『ロバート・キャパ 戦争を超えて』 (4月11日)

 

 

 木曜日、東京富士美で始まったばかりの『ロバート・キャパ 戦争を超えて』を観てきた。ロバート・キャパは著名な報道カメラマンである。自分も若い時に『ちょっとピンボケ』を読んだことがあるので、一応名前は知っている。ハンガリー人でパリを中心に活躍、ヘミングウェイなどとも親交があった。報道カメラマンという存在を高めたスター・カメラマンでもある。スペイン内戦の時に撮られた「崩れ落ちる兵士たち」ヤノルマンディー上陸作戦で撮られたまさに「ちょっとピンボケ」の1枚などは世界的に有名だ。

 そのキャパのプリントを多数所蔵しているのは、国内では東京富士美と横浜美術館の二館。何年かに一度こうしたロバート・キャパ展が開かれているのだが、実際に観るのは初めてだ。今回は所蔵するヴィンテージ・プリント75点を前後期に分けて展示されるという。

前期展示:4月09日~5月19日

後期展示:5月21日~6月09日

 

デンマークの学生にロシア革命史について講演するレオン・トロツキー
コペンハーゲンデンマーク,1932年11月27日 ロバート・キャパ 東京富士美術館

 キャパが初めて職業カメラマンとして撮ったのが当時亡命生活を送っていたレオン・トロツキーアジテーションを活写した1枚。雑誌社の資料係をしていたキャパは、他のカメラマンが駆り出されていなかったため、急遽デンマークに行くことになったのだとか。

 トロツキーはこの後メキシコへと亡命生活を続ける。そこで出会ったのがディエゴ・リベラと妻のフリーダ・カーロ。カーロとは親子ほどの歳の違いがあったが、不倫関係になったという。女性関係に奔放だった夫ディエゴ・リベラへの当てつけだったのか、若い20代の好奇心溢れる女性だったカーロが希代の革命家に興味を覚えたのかは判らない。近しい知人に年寄りの相手は疲れるといった感想を述べていたという話も何かで読んだ記憶があるが。

 ロバート・キャパハンガリー生まれで本名アンドレフリードマンという。ドイツの雑誌社で資料室の仕事をしていたが、その後パリに行く。当初はまったく仕事がなく食うや食わずの生活だったという。そのときパートナーだった同じ報道カメラマンのゲルダ・タローの発案で、アメリカで成功したカメラマンであるロバート・キャパという架空の人物を作り出し、フリードマンは架空のロバート・キャパに成りすまして仕事を受けるようになったのだ。

 そしてキャパはスペイン内戦に報道カメラマンとして臨む。そこで撮られた1枚が彼を、そして戦争報道の写真として歴史に名を残すことになるこの写真である。

共和国軍兵士の死(崩れ落ちる兵士)、エスペホ近郊、コルドバ戦線、スペイン
1936年9月5日 ロバート・キャパ 東京富士美術館

 しかしこの写真は真偽について数々の証言がありまた様々に検証が行われてきた。そしてどうやらこの写真は実際の戦闘シーンではないことや撮影したのはキャパではなく、パートナーのタローだったことなどが明らかになっているようだ。

崩れ落ちる兵士 - Wikipedia

 キャパはこの写真についてはコメントを避け続けた。そしてパートナーだったタローはこの写真が有名となる以前に同じくスペイン内戦の取材中に戦車に轢かれて亡くなっている。

オマハ・ビーチに上陸するアメリカ軍、Dデイ、ノルマンディー、フランス 1944年6月6日 ロバート・キャパ 東京富士美術館

 そしてこの1枚もキャパの名前を有名にした1枚である。オマハ・ビーチはノルマンディー上陸作戦での最大の激戦地である。オマハ・ビーチの戦闘が熾烈を極めたことは、映画『史上最大の作戦』でもメインのシーンとして描かれている。指揮をしていたのは第29師団のコータ准将扮するロバート・ミッチャム。副官で『ローマの休日』の陽気なカメラマン役だったエディ・アルバートが出ている。とにかくドイツ守備隊の屈強な反撃の中で海岸にくぎ付けになる。

 そしてもう一つよりリアルにオマハ・ビーチの戦闘を描いたのがスピルバーグの『プライベート・ライアン』の冒頭のシーンである。あの兵士たちがめったやたらと死にまくる延々と続くシーン。あれは映画史上に残る戦闘シーンだと思う。

 そんな熾烈が激戦の場で、兵士よりも前に出て兵士を撮る。兵士以上に勇猛な報道カメラマンの存在を印象付けるのがこのピンボケの戦闘シーンの1枚だ。しかしキャパはこの後すぐに戦場を離れて艦船に戻り、そこで意識を失ったのだとか。

 

パリの解放を祝う人々 パリ、フランス 1944年8月26日 
ロバート・キャパ 東京富士美術館


 今回の企画展で多分一番気に入った作品かもしれない。ナチスからの解放を祝うパリ市民祝祭気分を活写した奇跡の1枚のようにも思える。

 

集団農場の微笑む女、ウクライナ 1947年8月 ロバート・キャパ 東京富士美術館

 そして印象に残る1枚。この時キャパは作家ジョン・スタインベックとともにソヴィエト連邦に取材旅行に出ている。そこで撮った1枚。当時は当然のごとくウクライナソ連邦の一共和国だった。戦争を生き延び、今は農業に従事する逞しい女性の姿を捉えている。

 

母親と赤ちゃん、ネゲヴ砂漠北部のネグバ・キブツイスラエル 1949年
 ロバート・キャパ 東京富士美術館

 ユダヤ人であるロバート・キャパは当然のごとくイスラエルに対して大きなシンパシーを抱いている。1949年、建国したばかりのイスラエルを訪れ、そこで希望に満ちた新し国作りの中に生きる人々を親和的に撮っている。しかしもし今のパレスチナの惨状を目にしたら、キャパはどんな写真を撮るだろう。そんなイフををつい思い描いてしまう。

 

キジ狩りの合間に休息するアーネスト・ヘミングウェイと息子グレゴリー、サン・ヴァレー、アイダホ、アメリカ 1941年10月 ロバート・キャパ 東京富士美術館

 20年後にライフルで自殺するノーベル文学賞作家の家庭的な姿を描いた1枚。ナイーブで感受性豊かな作家は、タフな男を演じていた。息子を狩りに連れ出す強いパパを演じていた1枚。そういうことなのだろうか。キャパとヘミングウェイはスペイン内戦以来親交があり、キャパはヘミングウェイをパパと呼んでいたという。

 

映画『凱旋門』の感傷的なシーンを撮影中のイングリッド・バーグマン
ハリウッド、アメリカ 1946年7-10月 ロバート・キャパ 東京富士美術館

 この頃、ロバート・キャパはこの人気女優イングリッド・バーグマンと密かにロマンスを進行させていたとか。スウェーデンからハリウッドに進出し、『カサブランカ』、『誰がために鐘は鳴る』、『ガス灯』などに出演し、『ガス灯』でアカデミー賞を受賞するなどトップスターでもあった。一方で彼女はスウェーデンの医師と結婚して一子をもうけている。キャパとのロマンスは秘められたなんとかみたいなことだったのだろう。

 バーグマンはその後1949年にイタリアの映画監督ロベルト・ロッセリーニと不倫関係になり、離婚してロッセリーニと再婚する。ロッセリーニとの関係は一大スキャンダルとして大きく報じられ、一時期バーグマンはハリウッドからヨーロッパに仕事の場を移すことになった。

ツール・ド・フランス 1939年 ロバート・キャパ 東京富士美術館蔵 

 東京駅のプラットホームで一緒に電車を待つ子どもたち 、東京、日本、1954年4月
 ロバート・キャパ 東京富士美術館所蔵

 ロバート・キャパは1954年4月に毎日新聞社の招待で来日。日本各地に取材して撮影を行っている。急遽、日本での滞在を切り上げてインドシナ戦争の取材に出向き、ベトナムで地雷を踏み亡くなった。1954年5月25日のことだった。

