を真っ先に購入したという。

     この《四季山水》は全長9.5メートルと大作。同じ絵巻物としては春草の盟友横山大観の《生々流転》の40メートルが破格だが、彩色、そしてその雰囲気、構成など、技術的にしても作品の質としても、なんとなくこっちの方が上ではないかと思ったりもした

     

     
     
     
     

    さらに気になった作品

    《大紅蓮》 前本彩子 1986年 ドンゴロス、アクリリック、巣偉大塗料、ラメ、針金

     これも新収蔵作品。キャプションによれば背景の文様はマティス風にしたとあるが、これはもう完全にマティスそのものかもしれない。

     中央の身体のない空虚なドレスを作家は「人ならざるもの」と形用したとはキャプションにあった。

     

     

    《横たわる少女》 イケムラレイコ 1997年 油彩・キャンバス

     これは大好きな作品。なにか久しぶりに観たような。

     

     

    《Waterfall》 白井美穂 人工毛髪、木 

     これも新収蔵作品。これは以前、おそらく府中市美術館で開かれた白井美穂の個展で観た記憶がある。そのときは確か作家蔵だったはずだが、そうか東近美が購入したのか。

     タイトルにあるとおりこの黒い何かは「Waterfall」、滝をイメージしたものだが、なにせ素材が人工とはいえ毛髪である。

     

     この作品を千住博と一緒に展示したら、どんな反応となるか。ちょっとだけ想像してみた。

     

     そして最後というか締めは奈良美智で。これは4階ハイライトの一番最後に展示してある。

     

    《《Harmless Kitty》 奈良美智 1994年

    池田20世紀美術館「入江観展 空遥か」(7月11日)

     伊豆小旅行最終日の午後、池田20世紀美術館を訪問。

    入江観展 空遥か

     今回の伊豆旅行の目的の一つ、入江観の回顧展。

    公益財団法人池田20世紀美術館

     

     6月の伊豆旅行の際にはまだ始まっていなかったので、是が非でも行かなくてはということで。これが6月、7月と続けて伊豆を訪れた理由でもある。

     入江観のことは小杉放菴記念日光美術館で知った。入江自身が日光出身であり郷土の画家ということもあり、何度かこの美術館に行くようになると、この画家の作品を目にするようになる。そして「蒼天の画家」といわれるだけあって、鮮やかで多彩な青系の色遣い、静謐で詩情豊かな雰囲気になんとなく惹かれていく。

     5月に日光を訪れたときにも1点『ドンキホーテ』という作品を観た。同時に今回の回顧展のポスターが貼ってあり、それを見てこの展覧会は来たいと思った次第。

     改めて入江観について。

     1935年(昭和10)に日光で生まれ。1953年に東京芸術大学美術学部芸術学科に入学。油絵を学ぶのではなく芸術学科である。これは旧制の東京美術学校時代の師範科に代わるもので、美術史や美術理論を学ぶ科であり、将来的には美術史や美学の研究者、あるいは美術教師を養成する。そこで美術理論を学びながら、加山四郎に学び在学中の1956年に春陽会に初入選。大学卒業後は公立高校の美術教師をしながら、春陽会で岡鹿之助、三雲祥之助らの指導を受ける。

     1962年にフランス政府給費留学生として渡仏し、エコール・デ・ボザールで画家モーリス・プリアンションに師事し、セザンヌの作品を見るため頻繁にジュ・ド・ポーム国立美術館(印象派美術館)に通った。

     1964年に帰国後は、春陽会会員として制作を行い、また女子美術短期大学で教鞭をとり、1967年、短大の茅ヶ崎校舎開講にともない茅ヶ崎に転居し、海辺の風景を描くようになる。その後は旺盛な制作活動を続けながら、毎年春陽会に出品し、同会をけん引していく。さらに女性美術大学名誉教授、女子美術大学付属高校・中学校校長などを歴任した。

     現在91歳ながら制作活動を続けている。

     初期の画風は、セザンヌに私淑したといわれるくらいに傾倒し、その筆触、構築的な画面構成や色遣いなどすべてにわたって本人が自称するごとく「セザンヌかぶれ」を実践していった。しかし1967年に茅ヶ崎に転居して以来、海辺の景色を水平線と消失点に向かう直線的な線——それは道路であったり、海辺に桟橋であったりする——を意識したやや写真的な風景画を描くようになる。そこには詩情と様々な青、緑のバリエーションあふれる色彩感覚がある。入江観の青や緑の色彩は、様々に変化する風景をグラデーション化する。そこが「蒼天の画家」といわれる由来かもしれない。

