

美術館の初詣、今年はポーラ美術館から。
「Spring Rising わきあがる鼓動」
企画展は「Spring Rising わきあがる鼓動」というもの。ちょっとタイトルからは内容がわかりにくい。開催概要はこんな感じ。
春、生命が再生する時間。テクノロジーが社会を覆い尽くす現代において、私たちは身近な自然の驚異や足元に広がる土地の記憶、そして人間の内なる根源的な力を見つめ直し、いっそう鋭敏に感じ取ろうとしています。本展覧会「SPRING(スプリング)わきあがる鼓動」は、アートにおける飛躍する力に光をあて、人間やこの世界の奥底から春の芽吹きのようにわきあがる鼓動を宿し、私たちの感性をゆさぶる絵画、彫刻、工芸、インスタレーション作品を紹介します。
ちょっと何言ってるのかわからない。
Spring risingは直訳すれば「春の到来」。要は春、自然が、生命が再生され躍動する。それと同じように我々の心、感性をゆさぶる、躍動させるようなアートの力、作品を紹介するというような、意味合いなのだろうか。まあいいか。
個人的にはなんでもアートの力とか、アートを味わうとか、アートを感じるとか、そのてのなんでもかんでもアート、アートっていうのはちょっと微妙ではある。
子どもが学生時代、友だちと美術館行きたいけど、どこかお勧めあるかと聞かれたことがある。よく聞くと、インスタとかで自己発信をしている意識高い系の友だちが、アートしたいと言っているからとか。苦笑しつつもモダンアートだったら、東京都現代美術館か竹橋の近代美術館あたりかねえと、適当に答えたことがあったが。
とりあえず今回のポーラ美術館は、感性をゆさぶるアートの力、そして身近な自然ということで、立地している箱根の自然にもスポットライトをあてているようだ。最初に近くにいた監視員さんに、「今回の企画展のコンセプト難しいね」と話しかけたら「美術館開館以来初めて箱根をテーマにしています」とのことでした。
そして入ってすぐのところにあるのがこんなインスタレーション。

下から送風して薄い透き通った布を噴き上げている。四角はワイアーで固定してあるので、崩れたり落ちたりもしない。中学生的直訳すれば「限界的大気空間-時間」。まあこれはなんだな、考えるな感じろ系なんだろうか。観ていてけっこう落ち着くことは落ち着くのだけど。
そして次の間は浮世絵風景画、近代の洋画などに描かれた箱根の絵などが並ぶ。テーマは身近な自然-箱根である。そして箱根といえば広重のこれ。

そして箱根といえば富士山。

作家蔵
そして次の間ではストーリーズとしてイケムラレイコ、丸山直文の作品が。特にイケムラレイコは歌川広重《東海道五十三次》にインスパイアされた《Hiroshige series》というパステル画の小品連絡があり、さらに不思議な生き物や精霊たちが生息する山間の湖畔風景を描いた大作見せてくれる。









乳剤、油彩、アクリル他/カンヴァス 個人蔵
アンゼルム・キーファーは新表現主義と称される現代ドイツを代表する画家の一人。ドイツの歴史、記憶、生命、そうしたものがすべて流れ込む総体としてライン川を画面上に構築しているらしい。極めて抽象性の高い作品なのだが、どこととなく森の小径、あるいは森の中を流れる小川のような趣もある。ライン川の源流ー始原、ドイツ的なものの原初みたいな意味性を込めた具象的絵画のようにも思えてきたりもする。
そして今回の企画展の目玉の一つでもあるのが、ポーラ美術館所蔵のアンリ・ルソー作品四点の揃い踏み。アンリ・ルソーとアートの躍動がちょっと結びつかないのだが、まあ気にしない。

油彩/カンヴァス ポーラ美術館蔵

油彩/カンヴァス ポーラ美術館蔵

油彩/カンヴァス ポーラ美術館蔵

油彩/カンヴァス ポーラ美術館蔵
そして企画展のエピローグは名和晃平のオブジェ作品。デジタル画像の「Pixel(画素)」と、静物の最小構成単位「Cell(細胞)」をかけ合わせた独自の概念「PixCell」を具現化した彫刻として、動物の剥製を最先端の接着技術を用いて人口クリスタルボールで覆う不思議な作品を提示してみせる。




