『介護未満の父に起きたこと』を読んで

 たまたま書店で手に取ってつい買ってしまった本。最近、こういう衝動買いはめっきりない。

 ジェーン・スーはなんとなく知っている。コラムニストでラジオパーソナリティ。そのペンネームから外国人かと思いきや、れっきとした日本人。働く女性の本音と世の中の事象をうまく表現したりポイントをついた警句が、けっこうツボにはまるというか、割と好きな人でもある。

 もっともこの人の本を読んだのはずいぶんと前のこと。たぶんブレイクした『私たちがプロポーズされないのには、101の理由があってだな』とかそのあたり。以前、おもわず膝を打つみたいな感じで感心した警句はこんなものだったか。記憶が曖昧なのでちょっと違うかもしれないけど。

女ともだちは一生もの。ちょっとしたメンテをおろそかにしなければ。

 なるほどなと感心した。この女ともだちはそのまま一般的な友だち関係ということになる。ほどよい間隔で連絡をとりあったり、たまに会ったり。そして冠婚葬祭とか諸々。そういう部分を怠らなければ、友人とは疎遠はならない。もちろんなんとなく疎遠になる、連絡をとったり会うのが疎ましく感じる。そういう人はもともと友人ではなかったということかもしれない。

 自分は自他共に認める友人が少ない。まあそれには家庭環境の複雑さとかいろいろある。それ以前に自分自身の性格的な面(これが多分一番だ)。そしてそして人間関係に関するズボラさ、面倒くさがり屋という部分。連絡とらなくてはとか、会わなくてとはとか、そういう部分で面倒くさくなってなんとなく後回しにして、そのまま放置みたいな。まあそういう諸々の結果が孤独な老人しているみたいな感じだろうか。

 まあいい、それはまた別の話だ。

 『介護未満の父に起きたこと』は、アラフィフになったジェーン・スーが、唯一の肉親であり一人住まいをしている80オーバーの父親の介護に奔走する話だ。父親は事業に失敗して、ジェーン・スーが面倒をみて住まわせている賃貸の団地住まい。妻は20年近く前に亡くなっている。その父親が加齢もあり、どうも一人での暮らしが破綻し始めている。家の中は汚部屋寸前となり、一人での食事もままならない状態。身体的にはまだどこにも障害がない。

「老人以上、介護未満」

 そうした父親の状態を改善するために娘が奔走する。

本書は、わが父の82歳から87歳までの生活記録である。要介護認定されるほどではないが、足腰と記憶力が弱り、自分ひとりでは回せなくなった父親の生活を、如何にして滞りなく進めるかを試行錯誤した記録だ。しかも、同居はせずに。

 ジェーン・スーはパワーエリートに匹敵するような仕事ができる人でもある。いくつかの会社を転職後に40前後になってから、ラジオパーソナリティ、作家としてブレイクした人である。最初に書いたように世相の切り取り方、そしてそれをきちんと適格に表現する抜群の感覚を持っている。シングルのワーキング・ウーマンの心情を的確に現わし、自ら働く優れた女性を実践している。そういう女性が、老いた父親の介護のために始めたことはなにか。

 彼女は、問題解決が好きなのは、自分の長所でもあり短所だと語る。そして「親子関係の対極にあるのはビジネスだ」として、ビジネス書の問題解決法に解を見出そうとする。まずは目的を明確化し、そのための問題とその解決のためのタスクをチャート化していく。最近のビジネス書によくある仕事の見える化、マニュアル化が大好きな仕事人たちの心にするっと入るような方法論だ(これ、馬鹿にしてないから)。

 彼女のチャートはこんな風だ。笑えるけど笑えない。

 

 こういう介護のビジネスライクな割り切り。なんか凄くわかる。実は自分もそんな風にしてやってきたから。

 このブログのような日記のような。もともとこれはハテナダイアリーとして始めたものだけど、かなり適当な手記だったのが一気に書くことが増えたのは2005年の11月に妻が脳梗塞で倒れた時だった。いやはやもう20年も前のことで、なんとも感慨めいたことも実はなかったりする。でもあのときは何か憑りつかれたようにして言語化しようと努力していた。仕事、看病、介護、子育て、様々なことに追われつつも、それを記録化し、どこかで客観性を保とうみたいなことを考えていたかもしれない。まあほとんど読み返すこともないが、それでも3年目、5年目あたりでは、けっこう参考になったりもした。とても客観性に乏しい稚拙な綴りではあっても、当時はこうだった的な部分はそれなりに第三者的な視点も少なくともそういう意識づけだけはあったような。