府中市美術館「ほとけの国の美術」 (3月28日)

 

 恒例の「春の江戸絵画まつり」企画展「ほとけの国の美術」に行ってきた。

 この春の企画展に行くのは4年目になる。

  • 2021年 「動物の絵 日本とヨーロッパ」展

      府中市美術館「動物の絵 日本とヨーロッパ」展に行く - トムジィの日常雑記

  • 2022年 「ふつうの系譜 『奇想』があるなら『ふつう』もあります-京の絵画と敦賀コレクション」展

       府中市美術館 ふつうの系譜 「奇想」があるなら「ふつう」もあります - トムジィの日常雑記

  • 2023年 「江戸絵画お絵かき教室」展 

府中市美術館「 江戸絵画お絵かき教室」 (3月16日) - トムジィの日常雑記

 

 そして今回はどんな切り口から江戸絵画をみせてくれるか。

春の江戸絵画まつり ほとけの国の美術 東京都府中市ホームページ

(閲覧:2024年3月31日)

 仏教画中心にということである。「菩薩来迎図」、「曼荼羅」、「地獄極楽図」、「禅画」、そして「仏陀涅槃図」とそこに多く動物が描かれているということの派生から、この春の江戸絵画の売りでもある丸山応挙や長沢芦雪の「狗子図」などに「かわいい動物画」も多数展示されている。結局、毎年この「ゆるかわ」的動物画をどう見せるかということで、この企画展続いているのだろうかと思ったりもする。それだけヒットした企画といえるか。

 「春の江戸絵画まつり」という企画なので、江戸期の絵画が中心だが、「菩薩来迎図」、「曼荼羅」などには、鎌倉期や室町期のものもある。また絵画以外の仏像では円空の仏像も一章を設けて展示されている。

 この企画展は展示点数も多い大型企画展なのだが、日本画は作品保護のため展示期間が限られている、さらに所蔵先との関係もありで前後期で大幅な展示替えがある。今回もトータルでの出展作品は117点にのぼるが、前後期でほぼ半々の展示となっているので、全貌を観るためには最低二度は足を運ぶ必要がある。 

<展示点数> 

通期展示   13

前期展示   54

後期展示   50

  合計         177

<開催期間>

前期:3月9日(土曜日)~4月7日(日曜日)
後期:4月9日(火曜日)~5月6日(月曜日・振替休日)

 おそらくこの企画展での目玉ともいうべき作品土佐行広の《二十五菩薩来迎図》(京都市二尊院)は通期で展示となっていて、最初に大きく展示され目を引くことになる。

     土佐行広 二十五菩薩来迎図(17幅のうち)重要美術品 京都市二尊院蔵(前・後期展示)

狩野了承《二十六夜待図》 (前期展示)

《二十六夜待図》 (狩野了承) 一幅・絹本着色 江戸時代後期 個人蔵

 「二十六夜待」は行事の名で、旧暦の正月と七月の二十六日の夜、月の光の中に阿弥陀三尊が現れると言い伝えから、人々が集まり月が昇るのを待ったという。これは阿弥陀如来のの脇侍の一尊である勢至菩薩(せいしぼさつ)が月の神の化身だとする中国の仏教書『法華文句』に書かれた思想に由来するのだという。

 また『往生要集』では阿弥陀如来の顔が月に例えられていたなど、月と阿弥陀如来を結び合わせる様々な言い伝えがあったことに由来してこの行事が生まれたものだという。江戸時代には特に芝から高輪辺りでは多くの人が集い賑わいを見せたのだという。

 狩野了承は(1768-1846)は、鍜治橋狩野家の狩野探信に学んだ表絵師。幕末期には庄内藩の御用絵師になった。江戸時代の幕府の御用絵師は狩野家が奥絵師として、鍛冶橋・木挽町・中橋・浜町の四家が務めた。その奥絵師の門人や分家が独立したものが表絵師と呼ばれ15家あった。

 この絵は俯瞰で遠く房総半島から昇ってくる月と、それを見るために集まった人で賑わう海沿いの町を描いてる。明るい月光と家々の灯り、薄暗い海景を描いてる。本来はもっと暗いのだろうが、月明かりでぼんやりと浮かぶ海を薄墨で描いている。浮世絵でも水墨画でもない、どこか西洋的な風景画を思わせる不思議な絵だ。昇る月の中には確かに三尊が描かれている。

 
春日曼荼羅 (前期展示)

《春日宮曼荼羅》 一幅・絹本着色 鎌倉時代(13世紀~14世紀) 

 藤原氏氏神である春日明神に藤原家の繁栄を願い、参詣の代用として多数制作されたのが《春日宮曼荼羅》。日本古来の神々は、仏教の仏が神となって現れたという本地垂迹の思想によるもので、月が昇る御蓋山(みかさやま)の上空には五つの仏が描かれている。それぞれ一宮の本地仏(服塢検索観音もしくは釈迦如来)、二宮の本地仏薬師如来)、三宮(地蔵菩薩)、四宮(十一面観音)、若宮(文殊菩薩)となっている。

 春日宮曼荼羅は多数制作されていて、奈良市南町自治会所蔵のもや東京国立博物館所蔵の者などが有名。いずれも昨年の「やまと絵」展で実作を観ている。本地仏が描かれているのは南町自治会のものだが、それは丸い円の中に描かれている。今回の作では本地仏が雲に乗って描かれている。

岩佐又兵衛《達磨図》 (前期展示)

《達磨図》 岩佐又兵衛 一幅・紙本墨画 江戸時代前期(17世紀前半)

 達磨図は今回3点が出品されているが、前期展示は岩佐又兵衛の1点。遂翁元慮と白隠慧鶴のものは後期展示。

喜多元規《隠元即非・木庵像》 (前期展示)

隠元即非・木庵像》 喜多元規 一幅・紙本着色 1679(延宝7)年

 日本に黄檗禅をもたらした中国の僧隠元は、1654年に63歳で来日し、はじめ長崎の興福寺に入り、次に崇福寺の住侍となる。さらに1658年に江戸で四代将軍徳川家綱に謁見して、1660年幕府より宇治に土地を拝領してそこに黄檗宗の寺院萬福寺を建立した。隠元に遅れて来日したのが弟子の即非、木庵らである。隠元黄檗宗には後水尾天皇を始め、公家や幕府の要人らが帰依した。

隠元隆琦 - Wikipedia (閲覧:2024年3月31日)

 作者の喜多元規は隠元に従って来日した中国の画家楊道真に学び、黄檗宗の僧の肖像画を専門にした。

鈴木其一《毘沙門天像》 (前期展示)

毘沙門天像》 鈴木其一 一幅・絹本墨画金泥 1854年嘉永7)
 個人蔵(京都国立博物館寄託)

 正面性による細密画である。この細密画は中国の影響だろうか。同時にこのシンメトリー的な正面性も、上の黄檗宗隠元肖像画と似通っている。中国の肖像画は唐代あたりまでは横向きだったが、明代の後半からこうした正面性が多くなっていて、清代になると王族などを描いた肖像画は正面を向くものが多い。

 イエズス会の宣教師で画家でもあったジュゼッペ・カスティリオーネは中国に来日し、清王朝の宮廷画家として仕えた。彼が最初描いた清皇帝の肖像画は、斜め向きだったが、当時すでに中国では要人の肖像画は正面から描くことになっていたため描き直しを命じられ、描き直した正面からの作品が皇帝に気に入られたという。

7月19日はジュゼッペ・カスティリオーネの誕生日 - クリプレ 

(閲覧:2024年3月31日)

 鈴木其一のこの作品の頃にも、貴人や仏教画を正面から描く中国の様式が伝えられていたのだろうか。

白隠慧鶴《豊干禅師》 (前期展示)

豊干禅師寒山拾徳図の一部》 白隠慧鶴  一幅・紙本墨画 18世紀(江戸時代中期)