     

    《横顔》 1956年 作家蔵

     1956年、春陽会展に初入選したある意味画壇デビュー作品。藝大在学中の21歳の時のもの。藝大では彫刻と素描を山本豊市、油彩を加山四郎に学んだというが、この絵の画面構成には彫刻的な意匠が感じられる。

     

     

    《走れ》 1959年 個人蔵

     

    《白い馬》 1960年 小杉放菴記念日光美術館蔵

     第37回春陽会展で春陽会を受賞した作品。

     

    《風車売》 1962年 小杉放菴記念日光美術館蔵

     これが多分、自分が観た入江観の最初の作品。そしてもっとも好きな作品。色遣い、筆触はセザンヌそのもの。そして入江の構図への一貫した拘りともいえる水平線と縦に伸びる線との交差による画面構成が顕著に表れている。複製画でもいいので、部屋に飾りたくなる一枚だ。

     

     

    《自転車》 1968年 株式会社フジ・メディア・ホールディングス蔵

     

    《サンジョルジュの道》 1994年 小杉放菴記念日光美術館蔵

     

    《トスカーナの道》 1995年 小杉放菴記念日光美術館蔵

     

    《森の日曜日》 1996年 茅ヶ崎市美術館蔵

     

    《海辺の丘》 1995年 茅ヶ崎市美術館蔵

     

    《突堤の人々》 2018年 茅ヶ崎市美術館蔵

     

    《双雲》 2019年 世田谷美術館蔵

     

    《海のテラス》 2022年 神奈川県立近代美術館蔵

     

     

     館内は画家の絵と同じように静謐とした雰囲気。その中で白髪の老人がポツンとベンチに座っていた。時折、鑑賞者と談笑されていたりもした。その前にベンチに置いてあった図録をペラペラとめくっていたのだが、その巻末に画家のポートレイトが載っていて、どうも画家本人のようだった。

     

     帰りに一階の受付で図録を購入した。すると受付の女性がこんなことを仰る。

    「先生がいらっしゃっていますけど、サインをいただいたらどうでしょうか」

    「やっぱり、館内にいらっしゃったのは先生でしたか」

    「そうなんです、今日はなにかふらりとお一人でいらっしゃいました」

    「サイン、大丈夫なんですか」

    「先生は気さくな方ですから」

     そこで受付の前にある応接室を案内され、座っている入江観先生を紹介された。

    「先生の作品は、日光美術館で拝見してとても気にいりまして、こんどこちらで展覧会があると伺い、ぜひ来たいと思いました」

    「ふ~ん、君はどこから来たの」

    「あっ、自分は埼玉から来ました」

     そんなやりとりしながら、買ったばかりの図録にサインをいただいた。

     

     

     あとで受付の女性から聞いたのだが、本当に特に連絡もなく茅ヶ崎から電車、バスを乗り継いでいらっしゃったのだとか。帰りにもバスで帰ると仰っていたが、館の方で伊東駅までお送りするという。しかし91歳と高齢ながら、自分の展覧会ということでふらりとやってくるとは。まずはお元気でなによりだ。

     しかし偶然とはいえ画家の先生と短い時間だが、直接挨拶して話をする機会に恵まれた。入江観先生には、これからもまだまだ新しい作品を描き続けて欲しいと願うばかりだ。

    常設展

     常設展示ではいつものお気に入り作品たちとご対面。

    《女道化師》 モイーズ・キスリング 1927年  油彩  161×113㎝ 

     

     《ヴィーナスと水兵》 サルバドール・ダリ 1925年  油彩  215×147.5㎝

     

    《近衛兵と鳩》 パブロ・ピカソ 1969年  油彩  195×130cm

     

    《誕生日》 《生きる喜び(水浴者たち)》 フェルナン・レジェ タピストリー

     

    《洪水のあと》 ピエール・ボナール 1906年  油彩  250×450

     パリの富豪ミシア・セール夫人の注文で、夫人の食堂を飾る4枚の連作装飾壁画のうちの1枚。他の3枚のうちオルセー美術館が2枚、アメリカのギャラリーが1枚を所蔵している。旧約聖書「創世記」にある大洪水と、水が引いた後の情景がモチーフとなっている。大画面のこの絵を前にして、《大洪水のあと》というタイトルを念頭にしていると、自ずとノアの箱舟を連想してしまう。そしてこの絵は細部を観ていくと、なんとも楽し気であったりもする。

     

     

    ポーラ美術館「あたらしい目-モネと21世紀のアート」(7月9日)