 当時、ボロボロになりながら、なんとか状況に流されるままではなく、なんとか前に進めなくてはと思ったときに、自分は何を考えていたかというと、多分にジェーン・スーと同じような感覚だった。これは仕事だ。状況に問題が多数あるのだから、それを解決するために何をすべきか。優先順位はなにか。とにかく次から次へと押し寄せてくる問題、課題を解決する。それからは次に何をすべきか、一つの問題がクリアされたら、その次は何をすべきか、二の矢、三の矢はどうする。

 妻が倒れ、脳に大きな障害が起き身体的には片麻痺となり、高次脳機能障害という外からは見えにくいが深刻な状態になってしまった。急性期リハビリをどうするか、その間に一度脳の大きな手術を経験し、6ヶ月後に退院して自宅での生活が始まったこと。

 会社はけっこうそういう自分の状況を考慮してくれたが、その分当然メインストリームの業務からは外れた。そんななかでもとにかく仕事をこなし、小学低学年の子どもの世話をし、社会資源として介護保険サービスを最大限利用して生活を構築すること。

 ついでにいえば、病気になる前は共働きで妻のほうが若干収入が良かった。前年にマンションから一戸建てに引っ越し、二人で月に15万くらいのローン組んでいた。その収入は半減してローンだけ残って。そういう状況で自宅の売却とローン返済、より安い物件の購入。

 様々なことにおいて、次に何をする実践してきた。それは基本的に全部仕事という割り切りをすることだった。

 なのでジェーン・スーが父親の介護、生活援助、そのた諸々を仕事として割り切って行うという問題意識は、きわめて共有、共感できる。そしてつくづくジェーン・スーという女性がパワー・ウーマンであるとは思ったりもした。一方で頻繁に遠隔でウーバーイーツなどで父親の食事などを調達するところや、家事代行サービスなども行うところは、最後は金目かなと思ったりもした。そう、多くのことは金目で解決できるのだが、たいていの場合に問題はその原資にいきつくのだとも。

 今回、この本を手に取って購買行動および読書行動に出たのは、父親の介護や介助の話に共感したからだけではない。たぶん介護ということだけでいえば、もっと核心的な現実問題を描いた体験談とか、苦労話、などは沢山出ている。そういうものをいちいち読みたいとは思わない。そもそも苦労は自分でもしているし、同病相憐れむ的な共感性などいまさらないわという部分もある。

 とはいえたまにはそういう介助・介護の今みたいな話を読んで、情報のアップデートは必要だとは思う。でもなんだろう、いつの頃か次を考えながら動くみたいなことが億劫になっている部分もある。オジイさん、ちょっと疲れてしまいまして、みたいな虚脱感だろうか。

 我が家も今のところは妻との二人暮らしで平穏は平穏だが、いつ妻の状態が悪化するかわからない。そして自分自身も次第に老いとかそういう部分が可視化されてきている。いわば今の平穏はギリギリのラインの綱渡りみたいな部分もなきにしもなのだ。だからこそ、本当はそういうことをへの想像力を働かせて、次やるべきことをタスク化すべきなんだが、こういうのはなんとなく一日一日を後回しにしている。

 結局のところ仕事化、ビジネスライクな問題解決法って、差し迫った現実的問題に直面しないとモチベーションが起きないのかもしれない。そして次第に押し寄せる老いという現実は、そのモチベーションすら減滅させていくのかもしれない。

 そう、この本を手に取って読もうかと思ったのは、ジェーン・スーの父親をいかにして介助・介護するか、父親の生活を立て直し、できるだけ長く父親が一人で精神的・肉体的に健やかに暮らしていけるか、そういうことのための施策、試行錯誤について知るためではない。