 豊干は中国唐代の僧。寒山十拾の師匠とされる。虎の背に乗って周囲を驚かせたという話があり、虎に乗ったり、虎を従えた絵が多く描かれている。

仙厓義梵《豊干禅師図》 (前期展示)

豊干禅師図》 仙厓義梵 一幅・紙本墨画 江戸時代後期(19世紀前半)

 仙厓義梵(1750-1837)は江戸時代臨済宗古月派の禅僧。元祖ヘタウマともいうべき妙味のある絵を描き、狂歌も詠んだという。白隠慧鶴とともに江戸時代の禅画ではとても人気があるという。正直いって、今回の企画展、さまざまな仏画、動物画が出ていたが、この絵が全部持っていったような感もある。この脱力感は禅的な境地を超えているような気もしないでもない。

伊藤若冲《石峰寺図》部分  (前期展示)

《石峰寺図》部分  伊藤若冲 一幅・絹本墨画 1789年(寛政元) 京都国立博物館

 人気の若冲。これも前期展示だ。ポスター等にも使用されている《白象図》は後期に展示される予定とか。石峰寺は黄檗宗の寺院で若冲がデザインしたという五百羅漢の像が有名。若冲は晩年、石峰寺の門前で過ごした。

 この図のデフォルメされた僧侶は羅漢たちで、中には説法する釈迦も描かれている。若冲は実際の石峰寺の中に仏の世界を描き出した。拡大するとその面白味がよく判るような気がする。

 
白隠慧鶴《すたすた坊主》 (前期展示)

《すたすた坊主》 白隠慧鶴 一幅・紙本墨画 江戸時代中期(18世紀)
葛飾北斎《布袋図》 (前期展示)

《布袋図》 葛飾北斎 一幅・紙本着色 江戸時代後期(19世紀前半)
長沢蘆雪《藤花鼬図》 (前期展示)

《藤花鼬図》 長沢蘆雪 一幅・絹本着色 1798年(寛政10) 

 

西洋美術館「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」 (3月22日)

 そしてその日の終着点、西洋美術館。

 

ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?――国立西洋美術館65年目の自問|現代美術家たちへの問いかけ|国立西洋美術館 (閲覧:2024年3月25日)

飯島由貴・遠藤麻衣らの抗議行動

 西洋美術館で初めての「現代美術」の企画展ということで注目していた。しかも内覧会でいきなり出展作家たちによる抗議活動も行われた。

飯山由貴がイスラエルのパレスチナ侵攻とスポンサーの川崎重工に抗議。国立西洋美術館「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」記者内覧で|美術手帖  (閲覧:2024年3月25日)

 西洋美術館のメインスポンサーである川崎重工の前身は、西洋美術館のコレクションの母体となった松方幸次郎が経営していた川崎造船所である。その川崎重工は、パレスチナ侵攻を行うイスラエルより武器(ドローン)を輸入し、利益を与えるとともに代理店として利益を享受している企業だと、今回の企画展に参加した飯山由貴は批判してビラを撒き、賛同者たちによるコールやダイインも実行した。

 また同じく企画展に参加した作家遠藤麻衣は、百瀬文は抗議のパフォーマンスを実施した。

飯山由貴がイスラエルのパレスチナ侵攻とスポンサーの川崎重工に抗議。国立西洋美術館「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」記者内覧で|美術手帖 (閲覧:2024年3月25日)

国立西洋美術館の館内ロビーでアーティストの遠藤麻衣と百瀬文が川崎重工に対する抗議パフォーマンスを実施|美術手帖 (閲覧:2024年3月25日)

 そしてこのアーティストたちによる抗議行動に対して、公安警察が美術館内に入り、作家のパフォーマンスを監視したことも報じられた。

出品作家、ガザ侵攻に抗議活動 国立西洋美術館、警察が監視 | 毎日新聞

(閲覧:2024年3月25日)

 この公安警察の美術館への立ち入りについて、西洋美術館は警察に要請をしていない。おそらく何らかの形で情報を得ていた警察側が、抗議行動が行われたことに即座に反応したということなのだろう。

 ようは美術館であれ、表現者はすべて公権力の監視対象であり、美術館という表現の場も監視されているということ可視化されたということなのだろう。そしてもう一つガザへのイスラエルの侵攻とジェノサイドともいわれる無差別攻撃に対して、表現者たちが声を上げたことは大きな意義があると自分は思っている。さらにいえば表現者たちは炭鉱のカナリアなのだということを改めて思ったりもした。

 そうした事前の情報もありぜひ観てみたい企画展と思ってはいた。

展覧会の企図について

 今回の展覧会を企画した西洋美術館主任研究員の新藤淳氏は企図についてこうパンフレットで記しているので一部抜粋する。

国立西洋美術館一そこは基本的に、遠き異邦の芸術家たちが残した過去の作品群だけが集まっている場です。それらは死者の所産であり、生きているアーティストらのものではありません。この美術館にはしたがって、いわゆる「現代美術」は存在しません。しかしこのたび、そんな国立西洋美術館へと、こんにちの日本で活動する実験的なアーティストたちの作品をはじめて大々的に招き入れます。

そうするのには理由があります。国立西洋美術館の母体となった松方コレクションを築いた松方幸次郎は、みずからが西洋において蒐集した絵画などが、未来の芸術家の制作活動に資することを望んでいたといえます。また、戦後に国立西洋美術館の創設に協力した当時の美術家連盟会長、安井太郎のような画家も、松方コレクションの「恩恵を受ける」のは誰よりも自分たちアーティストであるとの想いを表明していました。これらの記憶を紐解くなら、国立西洋美術館はじつのところ、未知なる未来を切り拓くアーティストたちに刺載を与えるという可能性を託されながらに建ったと考えることができます。
けれども、国立西洋美術館がじっさいにそうした空間たりえてきたのかどうかは、いまだ問われていません。

 「松方幸次郎が望んでいたという未来の芸術家の制作活動に資する」という思い。その虚妄性とともに、当時の軍需産業の経営者であり、東洋の成金としてヨーロッパで美術品を買い漁った松方への批判的な眼差しを飯山由貴は自らのインスタレーションの中で俎上に載せていたりする。

 本来的には西洋美術館という器とそこに収蔵される西洋美術の作品群から、現代のアーティストたちはどのようなインスピレーションを得て、どのようなモチーフ化して新たな作品群を生み出すか、そういうことがひょっとしたら期待されていたのかもしれない。でもそれはちょっと期待外れだったかもしれない。

 アーティストたちは西洋美術館というある種の国家的権威、さらにはそこに収蔵される西洋古典美術という権威に対する批判的アプローチしてみたり、対象化、相対化、客体化、を図ってみたりしているのだろう。それは造形芸術として提示されものもあり、パフォーマンであったり、あるいは引用であったり、またさらには思考実験であったりと千差万別でもあった。

 なんとなく感じられたのは、造形表現よりもテキストを積み重ねることによって、西洋美術館という対象とその何重にも積み重ねられたさまざまなイメージを剥ぐような試み。それらは失敗とはいわないけれど、けっして成功した試みとはいえなかったかもしれない。

 西洋美術館も現代芸術のアーティストに門戸を開き、包容力を示そうとした。でも美術館の思惑とはちょっと異なる位相に連なる作品も多かったのかもしれない。

 美術館側もアーティストの側も、どこかで「あれ、こんなはずではないんだが」と感じあっているような、そんなギャップが見え隠れしていたような気がしてならない。互いに過度な気負いがあり、それがかみ合わことなく展覧会が始まってしまったような。

 新藤氏の企図はこのように続く。

ともあれ、ある程度は予想していたこととはいえ、展覧会の準備を進めながらに気づかされるのは、過去の芸術作品のみを所蔵する国立西洋美術館は、いまを生きる気鋭のアーティストたちがかならずしも好んで訪れるところではない一例外は少なからずいらっしゃるとしても一という事実です。ゆえにこの展覧会の課題は、その距離を埋めることでもあります。あるいは、国立西洋美術館やそのコレクションとあらためて向きあっていただくなかから、アーティストのみなさんにあらたになにかを考えていただく契機をつくること一それが本展の狙いです。結果として今回の展覧会では、彼ら一彼女らから国立西洋美術館にたいして、さまざまに批判的な問いが投げかけられることにもなるでしょう。美術館そのものを多角的に問題化することが、本展の企図にほかなりません。

