朝日新聞の朝刊一面の記事。
調査は、原則3年ごとの実施で、全ての小学6年と中学3年を対象に毎年実施する全国学力調査とは別。ほぼ同じ問題(非公表)を出し、16年度以降の3回分が比較可能という。
結果は500を基準とするスコアで示された。参加者の平均スコアは、小6=国語489・9(前回比15・9ポイント減)、算数486・3(同20・9ポイント減)▽中3=国語499・0(同12・7ポイント減)、数学503・0(同8・0ポイント減)、英語478・2(同22・9ポイント減)。前回は、下がった教科はなかった。
文科省の幹部は「こんなに有意に下がったことはない。深刻だ」と述べたという。そして文科省の専門家会議に関わるお茶の水女子大名誉教授耳塚寛明教授は「要因は複合的で、一つずつ確認する作業が必要」と指摘した。保護者への質問調査では、「子どもがゲームやスマートフォンを使う時間が前回より増え、学校外の勉強時間が減った」という。
さらに詳しい解説記事が三面にも載っていた。
スコアが前回より大きく下がったのはなぜか。耳塚寛明・お茶の水女子大名誉教授は、主に四つの要因を挙げる。(1)勉強時間の減少(2)学習指導要領にある「知識・技能」の定着不足(3)家庭の経済的な背景(4)SNSやゲームなどのデジタル環境の影響――だ。特に(4)が「一番大きいかもしれない」とみる。
まず学校外の勉強時間が短くなった。塾なども含む平日の勉強時間は、小6が1時間3分(前回比6分減)、中3が1時間23分(同11分減)。勉強時間が長いほど成績は高い傾向だった。
代わって延びたのがゲームやスマートフォンの時間。平日の平均時間は、小6=ゲーム1時間43分(前回比18分増)、スマホ1時間5分(同22分増)▽中3=ゲーム1時間48分(同22分増)、スマホ1時間56分(同20分増)。ゲームの時間が長い子ほど、調査のスコアは低い傾向だった。スマホも一定の時間を超えるとスコアは下がった。
結局のところ、デジタル環境の影響。スマホばかりしていて勉強しなくなったということ。まあこれは判り切ったことだとは思う。
同じ記事の中に読書の減少、本を読まなくなったことでリテラシー能力が減少したことの証左として以下のような指摘もされていた。
文科省は、「家にある本の冊数」と、スコアとの関係も分析した。本の冊数を、親の所得や学歴などの要素(社会経済的背景=SES)を表す指標とし、0~25冊、26~100冊、101冊以上の三つの層に分け、前回調査と比べた。その結果、SESが低い層で特にスコアの低下が目立っていた。「0~25冊」層は、小学国語・算数と中学国語・数学でスコアが10~18ポイントほど下がっていた。
なるほど、なるほど。「家にある本の冊数」が親の所得や学歴などの指標となるのか。記事はここから子どもの学力の低下と経済的格差の方向との関連も指摘しているようだ。
さらに親が子どもの良い成績にこだわらなくなっている傾向にも指摘している。これはある種の多様性の指摘だろうか。
でも記事を読んで一番に思ったことはこれだ。
「子の学力低下」は実は「大人の学力低下」ではないのかということ。昔からいうではないか、「子は親の鏡」って。
ゲームやスマホに興じているのは子どもだけではない。多分、大人がスマホばかりしているからということだ。
最近はあまり通勤電車などに乗らないけれど、たまに電車に乗ればみんなスマホばかり見ている。本や雑誌を読む人なんて誰もいない。電車の中で新聞を読む人など完全に死滅してしまったかもしれない。混んでいる電車で新聞を読むのも、今となってはけっこう迷惑行為かもしれないが、なかには器用に折りたたみながら紙面を読んでいる大人が沢山いたものだ。
電車の中でスマホばかり見ているが、それでは何を見ているのか。SNSかニュースサイトあたりか。動画やゲームをしている人もけっこういる。
大人がスマホ、デジタル機器に依存しているのだから、子どもたちもそうなるのは仕方がないのだろう。
家にある本が0~25冊という層はなにも経済的困窮で本を買えないのではない。本を買う、読む習慣がないまま家庭をもち、子どもを育てている大人が増えているということなのではないか。高収入なら本を買うのか、たぶんそんなことはないのだろう。
