一部で評判になっていたので気になっていた企画展。会期が23日で終わるというので、駆け込み的に行ってきた。そういえば17日から18日にかけての集中豪雨で足利はけっこう水害があったようだけど、市内を走っている限りはその影響とかは見受けられない。
そして埼玉から1時間かけてやってきたのが足利市立美術館。

そして開催されていたのがこの企画展。


正直、牧野邦夫という画家はほとんど知らないに等しい。特にどこかの団体に所属することもなく、美術館にもほとんど収蔵されていないらしい。多くの作品は個人コレクターが所蔵していて、口コミ的に一部で評価されている画家らしい。
ある意味忘れられた画家だった牧野邦夫が話題になり認知度をあげたきっかけは、2013年に練馬区立美術館で開かれた回顧展だったらしい。この企画展を監修したのが美術史家の山下裕二で、彼がずっと一押ししている画家だったということのようだ。
そして牧野邦夫の画風はというと、写実、特にレンブラントへの傾倒が顕著で、ほとんどそれは400年の歳月を経た私淑といっていいほど。自画像がやたらめったらと多いレンブラントに倣ってか、牧野も徹底して自画像を量産している。それはもうなんていうのだろうか、ちょっと偏執じみた感じもしないでもない。もっともたいていの芸術家は偏執的であるという命題をある意味前提にしてということになるけど。
そしてレンブラント的、あるいはデューラー的な写実表現とはまったく異なる幻想性、当初は芥川龍之介の作品などを主題にしたなかで、幻想表現として描かれていたが、じょじょに単なる幻想ではなくシュールレアリスム的なものに変容していく。
そしてとにかくアトリビュートというか持物的なモチーフがやたらめったら出てくる。物語性、幻想性、シュールな夢魔的なものなどが、ときに猥雑なまでにごった煮的にキャンバスに散りばめられている。それでいて物語性が確保されていて破綻がない。表現力としての画力とともに構想力、そして画面の構成力がしっかりしている。本当に底知れない画力を思わせる。
正直、こりゃ凄いわというのが実感。とはいえそのほとぼしる想像力はときに気持ち悪さと表裏一体でもある。とにかくモチーフとして幻想的な人の顔、特にそれは小鬼であったり、悪魔であったり、妖怪、幽霊の類であったりが、画面のあちこちに存在する。肖像画の洋服、背景、などなど。さらには画面のあちこちにこれでもか、これでもかと、それこそ空間恐怖と余白を果てしなく埋め尽くすオブセッションである。多分に牧野邦夫はかなり病んだ精神の持ち主だったのかもしれない。それは芸術家がたいていの場合病んだ精神の持ち主であるというテーゼが有効であることを前提にしてということになるが。
ときにその埋め尽くされる醜悪なもののイメージは、どこかユーモラスでもあり、それはレンブラント以前、フランドル初期のヒエロニムス・ボスを想起するような感じもある。
牧野邦夫は1925年(大正14)に生まれ1986年(昭和61)に61歳で亡くなった。この世代というのはほとんど自分の父親と重なる。私の父親は1923年(大正12)に生まれ1986年に亡くなっている。いわば牧野邦夫は父よりも2歳年下で父と同じ年に亡くなっている。そのことを思うと、父と同世代で、あの昭和の時代を生き、同じ空気を吸っていたなかで、こんなにも写実と幻想性の間を浮遊するような画家がいたのだと、ちょっと意外なものを感じたりもした。
牧野は戦時中に東京美術学校に学び、井原宇三郎、安井曾太郎に師事し、1945年学徒出陣したが戦地に赴くこともなく終戦を迎えている。私の父親は開戦と同時に学校を辞めて志願兵となり台北や海南島に行き終戦間際に内地に戻って終戦を迎えている。
牧野は戦後美術学校を卒業したが美術団体に所属することなく、姉たちが茅ヶ崎で開いていた洋裁学校の手伝いをしながら画業を続けた。1959年から1984年まで画廊などでの個展を断続的に続けた。彼の絵がどのくらい売れたのかは判らないが、近代美術館等の所蔵が少ないことから、公式的な評価からはかなり隔たったところで制作を続けていたのではないかと想像する。牧野は洋裁学校を続ける姉たちの援助を受けていたのか、あるいは牧野が洋裁学校の実施的な運営者だったのか、そのへんはよくわからない。ただし牧野の芸術活動は洋裁学校をベースしていたのはあながち間違いではなさそうだ。。
牧野にとって転機となったのは53歳のときに30歳下のモデルであった女性と知り合い結婚したことだ。夫人は牧野邦夫のミューズとなり以後の作品にはほとんどなにかしらの形で彼女がキャンバスに登場するようになる。初老の画家と年の離れたモデルであり妻という関係。なんとなくバルテュスとその妻との関係みたいなものを想像しがちだが、まあそれはまた別の話だ。牧野の妻にしろ、バルテュスの妻も、夫が亡くなった後、作品の散逸を防ぎ、作品の価値を高めることに尽力されたのはまちがいないようだが。

レンブラントへの傾倒と、強烈な自意識を感じさせる。この回顧展でも多数の自画像が展示されていたが、おそらくこれがベストかもしれない。
でもよく見ると、衣服の所々に顔が描かれている。

キャプションに牧野邦夫の裸婦の最高傑作とあった。実際そのとおりだと思うし、インパクトも大きい。足元の雑草の花にはなぜか人の顔が。どことなくオディロン・ルドン的なものを感じさせる。牧野は具象の画家でありつつ、幻想的な象徴主義の画家でもあった。

上部が天国、下部が地獄なのだそうな。それはそのままミケランジェロの《最後の審判》的でもあり、ボスの三連画《快楽の園》にも通じるものがあるような、ないような。

牧野はかなりの引越し魔であったようで、1977年に渋谷に引っ越し、同じ年に中野に引っ越している。1978年に千穂と知り合ってからも、1981年に青山、1983年に京都、そして1985年に井の頭に。さらに1986年、ガンで亡くなる二か月前に世田谷区下馬に引っ越している。この絵には何かに憑かれるかのようにして移動を続ける画家自身と、それについていくやや不安気な若い妻千穂が描かれている。千穂はまたどこかボッチチェリのフローラのようでもある。


この3万人の死者(多くが餓死者)を出したインパール作戦の惨劇を主題にした作品。下部の死体には一面にウジ虫が這っている。おそらく藤田の《アッツ島玉砕》や《サイパン島同胞臣節を全うす》を凌駕する画家の想像力が画面を圧倒し尽している。グロテスクといえばグロテスク、しかしここには例えば藤田が戦争記録画の中に西欧の歴史画的な要素、劇的なスペクタクルを取り入れたのは異なるベクトルがあるようにも思う。画面を覆いつくす醜悪さ、正視しがたいおぞましさ、画家の想像力はこれが戦争だと訴えかけているのかもしれない。いや画家はなにも訴求していないのかもしれない。
牧野邦夫、ちょっと忘れがたい画家になったかもしれない。ただ国公立の美術館での所蔵がほとんどないだけに、次に出会う機会があるのかどうか。聞くところによると練馬区立美術館、茅ヶ崎市美術館には寄託作品があるようだが、それも常設されているのかどうか判らない。































































































