常設展-森村泰昌とシンディ・シャーマン
B2Fの展示室5の常設展示コーナーに森村泰昌とシンディ・シャーマンの作品が並列して展示してあった。森村泰昌の作品は、前回の「ゴッホ・インパクト」で一室を使って展示してあったし、ポーラ美術館にはいくつかの作品がコレクションされていることは知っていた。しかしシンディ・シャーマンの作品があるというのは初めて知った。それこそ「聞いてないよ」的な感じだ。
森村泰昌とシンディ・シャーマンは、それぞれセルフ・ポートレイトを得意とした作品を提示し続けている。その手法はシミュレーショニズムというもので、「擬態」という意味をもっている。社会的に流通しているイメージや名画等のイメージへの固定観念が定着したものを利用しつつ、その背後にある暗黙の前提や偏見を明るみに出すことを目的としている。
特にシンディ・シャーマンの代表作である「アンタイトルド・フィルム・スティル」シリーズは、ピンナップ写真やハリウッドやヌーベルバーグの映画から借用したさまざまなシーン、カットのイメージを、シャーマン自身がヒロインにふんして再現するというものだ。
その作品によって、鑑賞者はそのイメージを受け取る自分たちの視線や立ち位置を意識せざるを得なくなる。ようはシミュレーショニズムによる作品は、鑑賞者の視線の背景にあるアイデンティティへの揺さぶることになるのだ。
端的にいえば、シンディ・シャーマンが演じる、なりきるイメージは若い女性のポートレイトであり、そこに観る側は性的なイメージを投影している。それはそのまま自分たちが女性に対して日頃抱いている性的イメージを可視化させることになるというものだ。

これはやられたなというくらいインパクトがある。映画の一シーン、あるいはグラビア写真の1ページ。若く美しい女優然としたモデル=女性の魅力的な仕草。そこに性的イメージを投影する男性性として自分が反射しているような、そんな気分。下世話にいえば、「どこ見ているのよ」である。
そしてまたシンディ・シャーマンのもう一つのテーマともいうべき、見られる女性性のもつ根源的な悲しみである。それはじょじょにセルフポートレイトを離れて、死のイメージへと移っていくのだが、80年代のカラー写真では、シャーマンの内的な悲しみを投影した作品が描かれている。

一方、森村の作品はこの二点。

これはたぶんモネの描いたベルト・モリゾのなりきりじゃないかと思ったりもする。
しかしこうやってシンディ・シャーマンと森村泰昌のなりきり作品をつらつら観ていると、結局シミュレーショニズムが成立するのは、森村泰昌が男性としてはイケメンであること、シンディ・シャーマンが美人であること、要はルッキズム的な優位性があるからではないかと、そんなことが思えてきたりもする。
もっともそうしたイケメンを見る、美人を見るというこちらの視線をも相対化させる、そうした効果を狙っているのかもしれないと思ったりもする。
以前、森村泰昌が著書の中で自らとシンディ・シャーマンのセルフ・ポートレイトについて語ったものがあった。
私の作品は、借用しているイメージが明確で、ああ、あれはゴッホのあの絵がもとになっているなとか、これはレンブラントだとかすぐわかる仕掛けになっている。しかもそれはモリムラ流儀に改竄され、通常の教科書的解釈をくつがえしたり、美術史の常識を踏み外したりしているので、美術世界や文化に対する挑発的行為になっている。
いっぽうおなじセルフポートレイトでも、シンディ・シャーマンのほうは、映画風だったり絵画楓だったりしても、特定のなにかのイメージがそのまま借用されているわけではない。どこかで見たような気分にさせられるので出展を調べてみるのですが、やっぱりオリジナルは見当たらない。つまりシンディの作品はなにかのコピーのように見えるのだけれど、元絵がないので、いわば「オリジナルなきコピーである。