本など読まなくても、スマホやなどデジタル機器で情報をいくらでも取得できる。読書などかえってコスパが悪いという意見もあるだろう。でもスマホやタブレット、パソコン画面で一方的に流れてくる情報を受容するだけでは、多分情報を読み解く力、リテラシー能力は身につかないような気がする。
個人的な話をすれば、いちおう通信教育の学生をしている。レポートなどを書くときに様々な文献にあたる。パソコンで検索した論文などがPDFで入手することも多い。そうした論文を画面だけで読んでいくか。もちろんそういうことも多い。でもたいていの場合は、プリントアウトしてから傍線を引いたりして読んでいくことの方が多い。このてのPDFでは、注や参考文献にとくにハイパーリンクなど設定されていないから、一つ一つ検索したり、図書館でレファレンスしたりする。でもそういうことが、結局リテラシー能力を鍛えることに繋がるのじゃないかと思ったりもする。
ランダムに、あるいはある種の意図をあって一方的に流れてくる情報を、字面を追うだけ、動画視聴などで聞き流す、見流すだけ、そういう受容あるいは消費するだけでは、読み解く力など多分身につくことはないだろう。
「子の学力低下」は「大人の学力低下」であり、「社会全体の学力低下」なのではないかと思える。
一方でリタイアした高齢者の自分に、さほどの学力が身についているか、偉そうに学力、知性を主張できるのかといえば、たぶんたいしたことはなさそうだ。でも今では本は買うよりも捨てるほうが圧倒的に多くなっているとはいえ、たぶん我が家にはまだ1000冊程度は本がある。うちの子どもが小さかった頃にはその倍以上はあったかもしれない。
思い返すと、結婚して、家を買ってからは、住環境は広くなるのと反比例して蔵書はどんどん減っていったかもしれない。団地からマンション、一戸建てと引っ越すたびに、本を段ボール箱で何10箱と捨てていった。それでも自分的には、家にある本が0~25冊というのはちょっと想像がつかない。
ここ20年くらいだろうか、反知性主義という言葉をよく目にする。本など読む必要はない、逆に本を読む層、インテリなどは小賢しい存在だ。たいていサヨクやリベラルで理屈ばかりこねている。そういうのはもう古い。オールドな教養などなくても、デジタルデバイスを駆使すれば適切な情報はいくらでも取得できる。そんな感じだろうか。
子どもの学力は文科省が定期的に調査している。でも大人の学力が測る調査や指標はあるのだろうか。
先進国では自国第一の民族主義、排外主義や横行している。宗主国アメリカではトランプが復帰し、アメリカファーストというスローガンを元に関税主義を打ち出している。それに倣ってだろうか、日本でも「日本ファースト」をスローガンに極右政党が勢力を拡大している。賃金を上げるための施策ではなく、税控除によって手取りを増やすというまやかしのような主張を繰り広げるポピュリズム政党も党勢拡大している。
安易な排外主義による自国優先思考、減税と社会保障費の低減、結果として国や自治体による公助を減らし、自助によって成立する自己責任社会。それはセーフティネットの網目をどんどん粗くしてしまうので、いったん失敗するとリカバリーは難しく、どんどんと負のスパイラルにからめとられ、底辺に底辺にと堕ちていく。
アメリカでのトランプの出現、日本での極右の台頭、これらは反知性主義の蔓延と軌を一にしているかもしれない。それはそのまま社会の学力の低下の実相ではないか。大人の学力の低下、知力の低下が、そのまま「鏡」として「子どもの学力低下」として現れている。そういうことなのかもしれない。
しかしそうして学力低下した子どもによって形成される次の社会は、どんな風になっていくのだろうか。リテラシーが欠如した人々は、簡単に情報操作によって都合よく支配されていくのだろうか。権力者、あるいはグローバルな経済的権益を握るビッグ・テックのいわれるままに支配され、管理されていくのだろうか。
そうとは気づかずに、一方的に流れてくる情報をあたかも能動的に取得していると錯覚しながら、情動面も含めてコントロールされる。オーウェルの描いたディストピアは、おそらく相当以前から完成されているのかもしれないか、などと思ったりもする。