 展覧会の課題は、「西洋美術館と気鋭のアーティストたちの距離をうずめることにある」。そして「あらたななにかを考えていただく契機をつくる」こと。それは成功していたかどうかというと微妙なようにも感じられた。あえていえばアーティストたちは、美術館との距離について考えそれをうずめるのではなく、その「みぞ」そのものを問題意識化したのではないかと、そんなことを考えた。

 そしてあらたな何かよりも、現在体制、あるいは権威としての「国立美術館」、さらにはもう一方の絶対的な美術的権威でもある「西洋美術」そのものに対しての意見陳述、そんな作品が散見したようにも思えた。

 自分自身、考えがよくまとまっていない部分は間違いくある。そして展示作品についていえば、情報量が非常に多く、多角的かつ多種多様でもある。逆に言えばトータライズされた部分、企画展としてのまとまりはまったくないに等しい。悪くいえば参加作家が好き勝手に西洋美術館にアプローチしてみました的な部分もあるかもしれない。それでも「美術館そのものを多角的に問題化する」という企図からは大きなズレはないということなのかもしれない。でも間違いなく、難解とはいわないけれど、判りにくい、受容しにくい企画展でもあるとは思った。

 ただ一方で、展覧会というものは、あるいは芸術作品というものは、面白いと感じればいいのかもしれないと割り切ってみれば、散漫で難解とも思える作品群の中でも、これはちょっと面白いというように、受容のレベルを下げてみればそれでいいのかもしれない。

 飯山由貴や田中功起のテキストは難解で「ちょっと何いってるかわからない」みたいにスルーしても、小田原のどかの転倒彫刻はちょっと面白いとか、そういう見方でもいいのかもしれない。バリ島の藤田嗣治はいくらなんでもとか、まさかの西洋美術館での高尚ストリップがとか、そういう部分でもいいと思ったりもした。

気になった作家たち

小沢剛

 藤田嗣治を日本人の画家としてよりも西洋絵画におけるエコール・ド・パリ派の画家の一人として扱っている。そのうえで戦争協力への批判からフランスに帰化しパリを拠点にした藤田嗣治が、パリではなくバリに移住していたらという「駄洒落じゃないか」と突っ込みたくなるような歴史のIFから「帰ってきたペインターF」シリーズをみせてくれる。面白いがやっぱり「駄洒落じゃないか」と突っ込みたくなる。

 

 
小田原のどか

 地震大国である日本の美術館において、彫刻作品の転倒はあり得る現実である。事実、関東大震災の時に上野の日展会場では、展示してあった彫刻作品が軒並み転倒して粉々になったともいう。地震の脅威にさらされる日本においての彫刻の存在を、小田原のどかはロダン作品を「転倒」させて展示する。

 

日本における彫刻という存在を課題化し、近代日本のねじれを指摘し続けた小田原は、西洋美術館を象徴する存在のひとつであるオーギュスト・ロダンの彫刻を、赤い絨毯の上に「転倒」させて展示。また、古くから供養のために建てられながらも地震による倒壊も多く見られる五輪塔、そして部落解放運動のなかで「水平社宣言」を起草し、のちに獄中で転向した西光万吉の日本画をともに展示した。いずれも「転倒」や「転向」を含意しており、これらが緊張感のある関係をもって配置されることで、第二次世界大戦を経て対米追従した日本、震災の脅威にさらされ続ける日本、そしてそのなかで育まれた日本の美術が表れている。

 

 

 さらに「転倒」から「転向」へと思考実験を積み重ね(駄洒落じゃないのか)、部落解放運動のなかで「水平社宣言」を起草し、のちに獄中で転向した西光万吉の日本画を展示し、転向論についてのテキストを転じする。

 「転向」については判断保留だが、普通に転がったロダンは面白く感じられた。

飯山由貴

 内覧会での抗議声明のように、もっとも先鋭的かつ政治的なアプローチをとった飯山は松方コレクション(複製?)とともに大量の手書きテキストを並置するインスタレーションを展示した。そこでは松方幸次郎と川崎造船所軍需産業としての実相を可視化させたり、松方が若き日本の芸術家のたちのためにとコレクションした西洋美術が、戦争プロパガンダとしての戦争記録画に繋がっていったのではないかという問いなど、問題意識化の舌鋒は鋭い。

 

 

 

この島が帝国であった時期、西洋から輸入された技術としての油彩画、西洋画と国粋主義思想と軍事中心主義が癒着して、様式としては美術作品でありプロバガンダでもある大量の作品が産み出された。
松方コレクションの作品は、のちに戦争画・作戦記録画(アジア太平洋戦争期に陸海軍の委嘱で制作された公式の戦争絵画群)と呼ばれるそれらの美術史と近代史に特有の文脈を持つ一連の絵画に影響はあったのだろうか。

歴史画は歴史的事実を視覚化したものではない。フィクションとしての歴史に具体的なイメージを付与して現実のごとく見せるからくりだ。
西郷隆盛の顔は、さきののべたようにキオッソーネが西郷徒道や大山巌の顔を参考にして作り出したものだが、そうと知ってはいても、このお雇い外国人んお創造した顔をはなれて、西郷という人物像を思い浮かべることはむずかしい。
イメージのしみはしぶとくこびりつき、用意にはおとしきれない。

 手書き文字は読みにくく、しかもびっしりと書かれている。しかしその内容は興味深くついつい引き込まれて読んでしまう。

田中功起

 田中功起は作品の展示ではなく、西洋美術館への「提案」をテキスト化して提示した。その中には作品展示での高さに言及し、子どもや車椅子ユーザーにとっては常に見上げるような展示になっていることを提起していた。

美術館へのプロポーザル1:

作品を展示する位置を車椅子/子ども目線にする西洋美術館の常設展示室には多くの絵画が展示されている。下見のために展示室に行くと、多くの観客に交じって車椅子の観客がいることに気づいた。そのひとは、テイントレット(ダヴィデを装った若い男の肖像)(1555~60年頃)を見上げていた。車椅子の位置からするとほとんどの絵画の展示位置は高すぎるように感じた。すべての絵画が車椅子と子どもの目線に合わせて低い位置に展示されている美術館を想像してみる。

 田中はこうした視点をもったのは、自らが子どもを育てるにようになり、ベビーカー押しているなかでの気づきだとしていた。

 こうした田中の提起に対して西洋美術館は常設展示で実験的に数点の絵を車椅子ユーザーや子どもの視線に合わせて低く展示してみせている。今回は一人で来たので、健常者の自分からするとずいぶんと観にくい展示だが、車椅子利用者の妻がいたらどんな反応を示しただろうか。

 

 

遠藤麻衣

 白いカーテンで仕切られた部屋に入ると怪しげな回転ベッドが回っている。そのなかほどは盛り上がっていて、何かが横たわっているようにも見える。そして正面のスクリーンでは館内で撮影されたと思わしきストリップの映像が流れる。腕まである白い手袋をした裸体の女性は、その腕を蛇のように身体に這わす。ちょうど手の部分には目がついていてまさしく蛇である。そしてもう一人のダンサーが現れて二人は絡み合う。

 美術館の中でこうしたストリップ、それも高尚なストリップを見ていると気恥しい部分もある。二人のダンサーは鍛え上げれた美しい姿態で絡み合う。あとで確認すると一人は現役ストリッパーの宇佐美なつで、もう一人が遠藤麻衣だという。

 壁にはエドワルド・ムンクリトグラフが展示してある。これは人と動物の異種交配を描いた《アルファとオメガ》という作品で、遠藤と宇佐美のパフォーマンスはここからインスピレーションを得ているという。