     ポーラ美術館で開催されている「モネ没後100年・開館25周年記念 あたらしい目 ― モネと21世紀のアート」を観てきた。

     

    モネ没後100年・開館25周年記念 あたらしい目 ― モネと21世紀のアート | 展覧会 | ポーラ美術館

     

      ここ数年、ポーラ美術館は現代アートに全振りしているような印象がある。それまでの鈴木常司のコレクションを元にした西洋近代美術ーとくにフランスの近代美術の名品を見せる美術館から、現代アート、しかもインスタレーション中心のよくわからないけれど、ちょっとお洒落なアート作品を体験する美術館に変貌を遂げたとでもいっていいのだろうか。

     たぶん、モネやルノワール、マチスやピカソの名品に喜ぶのは中高年の美術ファンかもしれない。でもそれだけでは飽きられる。いつも同じ作品が展示してあるだけだと、リピーターには一回、二回と行けば、次はまあいいかとなる。そしてちょっとお洒落なアートを雰囲気的に味わいたい、箱根でお洒落アートを体験したいというような若者には、フランス印象派の名品だけでは訴求しないのかもしれない。

     前にも書いたかもしれないが、子どもが大学生の頃、「友だちがアートしたいって言ってるんだけど、どんな美術館がいい」と聞いてきたことがあった。どんなアートかと聞けば、できれば現代美術系だという。なのでたしか国立近代美術館か東京都現代美術館あたりを勧めた。

     しかしアートしたい、できれば現代アートを体験したいとな。子どもの友人は、読者モデルをしてたり、お洒落なカフェやらレストランでの自撮り写真をSNSにあげるようなタイプだったとか。アートに包まれた私・・・・・・。

     いささか嘘っぽい話ではあるが実話だ。なので今時、若い人は現代美術をお洒落アートとして受容しているのだろう。だとすれば箱根でちょっとお洒落なアート体験というのはなんとなくわかる。おそらくポーラ美術館もそのへんをマーケティングしているのかもしれない。

     しかし現代アートに全振りしては、従来の印象派好きの美術ファンには敬遠されるかもしれない。そこで考えたのが、ポーラ美術館の潤沢なコレクションと現代アートのコラボ企画というわけだ。たぶんここ5年くらいは、モネと〇〇、ゴッホと〇〇的な企画展が、毎年のように開催されている。

     だいたいが名作名品と現代作家の作家の作品を並列展示するパターンだが、それをさらに拡大して、現代アートのインスタレーションとクラシカルな名品を展示する、さらには一室をすべてインスタレーションにして、そこに印象派や新印象派、フォーヴやキュビスムの名品を展示する。どちらが添景なのか簡単には答えがたいようなものがある。

     そして今回はというと、ポーラ美術館が収蔵するクロード・モネの作品全19点を、現代作家のインスタレーションや映像作品とコラボレーションさせたというものだ。モネの19点の油彩画は、初期から晩年までの作品を網羅したアジア最大のコレクションである。細かくパーティションで区切られた小部屋にモネの作品とインスタレーションだ。展示的に見事にはまったというかマッチしたものもあれば、首をかしげる展示、明らかにミスマッチなものなどもある。というかモネはモネ、現代アートはそれ単体でもいいのではないかと思ったりしたのもある。

     それでもポーラの収蔵するモネ作品をすべて観ることができるというのは、なかなかにない機会でもある。たぶんそれはそれで良かったと思うし、来た甲斐はあったと思う。さらにいえば現代アート作品は単体としてもなかなかに魅力的であったりもした。なので3時間半くらいだったか、けっこう充実した時間を過ごせた。いつもだと途中でダウンというかベンチで小休止したり、色気よりも食い気とばかりに併設したカフェでケーキとコーヒーみたいなこともあるのだが、今回はそれもなく、ただひたすらえぐるように観た。

    モネ作品

     《ジヴェルニーの積みわら》 1884年

    《エトルタの夕焼け》 1885年 

    《ヴァランジュヴィルの風景》 1882年

    《ルーアン大聖堂》 1892年 

    《サルーテ運河》 1908年

    《グラジオラス》2点 1881年

    《散歩》 1875年

    《セーヌ河の日没、冬》 1880年

    《国会議事堂、バラ色のシンフォイー》 1900年

    《貨物列車》 1872年

    《サン=ラザール駅の線路》 1877年

    《グランド・ジャット島》 1878年

    《花咲く堤、アルジャントゥイユ》 1877年

    《睡蓮》 1907年

    《バラ色のボート》 1890年

    《セーヌ河の支流からみたアルジャントゥイユ》 1872年

    《ジヴェルニーの冬》 1885年

    《睡蓮の池》 1899年

     全19点、ほとんどがお馴染みのものばかり。まあここ10年くらい年に1~2回は行っているので、観たことがものはないかもしれない。しいて《セーヌ河の支流からみたアルジャントゥイユ》はあまり観た記憶がない。1872年、モネが32歳のときの作品で印象主義的な光の効果と筆触分割を模索していた頃だろうか。どことなくバルビゾン派の影響も感じるような。

