長嶋茂雄逝く

 朝、リビングに降りると妻が言う。

「長嶋が死んだみたいよ」

 ネットで確認をする。

長嶋茂雄さんが死去、89歳 「ミスタープロ野球」の元巨人監督 [長嶋茂雄さん]:朝日新聞

長嶋茂雄終身名誉監督が死去
2025.6.3

チーム

 読売巨人軍長嶋茂雄終身名誉監督が3日午前6時39分、肺炎のため、東京都内の病院で死去しました。89歳でした。

https://www.giants.jp/news/26394/

 いつかその日が来ることは判っていた。でも実際にその事実の報を受けると、なにかたまらなく淋しい。

 

 長嶋茂雄はずっとアイドルだった。一プロ野球選手ということではなく、自分の少年時代のヒーロー、昭和、戦後のヒーロー、アイドル、アイコン、そういう存在だった。

 石原裕次郎美空ひばり昭和天皇、彼らに肩を並べる、あるいはそれを超える存在だった。あくまで個人的なことである。長嶋茂雄は私のアイドルだった。

 プロ野球選手としては、おそらく王貞治のほうがはるかに素晴らしい選手だったに違いない。野村や張本、ピッチャーの金田、長嶋を超える存在、記録をうちたてた選手は数多いただろう。長嶋や王が引退してからも、落合やイチローのようなスタープレイヤーがたくさんいた。でも長嶋は彼らとは違う。

 1973年の巨人阪神戦、阪神の上田二朗は9回ツーアウトまでノーヒットノーランを続けていた。最後のバッター長嶋だ。テレビを見ながら長嶋はなんとかしてくれる。ノーヒットノーランを阻止してくれる。そんな祈るような気持ちで見ていた。そして長嶋は左前にヒット打った。やっぱり長嶋だと思った。

 試合の結果はほとんど覚えていない。だいぶ後になってから調べると、阪神が勝ち、上田は一安打完封勝利だったという。でもそんなことはどうでもいいことだ。長嶋がノーヒットノーランを阻止したという記憶だけが残った。

 

 ずっと巨人ファンだった。というより長嶋がいる巨人のファンだったというのが正しいかもしれない。1974年長嶋が引退し、監督になってからもいちおう巨人ファンだった。監督初年度、新浦を使い続け、負け続けた。初めての外国人選手ジョンソンはジョン損と呼ばれ低調だった。それでも巨人を応援し続けた。 

 たぶん巨人ファンをやめたのは1978年の江川と小林のトレードがあったあたりか。そしてたしかその年あたりに大洋ホエールズが川崎から横浜にフランチャイズを移した。そして長嶋は1980年に巨人の監督を辞めた。復帰したのは12年後の1992年だっただろうか。

 そのときのことを矢作俊彦はこんな風に綴っている。

 我々が求めたのは、この男がいる野球場だった。この男が行うことがすべてだった。思えば彼の職業は野球監督でも、野球選手でもなかったのだ。

 そう! 彼の職業こそが長嶋茂雄だった。こと長嶋茂雄をやらせたら、これほどのプロを我々は他に知らない。勝ち負けなど、その前にあって不毛だ。

 

 過ち二度と繰り返すまい。光は世に戻った。富士にこそ桜、後楽園に長嶋。この男の在るところ、地球のすべてが後楽園。

『新ニッポン百景』 矢作俊彦 小学館 1995年8月

 そうだ、富士に桜のように、長嶋は戦後ニッポンの象徴だったのかもしれない。

 長嶋ファンはえてして彼を戯画化する。つかこうへいは彼の戯曲=小説のなかで、長嶋が病人の前で「素振り」をすれば、病人はたちまち快癒すると書いた。それは皮肉なギャグでもなんでもない。長嶋ファンならなんとなくそれを受け入れられるのだ。「一緒に素振りしよう」と長嶋が言えば、それで福音がもたらされる。

 いっとき酒を飲んで長嶋談義を友人と始めると、自分は「天皇制」を廃止して、一代限りの「長嶋制」にしようと吠えたそうな。そう、長嶋は国民統合の象徴にふさわしい。国会開会に臨場して彼はこう宣言する。「みんな素振りをして、良い政治を行おう」

 

 ろくでもない話はこれくらいにする。月並みだが長嶋茂雄の死によって、昭和が、20世紀が完全に歴史の一部になってしまったことを改めて再認識する思いだ。そして淋しい、たまらなく淋しい。

 

 押し入れの衣装ケースを、ひょっとしたらと思って漁ってみると小さなユニフォームが見つかる。自分が4~5歳の頃のものだ。父親が買ってくれた。嬉しくて、嬉しくて、毎日ユニフォームを着ておもちゃのバットで素振りをした。かれこれ65年前のことだ。

 今、その皴だらけの、ところどころにシミのある小さなユニフォームを前にして、感傷的になっている自分がいる。

 長嶋茂雄が死んでしまった。

 ご冥福を祈ります。