 ストリップ、あるいはソフトなAVといってしまえばそれまでだが、いやらしさや煽情的な部分はない。どちらかといえばフェミニズム的な要素が濃く、少なくとも男女関係なく観ることができる。ただしヘアヌードを含めた表現であるためゾーニングが図られている。HPにも以下のような注意がなされている。

本展には一部、芸術上の目的のため性的な表現を含む作品が展示されています。このような作品を不快に感じる方やお子様をお連れの方は、入場に際して事前にご了承頂きますようお願い致します。

 西洋美術館、とくに入口の部分や常設展示の入り口のロダン作品が置かれたスペースでの二人の女性が絡み合うパフォーマンスは、ある意味で西洋美術館の包容力みたいなものが感じられた。二人のパフォーマンスも芸術性は高く、最初に高尚なストリップと称したが鑑賞に堪える質を有している。しいていえば音楽がどこか安っぽい感じで、これはまさにソフトなAV、ストリップ小屋のBGM的である。多分、これは狙っているのかもしれないが、せっかく西洋美術館でのストリップなので荘厳なクラシックでも使えばいいのにと思ったりもした。

 どんな音楽がいいか。月並みにいえばバッハの無伴奏チェロなんかがいいかもと、俗人の自分は思ったりもした。

 

 
パープルーム

 梅津庸一が主催するグループによる作品空間。ラファエル・コランやピエール・ボナールらの作品から想を得た作品が、パッチワークのような空間の中に展示されている。ボナールはまさしく西洋美術館の所蔵品だが、コランの《フロレアル》って西洋美術館持っていたっけと、ちょっと記憶にないなと思いよく見てみると、《フロレアル》は藝大美術館から貸し出しのようだった。

 
坂本夏子

 初めて知る作家だ。1983年生。抽象画、グリッド、点描などによる作品だが、不思議と奥行き感というか立体感がある。多分、狙っているのだろうがそのへんが特に面白く感じた。競作もあり同時に展示してある梅津庸一や杉戸洋の作品がどこか平面的なので、その差異みたいなものが特に面白く感じられた。個人的にはこの作家の作品が今回一番心に残ったかもしれない。

 

《Tiles》 坂本夏子 2006年 油彩/カンヴァス 個人蔵 

《秋(密室)》 坂本夏子 2014年 油彩/カンヴァス 高橋健太郎コレクション

《階段》 坂本夏子 2016年 油彩/カンヴァス 国立国際美術館

 

都内周遊 (3月22日)

 胃カメラのんだ後、さてとどうするかとなる。もしもポリーブなどで組織をとることがあったら、その日は酒が飲めないということだったのだが、それもない。無罪放免だからといっていきなり昼酒というのもなんだし、それほど無頼でもない。実際のところ最近はとんと昼酒とかもしない。

 いつものようにお茶の水丸善で少し時間をつぶす。これも何度も書いているけれど、最近は本屋に入ってもなにも買わないで出ることが多い。今回もそうだった。

 昔は、本屋に入れば何かしら本か雑誌を買っていた。まあそれが本屋への礼儀でもあるし、とりあえず何か読みたい、読んでみようかなと好奇心をそそるものがあった。今はそれが皆無に等しい。

 プロフィールに子どもの頃から本屋が遊び場と書いている。実際、小学生くらいの頃から毎日にように本屋に通った。大書店にいけば何時間でも過ごすことができた。読んでみたい本、今度買いたい本、いつか読みたい本、そういうのが沢山あった。本棚を上から順に眺めていれば時を忘れることができた。

 本屋好きが高じて、本の仕事についた。以来40年、とにかくなんらかの形で本に接する仕事を続けてきた。そして本の業界自体が大きく揺らぎ、商売として成立しなくなることが明確になった頃に、仕事をリタイアした。

 多分その頃からだろうか、本屋にあまり足を運ばなくなり、行っても手ぶらで出てくるようになった。

 

聖橋

 丸善を出てこれもいつものように聖橋を渡る。

  聖橋の上からお茶の水駅を見下ろしてみる。ちょうど出てきた丸の内線とお茶の水駅に止まる中央線のツーショットを撮った。別に鉄ちゃんでもなんでもないが、なんとなく嬉しい。昔、交通図鑑みたいな本には必ず、トンネルから出てくる丸の内線と中央線か総武線がクロスする絵が載っていたのを思い出した。

 

湯島聖堂

 道路を横切って久しぶりに湯島聖堂に行ってみる。徳川綱吉によって建てられた孔子廟。幕府直轄の学問所である。林大学頭とかそんな文字が頭の中をよぎる。幕府の公式の学問が朱子学だったか。

湯島聖堂 - Wikipedia

神田明神 

 次に向かったのは神田明神。ここを訪れるのもずいぶんと久しぶりだ。

 

 

 

 神田明神といえば甘酒だったっけ。まあいいか。それから新宮本公園を通って新妻恋坂に出て少し進んで中央通りにぶつかったところで左折。たしかそのまま行けば池之端に出るはずだと勘を働かす。実際のところまさしくピンポンである。

 前日の6時過ぎからなにも口に入れていないのでかなり腹は減っているはずなのだが、さして空腹感がない。年を取るとなにもかもがどうでもよくなるようで、食事をとるのも億劫になるのかもしれない。そのまま池之端を少し歩くと横山大観記念館に着く。前回、このへんを歩いたときは月曜日で休みだったので入ってみることにする。

横山大観記念館

公益財団法人 横山大観記念館 - YokoyamaTaikan Memorial Hall

横山大観記念館 - Wikipedia

  五浦の住居が消失した1908年、東京に戻った大観が建てた住居で、亡くなる1958年まで住んでいた家を改築した美術館である。現存する建物自体は1954年に建て替えられたものらしい。

 この家で大観は毎朝5時に起床。すぐに風呂に入り、それから二階にある画室に入って、筆をもつこともなく思索にふける。8時少し前に階下に降りて朝食。その後は新聞を読んだり、手紙に目を通したりして過ごし、10時に再び二階の画室に向かう。興にのると昼食をとることもなく画業に励み、夕刻5時頃に仕事をやめて階下に降りる。

 大観は自然光の中でしか絵を描かず、夜、電球のもとのでは仕事をしなかった。夕食後は囲炉裏のある第二客間「鉦鼓洞」に座り、大好きな酒を嗜んだ。

 1階の客間には《梅図》の習作が展示してあり至近から鑑賞できる。完成品は香淳皇后昭和天皇の皇后)の父、久邇宮邦彦王の邸宅に飾られたものだという。記念館にある作品が習作となっているのかについて、係の人が説明していたが、扇と扇を並べたところ松の枝にずれがあったからなのだとか。いわれてみれば確かにずれていた。

 

 

 

 大観記念館の入館料は800円。近代日本絵画のチャンピオンともいうべき大家を偲ぶという意味ではまあ普通かなと思う。たまに寄ってみるのもいいかなと思う。

不忍とアメ横周遊

 大観記念館を出てから道路を渡って不忍池のぐるりを巡る。穏やかな午後という感じだろうか。

 

 

 不忍池には水鳥もたくさんいる。しかも慣れているのかなかなか逃げない。

 柵の上に止まったカモメも全然逃げる様子がない。

これはカモメ?