    その他作品

     

     これは誰かのインスタレーション作品ではない。ポーラ美術館が収蔵するガレやドーム兄弟のガラス工芸品である。いつもはガラスケースに入っているのを観るのだが、こうしてインスタレーションとして転じされるのは斬新かつ新鮮。実は自分的にはこれが一番モネとマッチしていたような。背後の《バラ色のボート》との相性も抜群だ。

     ただし高価な工芸品である。常時監視員の女性がいて、緊張な面持ちで作品の近く立っていた。まあこれは当たり前、故意ではなくても作品に触れるとか、つまずいて作品を破損するみたいなことがあっては目も当てられないだろう。

     しかし工芸品、例えば陶磁器などもこういう空間展示的な形で見せるというのもけっこうありかもしれないなと思ったりもした。国宝や重文は絶対無理だろうけど、普通に近現代の陶磁器をこういう展示の方が映えそうな気もしないでもない。あとは例えば民芸品みたいなもの。もともと無名の職人によって造られた作品などは、こうした無秩序のような秩序感で展示そのものが空間芸術となるような、まさにインスタレーションの本質をついたような展示はあるように思えた。

     

     

    フェリックス・ゴンザレス=トレス《「無題」(マルセル・ブリアンの肖像)》

    1992年、ポーラ美術館

     これはモネ《セーヌ河の日没、冬》とのコラボ作品。そしてこの床に敷き詰められたものは、モネの描いたセーヌ河を流れる氷塊にインスパイアしている。

     でもってこの敷き詰められたものは実は青いキャンディ。

     

     鑑賞者は一つだけこのキャンディを持ち帰ることができる。当然キャンディなので食べられる。実際なめてみたけど、なんの変哲もないキャンディだった。

     

     
     

     これは映像作品で、ロバート・ラウシェンバーグによるバレエ作品『夏の空間』のシーン。背景や衣装がドット柄点描である。これがモネの《ジヴェルニーのつみわら》の筆触分割と呼応させている。さらにドガの《踊り子》のブロンズも同じ室内に展示してある。

     そして映像が映されるの壁面の逆の側にはポーラが収蔵する新印象派の名品、スーラ、シニャック、エドモン=クロスの作品が展示されている。空間がすべて点描化している。

     

     

     

     

    開館25周年記念プログラム コレクション・シネマ

     新収蔵作品の中から映像作品2点を紹介するという企画。そして前期公開作品は11月30日までのロングランでクリスチャン・マークレーの《ドア》だ。

     ドアにまるわる映像シーンを、古今の膨大な映画からの引用、コラージュによってまとめられた作品。ドアを開ける、閉める、そこから展開されるドラマを短く切り取りつなぎ合わせたもので、反復する迷宮世界をも思わせる。クリスチャン・マークレーはこの作品をまとめるのに12年の歳月を要したという。

     実際、映画ファンにはあの映画のあのシーンということでニヤリとさせられるコラージュだ。そしてずっと見ていたくなる。映画がわからなくても俳優、女優のだれそれみたいなこと、これはあの映画だったな、でも題名がでてこないとか。

     もうずっと観ていたくなるような魅力的で面白い着想のコラージュだ。もう一度観てみたいと思い、YouTubeを検索してみたらトレーラーみたいなものが見つかった。

     

     今回のポーラ美術館はけっこう攻めている企画だと思ったし、機会があればもう一度来てみたいとも思った。ただお洒落アートを体験とかそういうのでなく、かなり深いところまで楽しめるなかなかの企画展だった。紹介できなかったけど、アジア系の映像作家の作品などもけっこう面白く観ることができた。

     今回の企画展、特に図録というのはないらしい。実際、これは図録としてまとめるのは、特に現代アートや映像作品をテキスト化するのはかなりの力量が必要かもしれない。そしてもし冊子体にした場合はかなり割高なものになりそうだ。でも資料的価値としてなんらかのテキスト資料があってもいいかなとも思った。たぶんテキストがあればより理解は深まるだろうし、図書館とかで読みたい資料っていう感じになるのでは。