 問題はジェーン・スーの父親が、80を過ぎて今まで出来たことが次第に出来なくなっていくという部分だ。それはある意味明日の自分かもしれないという一種の恐れ。来年70となるアラ古希の自分は、もし大病とかしなくてもあと10年すれば、ジェーン・スーの父親と同じ年齢となる。部屋の片づけができなくなり、しじゅういろいろなもの失くし、そのたびに買い足す。

 父親の汚部屋を整理して大掃除をするために、ジェーン・スーは家事代行サービスの2名と一緒一大作業を行う。そのときにハサミが幾つも出てくる。「ダブりまくってもの」はタオル、ハサミ、詰め替え用洗剤などなど。

 そういう経験は自分にもある。亡くなった兄の部屋は放っておくとすぐに汚部屋となる。その掃除を定期的にするのは自分の役目だった。そのたびに「ダブりまくるもの」が沢山出てきた。亡くなった後に部屋のものをすべて整理して廃棄した。そのときにハサミやドライバーの類は両手以上に出てきた。これって汚部屋アルアルなんだとは思う。

 兄は70になるかならないかでそういう状態になった。様々な病気を抱えていたせいもあるが、50代のときから汚部屋放置だから性格的な部分も大きかったのだろう。

 自分はというと少なくとも清潔好きでもなんでもないが、ごみ捨ては毎日きちんとやる。洗濯もほとんど毎日だ。掃除は週に一回だが、一応4LDK全部に掃除機かけているのでとりあえず良しとしている。毎食ごとに食器は必ず洗う。絶対に汚れた食器を放置しない。そういうルーチンはいったん反故にすると、たぶん様々にルール化されたものが崩れていくのだろう。

 でも多分、多分だけど、年齢とともに、今すべきことが後でになり、今日すべきことが明日になる。そして今までできていたことが次第にできなくなってくる。ジェーン・スーの父親は、日がな一日ソファに寝そべりテレビを見る生活を続けている。80を過ぎれば人間そんなものだろう。

 多分、この本を読んだのは、介護する自分との共感性ではない。あと10年もすれば何もできなくなる自分への強迫観念めいた心性、そのへんかもしれない。でも読んだところで何も解決されないし、問題意識ももたない。友人と少し話すと、結局健康寿命を延ばすために健康に留意して生活すること、身体面では可動領域を維持確保することみたいに言われている。

「わかってるよ、そんなこと。でも、そんなのやらないや」

 自分で言って、二人で笑いこけた。

 

 最後に本書でジェーン・スーの警句的に響いた言葉があとがきの中にある。

 80を超えた父親はなぜか実の娘以外には疎まれず、会食にも誘ってもらえるというように対人関係も悪くない。友人どころか多少なりとも世話をしてくれる女友だちもいるのだそうな。その理由はなにか。

 一つは清潔感。

 父親は常に小ぎれいにしていて、散髪にもまめに行くし、無精髭を生やしたまま外出することもないし、耳毛や鼻毛などもない。服装もきちんとしている。ジェーン・スーによれば、「歳を重ねれば重ねるほど、身だしなみによる清潔感は他者との関係性を紡ぎ維持するために重要だ」。

 もう一つは自慢話をしないこと。

 自慢話をしないことは、相手に「好反応をしなければ」という負荷をかけずにコミュニケーションがとれるのだそうだ。そして威張ったりマウントをとったりは一切しないことも重要なのだと。

 

 なるほどと思う。人間は小ぎれいにしていないとダメだなとは思う。自分はどうか。一応、毎日風呂に入るし、下着を含めて着るものは毎日替える。人と会うときにはそれなりの服を着ている。たぶん今のところ大丈夫だ。

 自慢話をしない。これはちょっと自信がない。老人となれば、基本的に昔話が多くなる。過去の仕事的でいえば、一応サラリーマン双六で上がりの状態でリタイアしているから、なんとなく偉そうなことを言っているかもしれない。趣味というか、今は一応通信教育の学生とかしているが、そのへんのことを話していても、どこか偉そうになっているかもしれない。

 本当はね、自分のことを話すよりも、相手の話に耳を傾けることをメインにしていればいいのだが、どこかで自己主張が強くなってしまい、相手の話を遮ってみたいな最悪な部分もあるかもしれない。

 清潔でいること、自慢話をしないこと。

 どっちも重要なことだと、この年になって改めて思ったりもする。