こっちは多分ユリカモメかスグロカモメ

こっちはキンクロハジロ? 目つきが悪いな

 不忍池を半周してから、そろそろ遅めの昼食をと思いアメ横に向かう。いつも前を通るだけの摩利支天にも寄って参拝してみる。祈るのは毎回同じで、妻と子どもの健康。

 

 アメ横はウィークデイでもかなりの人混み。やっぱり外国人が多いみたい。さてさてどこへ入ろうかとうろうろと歩き、ガードをくぐって反対側に。こっちは完全な飲み屋街だけど、昼からけっこう盛況だ。とりあえず安めで一人で入れそうなところを見つけてガソリンを入れることにした。

 

 小1時間、生2杯、ハイボール1杯、つまみ3品でほろ酔い。とりあえず胃の健康を祝してみる。それから上野の山へと向かった。

 

 

東京富士美術館「源氏物語 THE TALE OF GENJI」 (3月21日)

 今日で終幕となった東京富士美術館源氏物語 THE TALE OF GENJI ─「源氏文化」の拡がり 絵画、工芸から現代アートまで─」をぎりぎりセーフのタイミングで行ってきた。

 

 本企画展は、源氏物語の場面を絵画化した「源氏絵」を中心として、『源氏物語』や紫式部にまつわる美術、工芸、文学作品を紹介する大きな展覧会。その目的について企画展の監修者稲本万里子氏は以下ように綴っている。

  • 日本美術のなかでもっとも多く、長きにわたって絵画化されてきた物語は『源氏物語』である。
  • 平安時代以来、多くの絵師によって、絵巻、冊子、扇、色紙、屛風などに描かれてきた作品は源氏絵とし定着している。
  • これまでの美術史研究において、研究対象として重きをおかれていたのは、仏教絵画や城郭建築の障壁画である。それに対して源氏絵を含む物語絵は、女子どもの弄ぶもの、取るに足らないもの、研究に値しないものとされてきた。
  • しかし源氏絵は、天皇家や公家、武家、あるいは寺院の僧侶たちの私的な空間を彩る絵であったため、その私的な生活を知るために欠くことのできない作品でもある。さらに源氏絵は、やまと絵系の土佐派や住吉派だけでなく、漢画系の狩野派や岩佐派の絵師も手掛けているなど、流派を超えた同時代の潮流や、時代を超えた流派ごとの様式展開を知るためにも重要。

 さらに稲本氏は『源氏物語』を享受し再生した作品群や、『源氏物語』を享受し再生する営為を源氏文化と名付け、4つの点から研究を進めている。

  1. 源氏絵を『源氏物語』から派生した文学作品、翻訳作品、源氏能や宝塚歌劇、映画、漫画と同じく派生作品の一環としてとらえ、俯瞰的な視点から派生作品との関係性を探る。
  2. 源氏物語』以前の物語や物語絵、東アジア、西アジア、日本の物語絵との比較を行う。
  3. 美術史学、建築史学、日本史学、日本文学、情報学を専門にする研究者が、源氏絵研究領域、派生作品研究領域、比較源流研究領域の三領域に別れ、暗黙知を共有するまで対話を積み重ね、協働して研究を進めることで、個々人の研究を超えた研究成果を創発する。
  4. 源氏文化にかんするプラットフォームとして源氏文化ポータルを構築する。

 それらの研究成果、あるいは研究の途中経過として本企画展は位置付けられている。

 いやいや、NHK大河ドラマとのタイアップ、あるいは便乗企画的なものと高を括っていたのだが、非常に内容の濃い企画展だった。この美術展、他館や個人所蔵品等の貸し出しもあり、そのまま地方巡業という訳にはいかないのだろうが、富士美だけで終わってしまうのは惜しいと思ったりもした。

 さらにいえば、もっと早くに観に来るべきだったかなと思ったりもした。さすがに開館40周年記念と銘打っただけある充実した企画展で、3時頃に行ったのだけど、時間が足りないなと思った。終わってしまったのがとっても残念。

 企画展は4部構成になっている。

第1部 『源氏物語』とその時代

第2部 あらすじでたどる『源氏物語』の絵画

第3部 『源氏物語』の名品

第4部 近代における『源氏物語

エピローグ 現代によみがえる『源氏物語

 ウィークデイの午後だったけれど、予想以上に混んでいた。例によって宗教団体の集まりでもあったのかとでも思ったが、いやいやそうではなく源氏物語好きの方々、美術愛好家が多数来館されていた模様。さらにいえば春休みで若い学生さんらしき方も多数。やっぱり会期末ということもあったのだろうか。

 そんな中で、ちょっと困ったなと思ったのは、第2部の「あらすじでたどる『源氏物語』」の展示について。ガラスケース内の下部に絵巻物が展示してあり、正面には各巻のあらすじがパネル展示してある。みんなそのあらすじを読んでいるのでちっとも進まない。『源氏物語』の大まかなあらすじは知っていても、各巻それぞれとなるとまあ普通はよく知らない。なのであらすじ読んで、展示してある絵巻を観て、またあらすじに戻ってみたいな感じになる。

 さすがにこれはシンドイと思い、列から離れて他の展示に行った。別行動とっていた妻はというと車椅子なので、ずっと列に並ばなくてはならない。途中で戻って他のとこを観ようということにした。

 あと、この企画展では音声ガイドはなくて、持っているスマホで専用サイトにアクセスして解説を聴けるようになっているのだけど、イヤホン持っていない人が多数。みんなそのままスマホを耳にして聴いてる。まあ小さく音がこぼれるくらいならいいのだけど、音大きいままにして聴いてるおばさんとかもいた。まだまだタブレット文化の夜明けは遠いのかもしれない。

 自分は持っていたBluetoothイヤホンで妻がスマホで聴けるようにしてあげた。自分自身はほとんど音声ガイドを使ったことがない。でも妻も途中で操作が判らなくなったり、挙句は片方のイヤホンをどこかに落としたりとか(後で見つけることができた)。

 スマホタブレットを音声ガイド代わりにするというのはとてもいいけれど、なかなかこれは敷居が高い部分があるかもしれない。モノとヒトとのネットワークとかANT理論とか訳のわからんことをちょっと思ったりもした。

 

 充実した内容ということで図録購入をどうしようか考えた。図録本体と「あらすじでたどる『源氏物語』の絵画」の二分冊セットで3500円。しばし悩んだがこれは買っといたほうがいいかなと、清水の舞台的に購入した。

 

 以下気になった作品をいくつか。

 《紫式部図》 尾形光琳 18世紀 軸装 MOA美術館蔵

 

《秋好中宮図》 尾形光琳 18世紀 軸装 MOA美術館蔵

 

源氏物語図屏風》部分 狩野晴川院養信 1826年 屛風装 香川・法然寺蔵 重要文化財 

 

《住吉詣》 松岡映丘 軸装 1921年頃 二階堂美術館蔵

 

《源氏若柴》 安田靫彦 1933年 軸装 茨城県近代美術館蔵

 

《源氏帚木》 安田靫彦 1956年 軸装 二階堂美術館蔵

 

 《宇治の宮の姫君たち》 松岡映丘 1912年 屛風装 姫路市立美術館

 姫路市立美術館は一度行ったことがあるがこの作品は観ていない。こんな素晴らしい作品を持っていたとは。個人的にはこの絵を観ることができただけでこの企画展に来た甲斐があった。

 やまと絵は、土佐派、住吉派から江戸時代の琳派作品などや絵巻物などが、目玉かもしれないが、近代日本画の中での源氏物語の受容だけに限ってもかなり大がかりな企画展ができそうな気がする。本展でも松岡映丘や安田靫彦以外にも上村松園の作品なども展示してあったが、例えば伊勢の伊藤小坡美術館にも小坡《秋好中宮》など素晴らしい作品もある。せっかく大河ドラマ『光る君へ』で紫式部と『源氏物語』に注目が集まっているので、そういう切り口もあっていいかもしれない。

 そういえば洋画で源氏をモチーフにした作品ってあるのかな。と、今思いついたが。

MOA美術館-UKIYO-E 江戸の美人画 (3月16日)

 14日木曜日に寄ろうと思ったのだが、MOA美術館は木曜日が定休のようだ。なので小旅行最終日に寄ることにした。しかし車で行くとここはけっこう難儀な道を通る。険しい坂道を登って正門付近に着くと、そこで案内係に駐車場を案内される。それもまずQRコードを見せられ、それをスマホでスキャンすると地図が表示される。まあそれは見ないで看板を頼りに狭い坂道を登る。ほとんどぽつんと一軒家でよくある狭い山道みたいな感じだ。

 なんどもつづら折りの道を行くとようやく開けてきてMOA美術館の裏側に出る。そういえば数年前の熱海で土石流が起きたときには、そのすぐ後に行ったことがあったけどMOA美術館の駐車場に消防車やパトカーが何台も止まっていたっけ。

 伊豆にはここのところよく来ている。去年は3~4回来ただろうか。伊東の保養所がバリアフリー的に充実していること、ベッド仕様や家族風呂などもあるから。抽選申し込みでもウィークデイだとけっこうとりやすいとかもある。なので小旅行の頻度としては圧倒的に多い。

 となると伊豆の美術館に行くことが多いはずなのだが、この雑記の記録を調べると仕事を辞めてからまだ二度しか訪れていない。やっぱりあの坂道か、あるいはバックの宗教が気になるのか。いやそれはないな。富士美には数えきれないくらい行ってるし、まあ単なる巡り合わせか。まあしいていえば熱海はなんとなく通過するところという感じがある。そして今回思い知ったことだが、崖にへばりついた町だから。

MOA美術館「開館40周年記念名品展 第1部」 (2月25日) - トムジィの日常雑記

MOA美術館『没後80年 竹内栖鳳ー躍動する生命ー - トムジィの日常雑記

 

MOA美術館-UKIYO-E 江戸の美人画

 

 

 MOA美術館コレクションによる肉筆及び版画の美人画を中心とした浮世絵を展観する企画展。重要文化財四点を含む70点弱が展示されている。いっぱい持ってるんだなと改めて思う。

 しかしMOA美術館、土曜日ということもあるけどえらく盛況。これまで来たなかで一番賑わっている。とにかく展示作品を観るためには列にならんで観る必要がある。その列の進むのがえらくゆっくりで。まるでトーハクの企画展かと思えるくらいに鑑賞客が多い。ただトーハクとは違うのは客層。あっちはだいたい高齢者が多いけど、MOAはとにかく若い子たちが多い。なんていうか大学生の修学旅行の団体さんが来ていますみたいな感じ。

 ということで列には並ばず、空いてそうなところを飛ばし飛ばしに観ることにしました。

《誰ヶ袖図屏風》

《誰ヶ袖図屏風》  17世紀

美しい衣裳によって着る美人を連想するとの発想から、衣裳だけを描く「誰ヶ袖」屏風と呼ばれる風俗画が生まれた。衣桁に小袖・打掛・袴や香袋などを描き、背景を金と銀の片身替りにし、装飾効果をあげている。(解説キャプションより)

 これがあの名高い《誰ケ袖図》か。というかこの作品は、このオリジナルを観るよりも先に京都で福田美蘭のパロディを観ているので、なんというやっとオリジナルを実見したみたいなちょっとした感慨があったりする。

 福田美蘭のやつはこれなんだけどね。いつものごとく著作権ぎりぎりを攻めてきている。これ観ているので、いつかは本歌の方を観てみたいとは思っていた。

《誰ヶ袖図》 (福田美蘭) 2015年 京都市美術館蔵 
《花見鷹狩図屏風》
《花見鷹狩図屏風》 (伝 雲谷等顔)  桃山時代 16世紀

 重要文化財である。

向かって左隻には「武家の鷹狩」を描き、右隻には「庶民の花見」を描く遊楽図屏風の一つである。両隻ともに水墨を基調として表現しているが、花見図が金箔や色彩を多く用い華やかさを出しているのに対し、鷹狩図はあくまで水墨画的であり、主題・色彩ともに左右対照の妙を見せている。慶長期(1596~1615)に描かれたこの種の初期風俗画の多くは、狩野(かのう)派の画人の手になるものであったのに対して、本図は、樹木や岩組に見られる筆法や風景構成から、雲谷派の祖、雲谷等顔(1547~1618)の筆とされる点で注目に値する。等顔は、雪舟(せっしゅう)の画風に傾倒して個性的な水墨画形式を創造し、雲谷派の基礎を築き上げた桃山時代の代表的画家である。

https://www.moaart.or.jp/?collections=062

《調髪美人図》

《調髪美人図》 (鳥居清信) 17世紀

 鳥居清信は17世紀から18世紀にかけて活躍した鳥居派の祖。見ての通り、この頃はまだ浮世絵の美人画スタイルともいうべき面長細面に切れ長の目は確立していない。どちらかといえば写実性とやまと絵的なふっくらとした面容だ。浮世絵は次第に商品化が進むにつれてキャラ化ともいうべきスタイルが定着していく。

 以前どこかで浮世絵美人画は今のアニメの萌え絵と一緒みたいなことを書かれる方のブログを読んだことがあって、なるほどと思ったことがある。アニメの萌え絵もみんなキラキラして目の大きな同じ顔立ちのスタイル。浮世絵もあれと同じなんだということ。そういう意味でいえば平安時代のやまと絵の引き目かぎ鼻も、あれが当時の美人のキャラだったということで、美意識の変遷みたいなことなんでしょう。多分これについえはきっと論文とかいくつも出ているような気がする。

《立美人図》

《立美人図》 (松野親信) 江戸時代 18世紀

 松野親信は懐月堂風の画風とは解説キャプションにある。懐月堂や同じころの宮川長春を祖とする宮川派、肉筆専門でややふっくらとした下膨れ的な面容の美人画を多く描いていた。これらは例の面長、切れ長の喜多川派、歌川派とは一線を画すのかとは、今適当に思ったこと。

《化粧美人図》

《化粧美人図》 (西川祐信) 江戸時代 18世紀

 これもふくよかな顔立ち。鏡に映った顔とその前に本人の顔が微妙に異なっていて、本人の方が切れ長の目をしているのがちょっと面白いなと思った。

《柳下腰掛美人図》

《柳下腰掛美人図》 (宮川長春) 江戸時代 18世紀

 宮川派の祖。宮川派もふっくらとした容貌の絵を得意とした。宮川派は長亀、一笑、春水らの門人を擁した。寛永3年(1750)に稲荷橋狩野家の日光廟修復のときに報酬不払いで狩野家と紛争になり長春は暴行を受けたという。その報復で門人らが稲荷橋狩野家邸に斬り込むという事件がおきる。この事件で科で弟子の宮川一笑は伊豆新島に流罪となりその地で没したという。

《寒泉浴図》

《寒泉浴図》 (喜多川歌麿) 江戸時代 1799年頃

 歌麿の最晩年の肉筆画。風呂おけの写実的な描写に対して女性の姿はどこかデフォルメというか柔らかなフォルムになっている。このポーズかなり無理があるような気もしないでもないが、後ろ姿というのがどうにもエロチックでもある。

《二美人図》

《二美人図》 (葛飾北斎) 江戸時代 19世紀初期

 これも重要文化財北斎は勝川春章に師事して勝川春朗と称して画業を出発し、その後土佐派、狩野派琳派などの画風を学んで一家をなした。この作品は葛飾北斎の40代の作品。

《雪月花図》

 《雪月花図》 勝川春章 江戸時代 18世紀

 これも重要文化財

雪月花の三幅対に王朝の三才媛、清少納言紫式部小野小町を、当世市井の婦女に見立て描いている。春章が貴顕・富豪の求めに応じて肉筆美人画に専念した天明年間の作であろう。 (解説キャプションより)

《婦女風俗十二ヶ月図》

 

《婦女風俗十二ヶ月図》 (勝川春章) 江戸時代 18世紀

この作品は肉筆浮世絵の中でも代表的な傑作で、当初の十二幅中、一月と三月の二幅が失われている。そのため、歌川国芳(くによし)によって補充されたが、現在その一幅も失われ、「三月・潮干狩図」のみが現存している。この揃物は、春章の最も脂の乗った天明期(1781~89)の作で、月々の季節感や行事を各図に背景として見事に取り入れている。また、縦長の画面に、数人の婦女子と楼舎、調度、花卉などを巧みに描き込んだ構図の美しさや精緻な描写も、肉筆画における春章の優れた力量を見せている。とりわけ美人の衣裳に見られる細密な描写と色彩には、春章の非凡な手腕が発揮されている。最後の「十二月節分図」だけに「旭朗井勝春章画」の落款と、「酉爾」の朱文方印が捺されている。松浦家伝来。

https://www.moaart.or.jp/?collections=078

 重要文化財。見事な作品だと思う。今回の企画展の中でももっとも美し異彩を放っている。この作品を観るためだけで熱海にやってくる価値があるかもしれない。12ヶ月のうち一月と三月の二幅がうしなわれ、国芳によって補充されたが、それも一月は失われたとMOA美術館HPの解説にあるとおりだ。

 おそらくこの十二ヶ月図は多くの絵師、画家に影響を与えたことだろう。鏑木清方の《明治風俗十二ヶ月》も春章に影響を受けていると思う。

 勝川春章(1743-1792)は宮川春水に師事し画業をスタートさせた。明和年間に一筆斎文調とともに役者の顔を写実的に描写する役者似顔絵を始め、歌舞伎絵の主流となった。宮川派の系譜をひく春章のの肉筆美人浮世絵は当時から評判が高かった。勝川派の祖でもあり、門人に春好、春英、春朗(のちの葛飾北斎)らがいる。

熱海周遊 (3月14日)

 先週、木金土と伊豆旅行に行ってきた。いつものごとく健保の宿が抽選であたったから。伊東にある保養所は他の保養所に比べると施設が新しく、ちょっとしたホテルみたいな感じで人気があり、抽選でも外れることが多い。現役時代、土日や連休で申し込んで当たったことが一度もなかった。リタイアしてウィークデイで申し込むにようになってからは五割くらいの確率で当たるようになった。

 ここはベッドが標準のため、妻が利用するのに一番いい。他の保養所は畳で布団が基本なのでけっこう起き上がるのにかなり難儀なことが多い。最近は折り畳み式の簡易ベッドを用意してくれることも多いけど。そんなこんなで伊東の保養所に行くことが増えている。

熱海は斜面にへばりついた町

 初日は妻のリクエストで熱海の繁華街を回りたいという。そういえば熱海はいつも通過するだけでほとんど観光したことはない。行くのはたいていMOA美術館くらいだろうか。以前、会社の同僚たちとオヤジ旅行したときに少し回った記憶があるが、なんとなく坂が多い印象だった。そして今回それが思っていた以上だったことがよく判った。

 

 まず車はサンビーチに近接した市営駐車場に止めた。観光するには一番いいかと思ったのだが、これはあまりいい選択だったのかどうか。

 まずは海沿いの遊歩道を歩く。それから一般道へ出るには・・・・・・、階段を上り下りして駐車場の上の歩道橋を通る必要がある。結局来た道を引き返して一度駐車場に戻り、そこから脇に出る。

 すぐそこには熱海のシンボル?、『金色夜叉』の寛一お宮の像がある。

 

 その後は熱海の繁華街を目指すのだが、なにか有効な道がない。途中、ホテルの脇に「熱海駅〇〇メートル」みたいな案内板が出ているのだが、たいていは急な階段が延々続く。そこでだいぶ戻ってから駅方向の道に入りそこから熱海銀座にでてさらに上る。そこからはもう蛇行しながらきつい坂が延々と続く。そうだったな熱海は坂だらけの町だということを、昔の記憶がじょじょに蘇る。そして改めて思うに、熱海は坂だらけの町というより急斜面、崖にへばりついてできた町みたいだ。この町で老後を過ごすのはけっこう大変だなあと思ったりもした。

 かってはオヤジ旅行でほろ酔いかげんでうろうろしたのだが、今は車椅子を押してである。かなりしんどい、きつい。そしてようやく一番賑やかな平和通り名店街に出る。

 妻そこで食べ歩きをしたがっていたのだが、ウィークデイなのに凄い人出である。熱海は賑わっているなというのが一番の印象。客層はというと意外と外国人が少ない。圧倒的に多いのは若いカップルや集団。春休みということもあるし、多分大学生の卒業旅行とかそういうことなのだろうか。

 人気のまる天とかの前は長蛇の列。ちょうど昼時だったので食堂系、特に海鮮丼を食べさせる店の前にも行列ができている。これは並ぶのもちょっとしんどいなと思った。さらにいうと平和通り名店街も緩やかとはいえ、ずっと坂道である。それまでのかなりきつい勾配を上ってきているので、けっこう足にきている。

 食べ歩きを諦めて来た道を戻ることにする。途中で喫茶店「くろんぼ」なる店を見かけたりする。あとでネットで調べるとレトロな雰囲気でそこそこ有名な店のようだ。しかし今どきその名称はちょっとどうかと思ったりもする。

 大阪で家族三人で始めた「黒人差別をなくす会」による抗議の手紙で、『ちびくろサンボ』が絶版となったこと、カルピスのシンボルマークやタカラのダッコちゃん人形などが使用停止、発売停止になったことなど、1980年代に様々なムーブメントがあったことをちょっと思い出したりした。出版社が軒並み抗議を恐れて絶版、発売停止したが、抗議の主体はあくまで三人の家族、しかも当時小学生だった少年の発案だったとか、そういう話だった。

 たしか『ドリトル先生』シリーズの井伏鱒二訳にも差別的表現があり、会は抗議の手紙を送ったが、編集者が翻訳にも歴史的限界があることを明記した一文を『ドリトル先生』シリーズ各巻に投げ込むことで、発売停止をのがれたとかそういう話を読んだことがあった。

 しかし21世紀の今日にあって「くろんぼ」もないだろうと思う部分もあるが、しょせんは観光地のことだし、目くじらたてるのもなんなんかなと思ったり。

 

 昼飯は坂を下る途中で博多ラーメンの店があったのでそこで昼食をとる。まあまあ普通に美味しい。

 

熱海山口美術館

 

熱海山口美術館|体験と学びの美術館

 ここは去年の9月に訪れて以来だ。岡本太郎の河童がお出迎えしてくれる。入館料1400円だが、1階奥にある喫茶室でのドリンク一杯無料と絵付け体験がセットになっているのでまあまあお得感もある。

 

 喫茶室にはリトグラフや版画類が雑然と飾られている。ピカソやルオーのリトグラフと奥に見える片岡球子には60万の値がついている。多分販売をしているのだろう。

平櫛田中

岡倉天心胸像 (平櫛田中

 つい最近、谷中の岡倉天心記念公園の六角堂で観たのと同じ胸像。鋳造品はけっこうあちこちにあるようだ。

横山大観

横山大観4作

 前回と同じ展示だったので、大観作品はまさしく常設展示してあるようだ。一番左の《鶯》は幹の部分はたらしこみ、葉は輪郭線がないなど、技巧の技を尽くしているようだ。

《鶯》 (横山大観
芹沢銈介

法然上人御像》 (芹沢銈介)

 先日、東近美の日本画の室でミニコーナー的に展示してあった型染による染色家、図案家だ。そういえばこの人の美術館がたしか登呂遺跡の隣にあったことを思い出した。確か観ているはずだったがあまり記憶になかったな。

美人画と人形

 

 

 前回来た時に魯山人の陶器と日本画の並列展示に感心した。今回も陳列してあったが、今回はこの美人画と人形の並列展示が思いのほかよい感じがした。上のものがたしか鏑木清方、下の水彩画は安井曾太郎だったと記憶している。

現代芸術コーナー

岡本太郎

奈良美智

村上隆

 熱海山口美術館は小ぶりでアパートの各室を展示室にしたような、ちょっとした画廊の集合体のような雰囲気の美術館だ。収蔵品も小粒ながらなかなか名品も揃っているので、たまに訪れると小1時間、和やかに気分になれる。

 そして春休みということで、駅周辺はえらく賑わっている熱海の喧騒もこの美術館のあたりまでこない。ようするに空いている。熱海といえばMOAみたいな印象もあるが、この小ぶりの美術館ももう少し賑わいがあってもいいかもしれない。